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論考: アフリカの「三選問題」——ブルンジ、ルワンダ、コンゴ共和国の事例から——

アフリカレポート

No.54

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■ 論考: アフリカの「三選問題」——ブルンジ、ルワンダ、コンゴ共和国の事例から——
武内 進一
■ 『アフリカレポート』2016年 No.54、pp.73-84
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要 約
ブルンジ、ルワンダ、コンゴ共和国では、いずれも2015年に大統領の三選禁止規定が変更されたが、その影響は大きく異なった。ブルンジでは激しい抗議活動と弾圧によって政治が著しく混乱したのに対し、コンゴでは抗議活動はほぼ封じ込められ、ルワンダでは抗議活動すら起こらなかった。抗議活動の強弱は、反政府勢力の組織力に依存する。ルワンダとコンゴでは、1990年代の内戦に勝利した武装勢力が政権を握り、国内に強力な反政府組織が存在しないうえ、経済的資源の分配を通じて反対派を懐柔できた。一方、国際社会の仲介によって内戦が終結したブルンジでは、権力分有制度のために反政府勢力が強い影響力を保持し、また反対派を懐柔するための資源も乏しかった。「三選問題」が示すのは、民主的な政治制度を採用しつつそれを形骸化させる政権の姿勢だが、それは冷戦後のアフリカで形成された政治秩序の一つの類型でもある。
キーワード : アフリカ 大統領 憲法 三選禁止 内戦
問題の所在
米国やフランスなど大統領の三選が禁じられている国は少なくないが、近年のアフリカではこの三選禁止規定が注目されている。規定にもかかわらず大統領選挙に出馬する、あるいはそれに抵触しないよう選挙前に憲法を変える事例が続いているからである。2015年には、ブルンジ、ルワンダ、コンゴ共和国(首都ブラザヴィル。以下、コンゴと略す)の3カ国でそうした動きが見られた。

これらの国ではいずれも三選禁止規定が破られたわけだが、それがもたらした結果は大きく異なった。ブルンジでは、出馬に踏み切ったンクルンジザ(P. Nkurunziza)大統領に対する激しい抗議とそれに対する徹底的な弾圧が政治の混乱を招き、クーデタ未遂事件まで引き起こすに至った。国際社会はンクルンジザの三選出馬と抗議への弾圧を非難し、野党勢力と対話するよう説得にあたったが、政権側は全く譲歩しなかった。抑圧された反政府勢力は武装闘争を開始し、ブルンジの治安は著しく悪化した。これに対し、コンゴでは抗議活動は行われたもののブルンジほどの混乱には至らず、ルワンダでは抗議デモすら行われなかった。この違いは何に由来するのだろうか。以下では、3カ国の政治過程を跡付け、統治のあり方を比較することで差異を説明する。

最高権力者が三選禁止規定を改変して政権に留まり続ける現象(以下では「三選問題」と呼ぶ)は、統治者個人のパーソナリティに起因するというより、当該国における政治権力の性格など広い文脈に位置づけて考えるべき問題である。冷戦終結後のアフリカでは、多くの国が一党制から多党制へ移行し、民主的な政治制度が一般に採用されるようになったが、その文脈において「三選問題」が顕在化している。こうした権威主義的な動きが冷戦後アフリカにおける政治秩序形成の一類型を成していることについても、本稿の最後に触れたい。
1.ブルンジ
ブルンジの三選禁止規定の根拠は、「共和国大統領は直接普通選挙で選出され、5年の任期を1回更新可能である」と規定された、2005年3月18日憲法第96条にある[République du Burundi 2005]。この憲法は、1990年代に勃発した長期の内戦を終結させ、その再発を防止することを主眼に置いて制定された。

ブルンジは、1993年10月に起こった大統領暗殺事件をきっかけに内戦に突入した。この国では長く人口的少数派のトゥチが国軍を基盤に政治権力を独占してきたが、1993年6月に実施された自由で競争的な選挙の結果、人口的多数派のフトゥを支持基盤とするンダダエ(Melchior Ndadaye)が大統領に選出された 1 。しかし、急激な政治改革を恐れる国軍は、選挙からわずか4か月後にンダダエを拉致、殺害してしまう。これに対してフトゥのなかに反政府武装闘争を遂行する組織が生まれ、民衆の間に支持を広げていった。最大の反政府武装勢力が「民主主義防衛国民会議・民主主義防衛軍」(Conseil national pour la défense de la démocratie–Forces pour la défense de la démocratie: CNDD-FDD)であり、ンクルンジザはその指導者であった。

ブルンジ内戦は軍事的に決着せず、国際社会の仲介によって2000年に和平協定(アルーシャ協定) 2 が結ばれた。アルーシャ協定の最大の特徴は、和平の方策としてトゥチ、フトゥ間の権力分有が合意されたことである。協定は、ブルンジの紛争を「(a)基本的に政治的で、極めて顕著にエスニックな局面を有した。(b)権力の獲得、またその保持を目的とした政治階級の闘争から生じた」(第I議定書第4条)と性格付けたうえで、紛争の解決策として「ブルンジ社会のあらゆる構成要素(toutes les composantes de la société burundaise) 3 を統合し、安心させるための国家制度の再編」(第I議定書第5条第2項)が必要だとの認識を示した。政治的な要因で発生した紛争がエスニックな動員を引き起こさないよう、制度構築がなされるべきだとの認識で合意したわけである。約3年半の移行期ののち、この合意に基づいて2005年憲法が採択され、そこで特にトゥチ、フトゥ間の厳密な権力分有制度が規定された。

同じ年の6~7月に実施された選挙では、CNDD-FDDが上下両院で第一党となった。CNDD-FDDは2000年の段階では停戦に応じず、アルーシャ協定に参加していなかったが、2003年に停戦に合意し和平協定の枠組みに参加した。内戦を戦い抜いた元ゲリラへの民衆の支持は厚く、文民政党化したCNDD-FDDが選挙で大勝利を収めたのである。そして、「移行期終了後最初の大統領は上下両院の合同議場において3分の2以上の多数を獲得した者が選出される」とのアルーシャ協定の規定(第II議定書第20条第10項)に従って、2005年8月19日、ンクルンジザが議会で大統領に選出された。

紛争後ブルンジの政治制度やそこでのCNDD-FDDの振る舞いについては繰り返さないが[武内2013; Takeuchi 2013]、その特徴は3点にまとめられる。第1に、エスニック集団間の厳密な権力分有制度が導入された。内閣や下院のエスニックな構成をフトゥ60%、トゥチ40%とする、軍や警察など治安機関では50%対50%にする、選挙制度を拘束名簿式比例代表制として各政党がエスニシティやジェンダーの面で偏らないようにする、といった制度的枠組みが導入された。こうした制度は2000年のアルーシャ協定で大枠が合意され、2005年憲法に詳細な規定が盛り込まれた。第2に、かかる権力分有制度は公的に支持され、遵守された。ブルンジの内閣、議会、政党、治安機関などでは、憲法に従ってマルチエスニックな構成が実現した。ンクルンジザが三選された今日、治安機関から反大統領派の離脱やパージが相次ぎ、エスニックなパワーシェアリングは実質的に崩壊したが、政権は相変わらずその遵守を主張している。

第3に、公的には権力分有制度を遵守する一方で、CNDD-FDDは一貫して国家機構に対する影響力強化を追求し、対抗勢力の抑圧を図った。野党側はこれに強く反発し、2010年総選挙の際にはボイコット戦術を採ったが、ボイコットによって議会の圧倒的多数を得たCNDD-FDDは強権化傾向を一層強めた。公的にはエスニックな権力分有制度が存在しても、実態としてはCNDD-FDDの中核であるフトゥの元兵士に権力が集中しているとの指摘は既に第一期ンクルンジザ政権の時からなされていたが[ICG 2006]、二期目に入るとその傾向は露骨になり、政権中枢からアルーシャ協定をないがしろにする発言さえ聞かれるようになった[ICG 2011; 2012]。

ブルンジ憲法は三選を禁じており、常識的に考えれば2015年に予定された大統領選挙にンクルンジザは立候補できない。しかし、この選挙に対するンクルンジザとCNDD-FDDの方針は、長く不透明なままだった。ブルンジの市民社会や国際社会は早くから三選を牽制し、その意図を公に否定するよう求めたが、ンクルンジザは曖昧な態度を取り続けた。しかし、2015年に入ると三選断念を進言した治安機関幹部を更迭し、同様の公開書簡を送った与党幹部を除名するなど、政権継続に向けた意図が次第に明らかになる 4 。そして、4月25日の党大会で、CNDD-FDDはンクルンジザを大統領選挙の候補者に決定したのである。

与党側が三選出馬を正当化した論理は、2005年にンクルンジザが最初に大統領に選出された際、憲法に定められた直接普通選挙ではなく議会による指名だったため、一期目は大統領任期に含まれないというものだ。しかし、先述の通り、移行期間終了後最初の大統領が例外的に議会で選出されることはアルーシャ協定の定めによるものであり、これを三選出馬の理由とするのは暴論である 5 。ンクルンジザの出馬表明と同時に首都ブジュンブラを中心に大規模な抗議デモが展開され、国際社会からも非難が相次いだ。

これに対して政権側は全く譲歩せず、抗議活動に徹底的な抑圧で臨んだ。政権はまず、大統領三選出馬の法的正統性を強引に打ち立てた。野党の要求で三選出馬の妥当性を憲法裁判所が判断することとなったが、当局のあからさまな圧力によって裁判所副議長が亡命したのち、合憲との判断が5月5日に下された。大規模な警官隊を投入して連日の抗議デモを封じ込め、5月13日に治安機関内反体制派が試みたクーデタの鎮圧に成功したあとは、軍や警察をはじめ政府内反体制派の取り締まりを強化した。この結果、市民社会の活動家はもとより、政府や与党、治安機関などからも多数が亡命を余儀なくされた。そうしたなかで7月21日に大統領選挙が実施され、ンクルンジザの当選が決まったのである。

政権側の徹底的な弾圧のなか、反政府勢力は地下に潜って武装化し、要人を標的として暗殺を繰り返すようになった。ンクルンジザの三選出馬宣言から1年を経た今日、抑圧によって抗議デモは見られなくなったものの、首都では毎日のように手榴弾による攻撃や要人の暗殺が起こり、治安の悪化が常態化している。中国やロシアを除く主要国は援助を手控え、ブルンジの外交的孤立は明らかだが、それでも政権側は一切の譲歩を拒んでいる。
2.ルワンダ
ルワンダ大統領の三選禁止規定は、2003年6月4日に制定された憲法の第101条に見出すことができる[Republic of Rwanda 2003]。条文には「共和国大統領は7年の任期を1回のみ更新可能である。いかなる場合も、2期以上の大統領任期を務めることはできない」とある。

この憲法が制定されたのは、1994年に終結したルワンダ内戦から9年後のことである。トゥチ難民を中核とする反政府武装勢力「ルワンダ愛国戦線」(Rwandan Patriotic Front: RPF)の侵攻によって1990年に勃発したルワンダ内戦は、国内のトゥチを主たる標的としたジェノサイドを経て、4年後にRPFの勝利で終結した。軍事的勝利を収めたRPFは、敵対勢力を国内から追放し、政治権力を独占した。政権掌握直後はフトゥの政治家を要職に起用するなどエスニックな権力分有の姿勢を示したものの 6 、彼らは次第にパージされ、内戦期武装勢力の中枢を担ったトゥチの元軍人が政権を担うようになった。その代表は、新政権の副大統領兼国防相として実質的な最高権力を行使し、2000年以降大統領となった元RPF総司令官のカガメ(P. Kagame)である。新憲法制定と選挙実施までに内戦終結から9年を要したのは、RPFの統治体制が十分に安定するのを待ったためであった。

そうした状況下で制定された憲法には、少数派トゥチを中核とするRPFの統治永続に資する仕組みが盛り込まれている。下院の約3分の1、上院の全議席が普通選挙ではなく任命や互選で決まることや、「国民の分断」を処罰の対象と規定していることはその例である。RPFは政府と一体化しており、普通選挙を通さない議員の任命に決定的な影響力を行使できるし、「国民の分断」を口実として反体制派の取り締まりが可能になる[武内2010; Takeuchi 2013]。実際、下院選挙に際して有力野党が解党を命じられたり、大統領選挙に際してカガメの対抗馬が当局の取り締まりを受け、あるいは逮捕されるなど、反体制勢力には露骨な抑圧が加えられた[Takeuchi 2011]。こうした枠組みの中でカガメとRPFは常に選挙で圧勝し、国内的にも治安の安定を実現してきた 7

2003年憲法の条文に従えば、カガメは2017年の大統領選挙に出馬できない。この制約を打破するために、2015年に憲法当該条文が改正された。これには入念な手続きが採られた。2015年前半、大統領任期の延長を求めるキャンペーンが行われ、憲法第101条を改正しカガメの任期延長を可能とするよう求める国民の請願が大量に上下両院に送られた。政府系英字紙は、その数が378万4586通に達したと報じている[The New Times 15 July 2015]。ルワンダの総人口は約1000万人だから、単純に考えれば成人のほとんどが請願を送ったことになる。7月15日、請願を受けた上下両院は圧倒的多数で憲法改正に支持を表明し、そのうえで全国を回って一般の人々から意見聴取を行った。これ以降10月まで、The New Timesのような政府系有力紙では連日カガメの任期延長を求める国民の声が紹介された。10月末、2003年憲法第101条の条文を改正し、大統領任期を5年とし2期まで再選可能とする(ただし、移行期間として7年の任期を1期だけ置き、カガメの出馬を認める)案が議会に上程され、圧倒的多数をもって両院で可決された。そして、12月18日、憲法改正案はレファレンダムに付され、98.3%の賛成をもって採択された。これにより、カガメは2034年まで合法的に大統領の座に留まることが可能となった。

この間、ルワンダでは憲法改正に反対する声はほとんど報じられなかった。抗議デモは見られず、公に反対を唱えたのは議席を持たない「民主緑の党」(Democratic Green Party)だけだった。カガメ三選は、国内に政治的混乱を引き起こさなかったと言ってよい。憲法改正に対して米国など国際社会は批判したが[Le Monde 19 décembre 2015]、カガメ政権は国民の声を尊重したとしてその批判に取り合わなかった。
3.コンゴ共和国
コンゴ共和国の三選禁止規定は、2002年憲法第57条に見出せる[République du Congo 2002]。そこでは、「共和国大統領は直接普通選挙によって7年の任期で選出される。それは一回再選可能である。」と規定されている。加えて、第58条では「立候補受付時に40歳以上70歳未満でない者」は大統領選挙の被選挙権を持たないと定めており、当選回数に加えて年齢によっても大統領選挙の立候補資格に制限が加えられていた。また、この憲法は大統領任期に関する条文の改訂を認めていないため(第185条)、任期を変えるためには新たな憲法の制定が必要となる。

2002年憲法は、内戦終結の5年後に定められた。憲法制定に至る政治過程を簡単にまとめておこう。冷戦期、コンゴはマルクス=レーニン主義を標榜し、「コンゴ労働党」(Parti Congolais du Travail: PCT)の指導の下、1979年以降はサスー(D. Sassou-Nguesso)が大統領を務めていた。しかし、冷戦終結とともにマルクス=レーニン主義を放棄して多党制を導入し、1993年に議会選挙、大統領選挙を実施した。この選挙では中南部に支持基盤を持つ「社会民主主義パンアフリカ連合」(Union Panafricaine pour la Démocratie sociale: UPADS)とその候補者リスーバ(P. Lisouba)が勝利した。UPADSの議席は過半数に満たなかったため、リスーバはサスーを代表とするPCTと連合を組んで政権運営にあたったが、ポスト配分をめぐって両党は離反してしまう。不安定化したリスーバ政権に野党側が大衆動員で揺さぶりをかけるなか、デモ隊への発砲によって死者が出たことをきっかけとして反政府運動が先鋭化し、1993~94年にかけて首都ブラザヴィルは各政党の民兵が衝突する内戦状態となった[武内1994]。

1994年2月に停戦合意が成立し、状況はいったん収拾へと向かったが、1997年に選挙が近づくと再び緊張が高まり、同年6月から10月にかけて民兵勢力間で激しい戦闘が勃発した。結局、近隣の大国アンゴラの支持を取り付けたサスーが、その軍事介入を引き出して内戦に勝利を収めた。サスーは北部の出身で、エスニック集団としてはンボシ(Mbochi)を支持基盤とする。コンゴの人口は南部に集中しており、南部を支持基盤とする政党の方が選挙で多くの得票を期待できる。1992年選挙におけるPCTの下野はそれを反映したものだが、サスーは5年後に軍事力で政権を奪い返したわけである。首都を制圧した後も、南部プール州では数年にわたり民兵組織「ニンジャ」による騒乱が続いた。「ニンジャ」とは、もともとプール州出身の政治家コレラ(B. Kolélas)を指導者とする政党「民主主義と統合的発展のためのコンゴ人運動」(Mouvement Congolais pour la Démocratie et le Développement Intégral: MCDDI)の民兵組織であった。サスーは、民兵組織の指導者ントゥミ(P. Ntumi)の政権への取り込みを図ったが果たせず、プール州では政情不安が続いた。それでも2000年代に入ると、主要輸出産品である石油の価格上昇によってコンゴ経済は急成長し、それに伴い政権も次第に安定した。

2002年憲法の制定以降、下院選挙は5年ごとに実施され、いずれもPCTとその同盟政党が圧倒的勝利を果たした。2002、2007、2012年の下院選挙で、PCTの議席数はそれぞれ53(総議席数137)、46(同)、89(総議席139)であった。2012年選挙で獲得議席数が急増しているが、これは突然の変化ではなく、同盟政党を合わせればどの選挙も圧倒的勝利であった。与党連合以外の勢力は、2002年と2007年は12議席、2012年は7議席に留まった[EIU July 2002, 16; October 2007, 12; 4th Quarter 2012, 18]。2009年7月の大統領選挙でも、サスーは78.6%の圧倒的な得票率で再選された。ただし、選挙では不正が横行し、対立候補の多くは抗議のためボイコットした[EIU October 5th 2009, 13]。政権側の抑圧や取り込みのため、1990年代と違って近年の野党は政権の対抗勢力になっていない。

2002年に大統領に当選したサスーは、2016年で2期目の任期が終わる。1943年生まれの彼は既に70歳を超えているから、年齢的にも憲法の規定に抵触する。サスーが大統領職を継続するためには、いずれにせよ新憲法の制定が必要であった。

コンゴでこの議論が本格化するのは、2014年末のことである。同年10月末、ブルキナファソでコンパオレ(B. Compaoré)大統領が憲法を改正して政権に留まろうとしたものの、市民の激しい反発によって辞任・亡命を余儀なくされる事件が起こり、これを契機に大統領任期問題への関心が高まった[EIU 1st Quarter 2015, 17]。この時期以降、新憲法制定を主張する与党とそれに反対する野党の間で論戦が活発化した。事態が大きく動くのは2015年7月である。政府の効率性を高めるため国家機構の総点検が必要だと訴えるPCTの主張を背景に、同月13~17日、南西部の都市シビティ(Sibiti)で「国民対話」が開催され、政党、市民社会、宗教団体などから約500人が出席した。憲法をめぐる議論は紛糾したものの、議事運営を親政権派が押さえ、最終的には新憲法制定に前向きな勧告が採択された[EIU 4th Quarter 2015, 18]。

これを受けてサスーは、9月22日、新憲法案をレファレンダムにかけることを発表した。新憲法案では大統領任期は5年に変更され、3期まで務めることが可能とされた(新憲法案第65条) 8 。新憲法が制定されればサスーの任期は再び1期目から勘定されるから、新たに15年間大統領の座に留まることができる。首都では連日抗議デモが行われたものの、レファレンダムは10月25日に予定どおり実施され、その2日後には72.4%の投票率で93.0%が賛成票を投じたとして、新憲法の採択が発表された[Le Monde 27 Octobre 2015]。ただし、野党によるボイコット呼びかけのため投票率はかなり低かったと見られ、レファレンダムの結果は国内外で疑問視された。旧宗主国のフランスも、レファレンダムの結果を認めないとの声明を出している。しかし、政権側は意に介さず、2016年7月に予定されていた大統領選挙を前倒しして3月20日に強行し、サスーの当選を決めた。この選挙期間中も抗議活動が続いたが、政府は一切の譲歩を拒み、選挙後に首都で「ニンジャ」が行政機関を襲撃する事件を起こした際には報復としてプール州のントゥミの拠点を爆撃した。
なぜ「三選問題」は異なる帰結をもたらしたのか
大統領が自身の任期延長を図り、三選禁止規定を破った。これはどの国も同じである。しかし、ブルンジでは政府要人の暗殺が相次ぐほどに治安が悪化したが、コンゴでは抗議デモと民兵による小規模な蜂起はあったものの政府は治安維持に成功し、ルワンダでは抗議デモすら起きていない。この違いは何に由来するのだろうか。

「三選問題」の帰結の違いを説明する最も重要な要因は、政治権力構造である。内戦で軍事的勝利を収めたルワンダのカガメ政権とコンゴのサスー政権は、紛争終結時に政敵を放逐し、政治権力を独占できた。その後も反政府勢力を抑圧し、また政権内に取り込んできたため、国内に強力な野党勢力が存在しない。そのため、三選に向けた政権側の動きに対して、国内で激しい抗議運動が組織されなかった。これに対してブルンジでは、内戦で軍事的決着がつかず、国際社会の介入によってパワーシェアリングが制度化された。したがってブルンジでは、紛争後に複数の政治勢力が温存され、比較的自由度の高い政治体制が成立した。先述したように、与党CNDD-FDDは政権獲得後一貫して支配力強化に努めたが、制度上パワーシェアリングが維持されたため、統治機構や与党内部にンクルンジザから距離を置く勢力が命脈を保った。ブルンジでは、政府が抑圧を強める中でも、国内に強力な反政府勢力や野党が存在し続けたわけである。ブルンジにおける激しい反発と抵抗は、かなりの程度この点から説明できる。
図1 フリーダムハウス政治的自由度指標の変化
(1990~2015年)

図1 フリーダムハウス政治的自由度指標の変化(1990~2015年)
(出所)Freedom House 2016aから筆者作成。
以上の点は、フリーダムハウスの政治的自由度指標の推移からも裏付けることができる。フリーダムハウスの指標は「政治的権利」と「市民的自由」から構成され、最も自由な「1」から最も不自由な「7」までの間で評点が付けられる。図が示すのは2つの指標の平均値であり、3カ国について1990年以降の推移を示している。いずれの国も総じて自由度は低く、フリーダムハウスが「不自由」(Not Free)と見なす5.5以上の時期が長い。実際、この3カ国に関してフリーダムハウスが「選挙民主主義」(electoral democracy) 9 に相当すると見なしたのは、1992~97年のコンゴと2006~2010年のブルンジだけである。内戦後のカガメ政権とサスー政権に関しては、一度も「選挙民主主義」だと見なしていない。ンクルンジザ政権については、第1期目のみ「選挙民主主義」のカテゴリーに入ると認めている[Freedom House 2016b]。

すなわち、内戦を経て成立した3つの政権のなかで、カガメ政権とサスー政権は一貫して政治的自由を抑圧し続けたのに対して、ンクルンジザ政権は近年まで相対的に高い政治的自由を許容していた。これは明らかに、パワーシェアリングを基軸とする政治制度に起因するものである。しかし、図1が示すように、ブルンジの政治的自由度はンクルンジザ政権2期目には悪化の一途を辿る。フリーダムハウス指標の推移は、パワーシェアリングを通じた民主的制度の導入とンクルンジザ政権によるその形骸化というブルンジ政治の流れを反映している。ただし、同指標は政治的自由に関する特定時点の評価であり、国内にどの程度強力な反政府勢力が存在するかを示すものではない。政治的自由がルワンダやコンゴ並みに低いと評価される状況にあっても、ブルンジには両国以上に組織化された反政府勢力が存在し、それがンクルンジザ三選に激しい抵抗を示したのである。

また、やや二義的ではあるが、「三選問題」の帰結の説明として経済的要因を挙げることができる。一般に、権威主義的な政権は、反対勢力の抑圧とともに懐柔を図る。分配可能な資源の量が大きければ政治エリートの取り込みは成功しやすいだろうし、一般大衆の生活水準を改善できれば政権への不満を和らげることができる。図2に、一人あたりGDPの実質値推移を示す。ここから、近年における3カ国の所得水準と経済パフォーマンスの違いが読み取れる。すなわち、石油産出国のコンゴとそうした資源を持たないルワンダ、ブルンジでは一人あたり国民所得水準がかなり違い、またルワンダとブルンジの所得の差が広がっている。2001~2014年の一人あたり平均実質GDP成長率を比較すると、ルワンダは4.7%という高い値であるのに対して、コンゴは1.8%に過ぎず、ブルンジは0.2%とほとんど経済成長していない。懐柔や取り込みの成否は政治的技法に大きく左右され、所得水準や経済成長率の単純な関数とはいえないが、豊富な石油収入を有するコンゴや経済成長率が高いルワンダでその余地が大きく、経済パフォーマンスの悪いブルンジでその余地が少ないといって大過ない。
図2 一人あたり実質GDP推移
(2000~2014年)

図2 一人あたり実質GDP推移(2000~2014年)
(出所)World Development Indicatorsから筆者作成。

事実、コンゴのサスー政権は、内戦後しばしば有力政治家の取り込みを図ってきた。2007年には、1990年代に内戦を戦った政敵コレラを「恩赦」し、彼の支持母体であるMCDDIをPCTと選挙協力させることに成功している[Africa Confidential 2007]。こうした懐柔・取り込みに際して、石油収入が大きな役割を果たしたと考えられる。また、1990年代末から毎年ルワンダを調査している筆者の観察では、一人あたり実質GDP増加の影響は農村部にも及んでいる。保健衛生や教育など社会開発面の改善が顕著であり、生活がよくなったと述べる農民は少なくない 10 。この変化が人々の政権を見る眼に影響を与えたことは、疑いのないところである。一方ブルンジは、国民所得の水準も経済成長率も低く、批判勢力を懐柔する資源にも乏しい。人々の不満が噴出しやすい状況にあったと考えてよいだろう。

「三選問題」を通じて、ブルンジは単に混乱しただけでなく、統治の性格を変質させた。逮捕や亡命によって反体制派は政治の表舞台から去り、パワーシェアリングは完全に形骸化した。民主的な政治制度を形式的に採用しながら、実態は内戦時の元ゲリラが政治権力を独占する体制へ移行したブルンジは、ルワンダやコンゴ共和国に近づいたといえる。ンクルンジザと彼の支持者は、政治権力をより閉じられたサークルで掌握することに成功した。ただし、それと引き換えに、彼らは国際社会の信用を失い、国内に反政府武装勢力を抱えることとなった。自らの政治権力強化を目指す行動によって、ンクルンジザ政権は自らの正統性/正当性(legitimacy)を取り返しのつかぬ形で損ねたのである[ICG 2016]。
おわりに——アフリカの「三選問題」が意味するもの
憲法の多選禁止条項の廃止や改変は本稿で分析した3カ国に限った話ではなく、アフリカ諸国で1990年代から行われている。多選禁止条項を廃止しその職に留まる大統領として、チャドのデビィ(2003年に廃止。以下同)、ウガンダのムセヴェニ(2005年)、カメルーンのビヤ(2008年)、ジブチのゲレ(2010年)、アンゴラのドス・サントス(2010年)が挙げられる[鈴木2016, 78]。いずれの国も、本稿の3カ国と同様、政治的自由度は低く、強権的な統治が行われている。

多選禁止が問題になるのは、民主的な統治制度が採用されているからである。1980年代までのアフリカで普通に見られた一党制では大統領の多選が全く問題にならず、終身大統領と定められた者さえいた。冷戦終結後、アフリカ諸国は雪崩を打って一党制を放棄し、多党制へと移行したが[武内2005]、この過程で多選禁止条項が憲法に挿入された。任期満了後も大統領職に留まろうとすれば、多選禁止条項が障害となる。本稿の3カ国を含め、多選禁止条項を廃止、改変した国々は全て、形式的には野党の存在を認め、民主的な統治制度を採用しているが、現実には反政府勢力の活動が厳しく制限されている。民主的な政治制度を形骸化してきた政権が、その権威主義的な性格を一層露わにするとき、「三選問題」が起きるのである。

本稿で取り上げた3カ国をはじめ、「三選問題」が起こった国の政権与党は、その多くがかつて内戦時に反政府武装勢力であった過去を持つ。今日のアフリカには一党優位制の国々が多いが、優位政党がもともと内戦時の反政府武装勢力であった場合、総じて政治的な自由度が低く、最高指導者も交代しない傾向がある[武内2016]。その意味で「三選問題」は、民主的な統治制度が一般化した冷戦後のアフリカにおいて、紛争経験国が辿る政治過程のひとつのパターンを示している。他方、アフリカには、自由な選挙を通じた政権交代が根付いたガーナやセネガルのような国もある。何が政治秩序の性格を分けるのか、それぞれの政治秩序の安定性はどう評価できるのか。こうした点について、さらに考えていきたい。
参考文献
<�日本語文献>
  • 鈴木亨尚 2016.「大統領の多選制限をめぐる政治——アフリカを中心として」『亜細亜大学アジア研究所紀要』42: 69-126.
  • 武内進一 1994.「コンゴ——作られた部族抗争」『アフリカレポート』18: 10-13.
  • 武内進一 2005.「冷戦後アフリカにおける政治変動——政治的自由化と紛争」『国際政治』140: 90-107.
  • 武内進一 2010.「内戦後ルワンダの国家建設」大塚啓二郎・白石隆編『国家と経済発展——望ましい国家の姿を求めて』東洋経済新報社 31-60.
  • 武内進一 2013.「言明された和解、実践された和解——ルワンダとブルンジ」佐藤章編『和解過程下の国家と政治——アフリカ・中東の事例から』アジア経済研究所 29-58.
  • 武内進一 2016.「冷戦後アフリカの紛争と紛争後——その概観」遠藤貢編(シリーズ総編者太田至)『アフリカ潜在力2 武力紛争を越える——せめぎあう制度と戦略のなかで』京都大学学術出版会 23-49.
<�外国語文献>
  • Africa Confidential 2007. “A Strategic Alliance.” Africa Confidential 48(12): 9.
  • Freedom House 2016a. Individual Country Rating and Status, FIW (1973-2016) .
    ( https://freedomhouse.org/report-types/freedom-world  2016年4月28日閲覧)
  • Freedom House 2016b. List of Electoral Democracies, FIW (1989-2016).
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  • ICG (International Crisis Group) 2006. "Burundi: Democracy and Peace at Risk." Africa Report no.120.
  • ICG (International Crisis Group) 2011. "Burundi: Du boycott électoral à l'impasse politique." Rapport Afrique No.169.
  • ICG (International Crisis Group) 2012. "Burundi: Bye-bye Arusha?" Rapport Afrique No.192.
  • ICG (International Crisis Group) 2016. "Burundi: Anatomie du troisième mandat" Rapport Afrique No.235.
  • Republic of Rwanda 2003. The Constitution of the Republic of Rwanda . Kigali.
  • République du Burundi 2005. Loi portant promulgation de la constitution de la République du Burundi . Bujumbura.
  • République du Congo 2002. Constitution de la République du Congo .
  • Takeuchi, Shinichi 2011."Gacaca and DDR: The Disputable Record of State-Building in Rwanda" Working Paper No.32, JICA Research Institute.
  • Takeuchi, Shinichi 2013. "'Twin Countries' with Contrasting Institutions: Post-Conflict State-Building in Rwanda and Burundi", In Preventing Violent Conflict in Africa: Inequalities, Perceptions and Institutions , eds. Yoichi Mine, Frances Stewart, Sakiko Fukuda-Parr and Thandika Mkandawire, London: Palgrave-Macmillan, pp. 40-65.
<�新聞・雑誌・ニュースサイト> <�統計資料>
(たけうち・しんいち/アジア経済研究所)
脚 注
  1. ブルンジとルワンダは、トゥチが総人口の1割強、フトゥが8割強を占める点で、エスニックな構成が酷似している。両国における内戦とその後の政治過程については、武内[2013]を参照。
  2. 正式名称は「ブルンジにおける平和と和解のためのアルーシャ協定」(Accord d'Arusha pour la paix et la réconciliation au Burundi)で、2000年8月28日に署名された。署名者はブルンジ政府と下院および17の政党で、第I~第V議定書から構成される。
  3. アルーシャ協定の英文(仏文と同様に正式文書とされる)では、この部分は"all the ethnic components of Burundian society"となっており、この「構成要素」がトゥチ、フトゥ、トゥワというブルンジ人を構成する3つのエスニック集団を指すことは明らかである。
  4. ンクルンジザ三選をめぐる2015年初めの動きを整理しておこう。市民社会の動きとして、2015年2月初旬に三選反対キャンペーンの市民団体が大統領に公開書簡を送り、3月7日にはカトリック教会が三選反対を訴えた。国際社会の動きとしては、3月13~14日にコフィ・アナンや米仏の国連大使らからなる国連ミッションがブルンジを訪問し、同29日には潘基文国連事務総長が電話会談を行って、三選出馬断念を働きかけた。政権内部の動きとしては、軍・警察とともに治安機関の一翼を担う国家情報局(Service National des Renseignements: SNR)のトップであるニョンバレ(G. Nyombare)大尉が2月18日に更迭され、その理由は大統領に三選出馬断念を進言したためと報じられた(その後、ニヨンバレは5月のクーデタ未遂事件の首謀者となった)。3月25日には、大統領に対して三選出馬断念を促す公開書簡を送ったCNDD-FDD幹部10名が同党から除名処分を受けた。なお、本稿におけるクロノロジカルな情報は、基本的にすべてブルンジ情報サイトARIBによる。
  5. アルーシャ協定第II議定書第7条第3項は、移行期間後の大統領について、その任期が2期を超えることができないと定めており、2005年憲法との整合性は明らかである。
  6. 内戦直後の政権では、大統領のビジムング(P. Bizimungu)や内相のセンダションガ(S. Sendashonga)などフトゥが要職に就いていた。
  7. ルワンダは憲法で民主主義を標榜しており、野党の存在も認められている。ただし、その多くは大統領選挙でカガメに投票するなど、実質的に野党の役割を果たしていない。政権が脅威と見なした反体制派は、2003年の大統領選挙に立候補し徹底的な妨害を受けたトゥワギラムング(F. Twagiramungu)や、2010年の大統領選挙への立候補を表明したものの「ジェノサイドを否定した」罪で逮捕されたインガビレ(V. Ingabire)のように、徹底的に抑圧された。ただし、テロリズムに関与したとしてルワンダ政府から訴追されたカレゲヤ(P. Karegeya)やニャムワサ(K. Nyamwasa)のように、RPFの中枢にいながら国外逃亡した元国軍幹部(カレゲヤは元ルワンダ軍対外諜報部長、ニャムワサは元参謀総長)もおり、政権中枢は決して一枚岩ではない。
  8. Projet de constitution de la République du Congo .
    ( http://www.ambacongo-us.org/Portals/6/pdfs/Projet_Constitution._10-10-2015.pdf  2016年4月29日閲覧)
  9. 最低限の民主主義の基準を満たす政治体制であることを意味するフリーダムハウスの概念。1)競争的な複数政党システム、2)全ての市民に対する成人普通選挙権、3)定期的、競争的で、公正な選挙、4)主要政党に対する大衆のアクセス、という4要件が担保されているかどうかで判断する。詳細は、フリーダムハウスの「方法論」(methodology)参照。「選挙民主主義」の範疇に入らなければ、たとえその国が民主主義を標榜していても、フリーダムハウスはそれに値しないと判断していることになる。
  10. ただし、これは内戦時の恐怖と表裏一体となった感情であり、紛争になるよりはましという、現政権への消極的な支持(あるいは服従)とも解釈できる。