時事解説:2014年南アフリカ選挙——民主同盟の支持率拡大——

アフリカレポート

No.52 

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■ 時事解説:2014年南アフリカ選挙——民主同盟の支持率拡大——
佐藤 千鶴子
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.46-50
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はじめに
2014年5月7日、南アフリカでは1994年の民主化選挙から数えて5回目となる国民議会(国会)および州議会選挙が行われた。投票率は前回選挙をわずかに下回る73.48%。全体的には大きな混乱や騒動はなく、民主化後の20年間に南アフリカでは平和な選挙を実施する文化が根付いたことを確信させる選挙であった。結果は大方の予想を裏切らず、アフリカ民族会議(African National Congress: ANC)が前回選挙からポイントを下げたものの圧倒的な得票率(62.15%)で国会与党の座を維持し、民主同盟(Democratic Alliance: DA)は得票率を伸ばして野党第1党を堅持したほか、西ケープ州議会選挙で6割近い票を集めて与党の座を守った。昨年(2013年)結成された新党、経済的自由戦士(Economic Freedom Fighters: EFF)は健闘し、国会で第3党、ほとんどの州議会においても第3党以内の地位を得た。

民主化後の南アフリカ政治においてANCは圧倒的な強さで与党の座を守り続けており、「今回のEFFや前回選挙で健闘した人民会議(Congress of the People: COPE)がANCを離脱した人々によって結成された政党であることを考えれば、かりにANCを凌駕する政党が出現するならば、それはおそらくANC内部から生まれる」とするフリードマンの指摘は正しいのかもしれない[Friedman 2014]。とはいえ現時点では、野党第1党の座にあり、国会選挙で22.23%の得票率を獲得したDAについて考察し、今後の可能性を検討することにも意味があるだろう。DAは、過去5回の選挙において継続的に支持率を増やしてきた唯一の政党であり、南アフリカで二大政党制が出現するとするならば、現時点では最も近い立場にあるからである。本稿では、DAの支持率拡大の背景や支持基盤、今後の課題について解説する 1

1. 国政におけるDA支持の拡大
国会選挙におけるANCの得票率は、2004年(69.69%)をピークに、2009年(65.90%)、2014年(62.15%)とわずかずつではあるが減少傾向にある。それに対してDAの得票率は、前身である民主党(Democratic Party: DP)時代を含めて、1994年(1.73%)→1999年(9.56%)→2004年(12.37%)→2009年(16.66%)→2014年(22.23%)と一貫して増加してきた。さらに今回の選挙では、従来から支持の高い西ケープ州やケープタウン大都市圏に加えて、ハウテン州や東ケープ州のネルソン・マンデラ湾大都市圏(ポートエリザベス)などの都市部で特に高い得票率を獲得した。DA支持層の拡大について簡単に振り返ってみる。

一般的にいってDAは「白人支配政党」ないし「白人政党」とみなされることが多く、おそらく民主化後の10数年間はDA支持者のほとんどが白人であった。DAのルーツはアパルトヘイト時代の白人リベラル 2 による進歩党(Progressive Party)にあり、1989年にDPとなった。1994年の第1回全人種参加選挙のDP得票率は白人右派の自由戦線(Freedom Front: FF)をも下回り、獲得議席も400議席中7議席にすぎなかった。1994年から党首を務めたトニー・レオン(Tony Leon)のもとで支持者を増やし、1999年の国政選挙では野党第1党となったものの、当時のDPは基本的に白人ミドルクラスの支持政党であった。その後、2000年に新国民党(New National Party: NNP) 3 と合併してDAとなったが 4 、イデオロギーの違いなどを理由に翌年NNPは組織としてはDAを離脱した。ただし、NNP党員の多くはDAにとどまった。

DAの政治家に白人が多いことや、白人住人が多数を占める選挙区においてDAが圧勝してきたことは事実である。だが、2000年代末以降もDAの支持基盤が白人に限定されているとは考えにくい。南アフリカの総人口に占める白人の割合は8.9%にすぎない(2011年国勢調査)。しかもANCやFFを支持する層もいて、白人全員がDA支持者とはいえない。南アフリカ選挙管理委員会のウェブサイトでは、2014年選挙の結果に関して、選挙区ごとの勝利政党が色分けされた全国地図を見ることができるが、この地図は国土の西側約40%の地域でDAが高い支持を集めたことを示している。これらの地域は、西ケープ州、北ケープ州、東ケープ州西部というカラードが人口の多数を占める地域であり 5 、人種的にはカラードのなかでDAの支持が広がっているといえる 6

2. ジィラ党首のもとでのイメージ刷新
DAが従来の白人から非白人層へと支持基盤を拡大していく上では、レオンに代わり2007年に党首となったヘレン・ジィラ(Helen Zille)のもとで展開されてきたイメージ刷新戦略が重要だったと見てよい。ジィラは「白人、特に白人男性が主導権を握る政党」という従来のDAのイメージを払拭するため、2011年にリンディウェ・マジブコ(Lindiwe Mazibuko)という若い黒人女性をDAの議会内党首(parliamentary leader)に据えた。このポストには通常、党首が就任する。だが、ジィラが国会議員とはならず、ケープタウン市長と西ケープ州知事のポストを選択したため、ジィラ党首下のDAは別に人選を行う必要があった 7 。2007~2011年までこのポストを担ったのはDAのベテラン白人政治家であったが、2011年にマジブコがアソル・トロリップ(Athol Trollip)の再選を阻止して議会内党首となった。議会内党首はDA幹部会の投票によって選ばれるため、ジィラ党首が完全に人事権を握っているわけではないが、議員としての経験年数の浅いマジブコを強く推したジィラの意向が大きく反映されていたことには疑いがない。

2013年半ば、DAは「あなたのDAを知ろう」キャンペーンを打ち出し、進歩党選出の国会議員として議会内でアパルトヘイト政権を批判し続けたヘレン・スズマン(Helen Suzman)とジィラを中心にしたDAの歴史に関する短いビデオを制作したが、このビデオにおいても現ケープタウン市長のパトリシア・デリール(Patricia de Lille)やDA連邦議長のウィルモット・ジェームズ(Wilmot James)、2014年選挙でハウテン州の知事候補となったムムシ・マイマネ(Mmusi Maimane)などの非白人リーダーがメッセンジャー役を務めた。今回の選挙までハウテン州外での知名度はかなり低かったマイマネを前面に押し出すというDAの決定には、ジィラ党首の意向が大きく関わっていたとされる。だが、こういったキャンペーンをする一方で、ジィラは知事を務める西ケープ州政府の執行委員会メンバーには白人男性を多用してきたため、ジィラの人事に対しては多方面から批判の声もある。

3. DAの非人種主義(non-racialism)の揺らぎ
表向きにはDAは、人種など何の意味も持たず、それゆえアファーマティブ・アクションのような人種を基盤とする政策は採用されるべきではないし、すべての人々に等しく機会が与えられるべきである、という非人種主義を主張してきた。けれども実際には、人種の問題はDA内部で重要性を増しており、伝統的な非人種主義はジィラ党首のもとで揺らぎ始めた兆候もある。そのことは、2013年後半から2014年初頭に起こった2つの出来事に表れている。

第一が2013年11月、雇用均等法改正法案 8 をめぐり、マジブコ率いる議会のDA幹部会が同法案に賛成票を投じた後、この決定に対して党首ジィラが公の場で批判し、複数の幹部を更迭したことである。DAの伝統的な立場からすれば、雇用均等法や黒人の経済力強化(BEE)政策のような特定の人種集団を優遇する政策は否定されるべきであった。だが、マジブコ自身は、アパルトヘイトの過去を是正するための法制においては以前から人種を無視することはできないと考えていた[Pressly 2013]。DAの黒人政治家は、ときに「白人マダムのティーレディ」あるいは「ココナッツ」などとほかの政党の政治家から揶揄されることもあるが、黒人幹部会と呼ばれる集団を結成し、DAを内部から変えようという動きがあることも報道されている。雇用均等法案をめぐる混乱が起きた直後に開かれたDAの政策会議後の記者会見においてジィラは、人種を無視することはできないとの見解を示すことになった。

第二は、選挙を3カ月後に控えた2014年1月末、前年に結成された新党アハングSA(Agang SA)党首のマンペラ・ランペレ(Mamphela Ramphele) 9 をDAの大統領候補とすることが発表され、その直後に撤回された事件である。DAとアハングSAの同盟は、アハングSA党員がランペレの独断的決定に反発し、ランペレが翻意したことで短命に終わった。今では政治的「珍事」として語られるこの事件は、ランペレの信頼性に大きな打撃を与えたが、知名度のある黒人を大統領候補として党外からヘッドハンティングするようなやり方はDAの黒人幹部の間でも不評だったと伝えられている。だがここにもDA、おそらく正確にはジィラ党首の「DA=白人政党」のレッテルを変えなければ政権与党となることは不可能であるとの認識が表れているといえよう。

おわりに
コラムニストであり、ラジオのプレゼンターなども務める黒人(カラード)若手知識人のマッカイザーは、「DAには絶対に投票しない」と誓う人々がいる一方で、個人の自由と意思を尊重するという意味でのリベラリズムに共感を持ち、DAへの投票を選択肢として持つ潜在的なDA支持者は自身を含めて相当数いるとし、こういった人々の票を得るためにDAは何をすべきかについて論じたエッセイ集を選挙直前の2014年初頭に出版した。同書はいくつかの提案をしているが、その最も基本的なものは、「非人種主義を放棄し、南アフリカ社会のなかで人種が重要性を持つという現実を見つめよ」ということである[McKaiser 2014]。民主化後20年を経てもなお、人々の意識や普段の生活のなかでは人種を軸とする考え方が根強く残っているという点については筆者も同感であり、「DA=白人政党」のレッテルが払拭されない限り、DAのさらなる支持率拡大は望めないだろう。

ジィラのもとで黒人政治家が党内の幹部ポストに登用され、選挙キャンペーンの前線に立つことで、DAは旧来の支持基盤である白人リベラル、ミドルクラス層から支持基盤の拡大を図り、選挙結果を見る限りでは一定の成果を挙げてきたといえる。だが、選挙委員会が最終結果を発表した翌日の『サンデータイムズ』紙は、ハーバード大学で修士号を得るために、南アフリカの政治の現場を離れることを決定したというマジブコの独占インタビューを掲載した[Sunday Times, 11 May 2014]。議会内党首として短期間に能力の高さを発揮し、黒人・若手・女性リーダーとして認知されてきていたマジブコの決断はDAにとって大きな痛手である。しかも、「マジブコの決断にはDAの政策方針や意思決定をめぐるジィラとの確執がある」との報道がなされ、マジブコの辞任と後継者問題をめぐり、DA内部においてジィラのリーダーシップに対する批判と権力闘争が存在することがくしくも浮き彫りになった。黒人リーダーの登用とDA内部における保守派の意識改革は、DAが多人種政党へと転換を遂げるためには避けて通ることのできない課題である。DAのさらなる改革が進むのか、それとも従来の支持基盤への揺り戻しが起こるのか、今後の動向が注目される。


(さとう・ちづこ/アジア経済研究所)
《参考文献》

脚 注
  1. 本稿の執筆にあたってはケープタウンの日刊紙『ケープタイムズ』(Cape Times)をはじめとする現地の新聞やテレビ報道などを多く参照しているが、紙幅の都合上、レファレンスは最小限にとどめた。
  2. 南アフリカにおいてリベラルとは、歴史的に共産主義とアパルトヘイト体制の両方に反対し、自由主義と個人主義を支持してきた人々を指す。
  3. アパルトヘイト体制を構築し、その後ANCとともに民主化交渉を担った国民党(National Party: NP)の後継。
  4. DAには後に、連邦同盟(Federal Alliance)、独立民主(Independent Democrats)、南アフリカ民主会議(South African Democratic Convention)といった少数政党が加わった。
  5. カラードは、西ケープ州人口の48.8%、北ケープ州人口の40.3%を占める(2011年国勢調査)。
  6. 南アフリカ選挙管理委員会ウェブサイト( http://www.elections.org.za/resultsnpe2014/default.aspx , 2014年5月27日アクセス)。選挙区ごとの有権者数が大幅に異なるため、選挙区ごとの多数派政党がそのまま北ケープ州の選挙結果に反映されているわけではないことに注意。
  7. 南アフリカでは中央・州・地方すべてのレベルの政府において、選挙で勝利した政党から大統領、知事、市長が選出される。通常、政党の党首は国会議員となるが、ジィラは国会には進出せず、2006~2009年までケープタウン市長、2009年から西ケープ州知事を務めている。
  8. 1998年に制定された雇用均等法は、カラードとインド系を含む広義の意味での黒人の雇用と昇進を促進するため、公務員や民間企業の職員の構成と職位に南アフリカの人種構成を反映させることを雇用者に対して求めている。2013年の改正法案をめぐり最も議論の的となったのは、同法案に付随する規則において150人を超える職員を擁する公・私企業については、幹部職や専門職といった上位の職位のポストを任命する際に南アフリカの全国的な人種構成のみを反映させるべきである、とする点であった。同規則に対しては、特定人種を優遇する政策を否定するDAのみならず、全国と州の人種構成が著しく異なる西ケープ州のANC支部からも反発があり、最終的に選挙後の2014年5月末、同規則は撤回された。
  9. ランペレは、1970年代の黒人意識運動指導者スティーブ・ビコ(Steve Biko)とともに貧困コミュニティでの診療所運営などを担った医師兼活動家。民主化後はケープタウン大学学長や世界銀行専務理事、アングロ・アメリカン社理事などを歴任し、知識人兼ビジネスウーマンとして知られるようになった。