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中東政治経済レポート:トルコ政治——民族主義者行動党はなぜ大統領制に賛成したのか

中東レビュー

Volume 4

2017年3月発行
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憲法改正案が議会を通過

2017年1月21日、トルコ大国民議会において憲法改正案が340議席の賛成により可決した。そして、憲法改正の是非を問う国民投票が4月16日に行われることが決定し、ここで過半数の賛成があれば、正式に憲法改正の運びとなる。現在の憲法は、1982年11月に制定されたものだが、EU加盟との関連などで、2000年代に入りたびたび修正されてきた1。また、2010年9月12日には憲法改正の国民投票が行われ、26の条約が改正されている。その中でも、今回の憲法改正に向けた取り組みが大いに注目される理由は、18項目における改正の中に大統領が国家元首としてだけではなく、行政の長も兼ねるとする第104条の改正が含まれているからである。

大統領が国家元首と行政の長を兼ねるという実権的な大統領制については、2014年8月に行われたトルコで初めての国民の直接投票による大統領選挙でレジェップ・タイイップ・エルドアンが勝利した後、エルドアン自身がたびたび言及していた。しかし、他党は実権的大統領制に強く反対し、国民も懐疑的な姿勢を見せてきた。2015年6月の総選挙でエルドアンの出身政党である公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi)は2002年11月の選挙以降維持してきた単独与党の座を一時的に失ったが(同年11月の総選挙で再び単独与党となる)、その原因の1つがエルドアンによる大統領制への度重なる言及だと指摘された。

それでは2015年6月からわずか1年半しか経っていないにもかかわらず、どうして大統領制は議会を通過するまでに正当性を高めたのだろうか。その大きな要因の1つは、2016年7月15日のクーデタ未遂事件であった。この国家転覆の危機をエルドアン大統領のリーダーシップの下で回避したことで、国民のエルドアン大統領への支持および信頼が強まった。しかし、国民の支持が多いだけでは議会で大統領制への移行を含む憲法改正案が通過することは難しい。憲法改正に関しては、大国民議会の全550議席中367議席の賛成があれば議会を通過し、大統領が承認するだけで改正となる。また330議席の賛成があれば、議会通過後、国民投票でその是非を問うことが可能である。公正発展党は316議席を有しているが、それだけでは330議席には達しない。それではどうして330議席以上(340議席)を確保することができたのか。その理由は、大国民議会で40議席を有する民族主義者行動党(Milliyetçi Hareket Partisi)が公正発展党支持に回ったためである。本稿では、民族主義者行動党について概観したうえで、なぜ同党が公正発展党の憲法改正案を支持するようになったのかについて検討する。



民族主義者行動党とは

民族主義者行動党はトルコで最も影響力のあるナショナリスト政党である。ヨーロッパのナショナリスト政党は排外主義をその特徴とするが、民族主義者行動党もトルコ国内では独立あるいは自治を掲げるクルド人勢力を敵視している。ただし、ヨーロッパのナショナリスト政党がその出自を重視するのに対し、民族主義者行動党は多様な民族が入り混じるトルコの実情を踏まえ、出自よりも「トルコ人」というアイデンティティーに重きを置く。

民族主義者行動党の起源は1958年に創設された共和農民党にあるが、特に1965年に元軍人であるアルパスラン・トゥルケシュ2が入党してから存在感を高めた。共和農民党は1969年に民族主義者行動党となり、トゥルケシュが初代党首に就任した。1970年代には2度、連立政権に加わり、首相補佐官を経験した。1970年代、世界の他の地域同様、トルコでも右派と左派の抗争が激化した。民族主義者行動党は右派陣営の後ろ盾として抗争を激化させたとし、1980年の9月12日に軍部が起こしたクーデタで他の既存の政党と同様に解党させられた。その後、1983年に保守党として再始動し、1985年に民族主義者労働党、そして92年に元の民族主義者行動党と党名を変更した。

トゥルケシュはカリスマ的な指導者であったが、彼は選挙で成功を収めることはできなかった。1980年9月12日クーデタ前で最も高い得票率を記録したのは1977年総選挙の6.42%であった。1982年憲法では、少数政党が乱立するのを防ぐため、得票率が10%以下の政党は議席を獲得できない10%足切り条項が導入された。これは民族主義者行動党にとって痛手であった。トゥルケシュの指導の下では、福祉党と選挙協力した91年総選挙に16.9%の得票を得た以外は10%の壁をなかなか破ることができなかった。契機となったのは、皮肉にも1997年にカリスマ的指導者であったトゥルケシュが死去したことであった。トゥルケシュ後、新たに党の指導者となったのが、現党首のデヴレット・バフチェリである。元大学教授で経済を専門とするバフチェリの党首への選出は、民族主義者行動党の中道化、穏健化を意味した。バフチェリ体制下で初の選挙となった1999年総選挙で、民族主義者行動党は約18%の得票率を獲得し、第二政党へと躍進し、連立与党となった。その後、公正発展党が躍進した2002年の選挙では8%の得票率で議席獲得を逃がしたが、2007年、2011年、2015年の2度の総選挙ではいずれも議席を獲得している。カリスマ性はトゥルケシュに劣るが、党運営に関してはバフチェリの方が優秀だと結論づけられる3



党内結束の乱れと7月15日クーデタ未遂

2015年6月の選挙後から、民族主義者行動党の結束は乱れ始めた。同選挙では単独与党が出ず、第一党となった公正発展党のアフメット・ダーヴトオール首相(当時)が各政党に11月の再選挙までの暫定内閣の立ち上げに協力を要請した。バフチェリはこの要請を断ったが、トゥルケシュの長男で民族主義者行動党の有力者であったトゥールル・トゥルケシュ4はバフチェリの意向に反し、この要請を個人的に受諾した。この行動が造反であるとし、トゥルケシュは同年9月5日に民族主義者行動党を離党させられ、その後、11月の再選挙に公正発展党の候補として出馬し、現在は首相補佐官を務めている5。さらに11月の再選挙で民族主義者行動党は、6月の選挙の際には16.3%であった得票率が11.9%まで下落し、獲得議席数は得票率では下回るクルド系の人民民主党(Halkların Demokratik Partisi)の59議席よりも少ない40議席に終わった。この結果、バフチェリの指導体制に党内から懐疑的な声が上がり始めた。特に正道党(Doğru Yol Partisi)の議員として90年代に内務大臣を務めたメラル・アクシェネル6は、11月の再選挙で候補に含まれなかったことを不服とし、バフチェリを批判し、新たな党首候補に名乗りを上げた8。しかし、結果としてアクシェネルの主張は退けられ、アクシェネルは2016年9月に離党宣告を受け、12月に正式に離党が決定した。

党内の足並みの乱れに加えて、7月15日クーデタ未遂が民族主義者行動党に打撃を与えた。7月15日クーデタ未遂後、エルドアン大統領と公正発展党を中心に、トルコの一体性が強調されトルコ・ナショナリズムが高揚した。公正発展党はイスラームを重要視する、親イスラーム政党としての側面が強調されがちだが、トルコ・ナショナリズムを重視する中道右派政党でもある。クーデタ未遂後、公正発展党は後者のトルコ・ナショナリズムに力を入れ、同様の主張を展開する民族主義者行動党の支持者たちの取り込みに成功したと言われている 。公正発展党が2015年7月にクルディスタン労働者党(PKK)との停戦交渉を打ち切り、PKKのテロ行為には妥協しない姿勢を採り続けたことも民族主義者行動党の支持者たちを引き付けるうえでプラスに働いた。



バフチェリの方針転換

このように、党内の足並みの乱れと7月15日クーデタ未遂で求心力が低下したバフチェリは賭けにでる。これまで頑なに反対してきた実権的大統領制への移行に理解を示し、公正発展党と協調していくことを明確にしたのである 。2016年11月に憲法改正を前向きに支持していくことを発表し、12月10日に公正発展党と民族主義者行動党は21項目の憲法改正を大国民議会で審議することを要請した 。そして前述したように2017年1月21日に18項目における憲法改正案が大国民議会で可決された 。仮に4月16日の国民投票で憲法改正が正式に決定した際には新たに創設される副大統領の1人にバフチェリが就任するのではないかと予想されている。

公正発展党と民族主義者行動党の「ナショナリズム同盟」により、憲法改正案は大国民議会を通過したが、国民投票を経て憲法改正が正式に決定する可能性は五分五分と見られている。世論調査の結果も賛成が40%から60%まで割れている。また、民族主義者行動党も決して一枚岩で公正発展党に協力しているわけではない。1月には党首補佐官のアティラ・カヤが憲法改正に反対し、辞任している 。

これまでのところ、バフチェリの賭けは成功しているように見えるが、党内でも反対意見があり、求心力を完全に回復できたかは定かではない。また、公正発展党と密接な関係を築いたことで、有権者からすると公正発展党と民族主義者行動党の違いが分かりづらくなった。今後、バフチェリがどのような党運営を行い、党の存続および党内での彼自身の生き残りを図っていくのか、引き続き注視していきたい。



(2017年3月10日脱稿、地域研究センター 今井宏平)


脚注

  1. EU加盟交渉に伴う憲法の修正と法改正の詳細に関しては、Republic of Turkey Ministry of Foreign Affairs Secretariat General for EU Affairs, Political Reforms in Turkey, 2007; 間寧「加盟交渉過程のトルコ政治への影響」八谷まち子編『EU拡大のフロンティア:トルコとの対話』信山社、2007年、145-172頁を参照。
  2. 1917年にキプロスで生まれたトゥルケシュは元々軍人であり、1960年5月27日クーデタの中心人物の1人であったが、過剰に軍部中心の政治を志向したため、軍の中枢部から遠ざけられ、政界に入った。
  3. 民族主義者行動党の概要、特にバフチェリが党首となったことのインパクトに関しては、Alev Çinar and Burak Arıkan, “The Nationalist Action Party: Representing the State, the Nation or the Nationalists?”, Barry Rubin and Metin Heper (eds.), Political Parties in Turkey, Frank Cass, 2002, pp. 25-40.
  4. 1954年生まれのトゥールル・トゥルケシュは、アルパスラン・トゥルケシュの死後に行われた民族主義者行動党の党首選に出馬したものの、バフチェリに敗れ、同党を去ったが、2007年の総選挙前に復党し、2007年、2011年、2015年6月の総選挙で当選していた。異母兄弟で1978年生まれのアフメット・トゥルケシュは2011年の総選挙で公正発展党から出馬し、当選していたが2015年5月に辞任した。
  5. "Tuğrul Türkeş MHP'den ihraç edildi", Hürriyet, 5 Eylül, 2015; "Tuğrul Türkeş AK Parti'den milletvekili adayı", Hürriyet, 18 Eylül, 2015.
  6. 1956年生まれのアクシェネルは1995年に中道右派政党である正道党から出馬し、議員となり、翌96年11月から97年6月まで内務大臣を務めた。その後、2001年に正道党を離れ、公正発展党の立ち上げに関与するも結局同党に所属することはなく、民族主義者行動党へと移った。同党では、2007年、2011年、2015年6月の総選挙でイスタンブルから出馬し、当選していた。
  7. "MHP'de liste bombası: Meral Akşener listede yok", Hürriyet, 18 Eylül, 2015; Gonca Şenay, "MHP'de 3 iddialı aday", Al Jazeera Türk, 1 Aralık, 2015.
  8. Fikret Bila, "AK Parti-MHP ittifakı (2): İdeolojik yakınlık", Hürriyet, 20 Ocak, 2017.
  9. Fikret Bila, "AK Parti ve MHP açısından başkanlık", Hürriyet, 16 Kasım, 2016.
  10. "Anayasa değişikliği teklifi TBMM Başkanlığı'na sunuldu", BBC Türkçe, 10 Aralık, 2016.
  11. "Anayasa değişikliği teklifi 339 oyla Meclis'ten geçti", BBC Türkçe, 21 Ocak, 2017.
  12. "MHP'de Atila Kaya istifa etti", Hürriyet, 4 Ocak, 2017.


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巻末の表紙写真:<背景>アブダビ、シェイク・ザーイド・グランド・モスクのメインホールの壁装飾、<右下>UAE建国記念日に行われた航空ショー(以上、齋藤純 撮影)、<左下>リヤド市内の王族の肖像(石黒大岳 撮影)