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時事解説:ネルソン・マンデラの見果てぬ夢

アフリカレポート

No.52 特集:ネルソン・マンデラ——その人生と遺産

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No.52 ネルソン・マンデラの見果てぬ夢
■ 時事解説:ネルソン・マンデラの見果てぬ夢
■ 峯 陽一
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.20-23
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はじめに
マンデラには2つの顔があった。ひとつは若い時代の顔、つまり、正義のためには暴力も辞さない、革命家としての顔である。もうひとつは晩年の顔、つまり、対立する集団の間に橋を架ける平和主義者としての顔である。いまマンデラといえば、世界でも南アフリカでも平和主義者としての顔に光が当てられることが多いが、彼の生涯と業績を客観的に理解するには、両方の顔を見なければならない。

本稿では、マンデラの生涯を振り返りながら、彼が成し遂げた仕事について、そして彼がやり残した仕事について、考えてみることにしたい。マンデラが逮捕されたのは1962年、彼が44歳のときだった。彼が釈放されたのは1989年、つまり71歳のときである。彼が最も自由に活動したのはそれから十数年間のことで、引退後の最晩年になると、ほとんど公の発言をしていない。 彼がやり残した仕事は何だったのだろうか。本稿の結論部では、マンデラの若い時代の夢と、現在の南アフリカ社会が進んでいる方向を重ね合わせることで、彼の見果てぬ夢について思いを巡らせることにしよう。

1.革命家としてのマンデラ
マンデラは、1918年、コーサ人が暮らすトランスカイ地方の伝統的な農村で生まれた。当時はまだホームランド(アフリカ人向けの農村の土地区画。リザーブ、バントゥースタンという用語もある)の隔離政策は厳格に適用されておらず、彼が生まれ育った場所は「貧しくても皆が平等な村だった」と言っても誇張ではあるまい1。マンデラは首長の家系に生まれ、大学で法律学を学んだ後、1941年には南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグに移り住む。

1950年代、南アフリカの白人政府は、アパルトヘイト(人種隔離)政策を着々と実行していく。よく知られているように、人口の約7割(現在は8割)を占めるアフリカ人を国土の13%のホームランドに閉じ込めることが、この政策の究極の目標だった。食い詰めてホームランドから白人地域の鉱山や工場に出稼ぎに出たアフリカ人は、参政権もなく、言論の自由もなく、土地所有権もなく、移動の自由もなく、二級市民としての扱いを受けた。マンデラはそのすべてを目撃する。第2次世界大戦中には好景気で都市部の差別が大幅に緩和されていたから、逆行する戦後の動きに、アフリカ人の憤激は大衆的な広がりを見せるようになった。

盟友オリバー・タンボ(Oliver Tambo)とともに弁護士事務所を開設したマンデラは、アフリカ民族会議(African National Congress: ANC)青年同盟の活動家として頭角を現す。彼らの理想は、1955年に発表された自由憲章に端的に表れている。「南アフリカは、黒人も白人も、そこで暮らすすべての者に属する」。この表現で始まる自由憲章は、南アフリカの解放運動の目標を示すマニフェストとなった。南アフリカから白人を追い出せ、というわけではない。目指すべきは、すべての人種、民族集団の平和的な共存である。

この理想を実現するために、マンデラたちは当初は非暴力的な運動を組織した。しかし、白人政府が一般の民衆に銃を向けるようになると、マンデラたちは、解放運動の側も武器をもたざるをえないと考えるようになる。若き日のマンデラは、敵が無慈悲な暴力をふるう限り、自分たちも暴力で抵抗することが必要だ、と考えるようになったのである。こうして白人政府に「テロリスト」と呼ばれるようになったマンデラは、1962年に逮捕され、それから27年間を獄中で過ごすことになる2

ケープタウン沖合のロベン島監獄に投獄されたマンデラは、単純労働の懲罰に耐えながらも、信念を曲げなかった。こうして、1960年代から70年代、80年代を通じて、獄中のマンデラは、自由を求める南アフリカの闘いのシンボルになっていく。

マンデラの投獄が長期化すると、南アフリカだけでなく世界中の人びとが、「マンデラに自由を!」を合い言葉として、彼の釈放を求めるようになった。世界中の町で、肌の色に関係なく大勢の人々が街頭デモに繰り出し、また音楽、詩、あるいは美術で、それぞれの思いを表現するようになった。当時は植民地の独立、差別の撤廃、マイノリティの権利、貧困の克服といった理想が、現在よりもずっと熱く語られていた時代だった。世界の多くの人々が、自分たちの運命とマンデラの運命を重ね合わせて、マンデラの自由のために声を上げたのである。

2.平和主義者としてのマンデラ
国の内外の圧力に押されて、南アフリカの国民党政府はアパルトヘイトの撤廃を決断する。1990年2月、ついにマンデラは釈放された。長期の獄中生活を経て釈放されたマンデラに、衰えた様子はなかった。ケープタウン市役所前を埋めた群衆に向かって、マンデラは謙虚に「私は預言者ではありません」と述べ、自由の身となって仕事を再開することを宣言した。

マンデラの理想は、投獄される前も釈放された後も、一貫していた。それは、黒人も白人も互いを尊重し、新しい国づくりのために力をあわせる、という自由憲章の夢である。しかし、釈放された後に理想の実現のために彼が呼びかけた手段は、以前とは異なるものだった。マンデラは、白人にも黒人にも、武器を捨てよう、憎しみを棚上げして、投票で国を変えよう、と訴えたのである。子供たちには、学校に戻って勉学に励むように求めた。釈放直後のマンデラは、武装闘争の継続の可能性を担保し、国有化の主張を下ろさなかったが、多角的な交渉のなかで少しずつ主張のトーンを変えていった。ANCの路線の重心も同様にシフトしていった。

マンデラが暴力ではなく平和的な和解の道へと舵を切ったのは、なぜだろうか。それはマンデラを含むANC指導部が、冷戦後の世界で紛争の構図が変化したことを正確に理解していたからではないかと思う。ソビエト連邦の消滅後の世界では、イデオロギーよりも文化的なアイデンティティによって、人々が殺し合うようになっていた。1990年代の初頭、ユーゴスラビアは解体し、アフリカの各地で内戦が深刻化し、ルワンダはジェノサイドへと向かっていた。アパルトヘイトが撤廃された南アフリカでも、黒人たちが復讐に燃える一方で、白人たちは、自分たちは許されないのではないかと怯えていた。貧しい集団は怒り、富める集団は恐れる。富と貧困の境界線が歴史的に構築された文化的アイデンティティの境界線と重なるとき、社会的正義を求める再分配政策は、民族的、人種的憎悪の暴発によって暗礁に乗り上げかねない。アイデンティティ集団が敵対する集団の「抹殺」を求めるようになると、憎悪が憎悪を呼び、社会の基盤そのものが壊れてしまうのである[カルドー2003; Stewart 2008]。

自由になったマンデラは、南アフリカの人種、民族集団の代表たちと徹底的に話し合う。その結果、1994年、黒人と白人の主要な政治勢力が権力を分かち合う大連立政府が樹立され、マンデラは、すべての政治勢力に信頼されて大統領に就任した。マンデラは、体制移行のプロセスにおいて、人びとの憎悪の暴発を抑え込むことに成功した。黒人と白人が共存する虹の国、自由憲章の理想が、ついに実現したのである。

3.マンデラの見果てぬ夢
しかし、ここで、別の問題が頭をもたげてくる。1994年の選挙戦にあたって、マンデラとANCは「すべての人びとに、よりよい生活を(Better Life for All)」というスローガンを掲げた。復興開発計画(Reconstruction and Development Programme: RDP)と呼ばれる経済政策によって南アフリカの富を貧困層に再分配していくこと。これがマンデラの選挙公約だったのである。RDPの基礎となった報告書がMERG[1993]であるが、これはSACPの路線の影響を受けながらも、全体としてはケインズ的な混合経済を目指すもので、近年の世界銀行の雇用創出路線と大きくは変わらない穏健なものである。しかしこれは、ソビエト連邦崩壊直後の新興国の経済政策としては、おそらく過激すぎた。マンデラ大統領が引退すると、RDPは棚上げされ、そのかわりに人種間の格差是正という名目で、一部の豊かな黒人をさらに豊かにしていく政策が展開されていくことになる。再分配を主張する人びとが「外されて」いったプロセスは、クライン[2011]の第10章に克明に記録されている通りである3

現在の南アフリカでは、白人と黒人のエリートが富を独占する一方で、黒人貧困層は置き去りにされ、多くの若者が絶望感を抱いている。UNDP[2011]の巻末の統計によると、南アフリカの国民のうち最も豊かな20%の平均所得は、最も貧しい20%の平均所得の20倍を超えている。この割合は、アメリカ合衆国ではおよそ8.5倍、日本ではおよそ3.4倍だとされているから、現在の南アフリカの経済格差のすさまじさがわかる。貧者も農村で食べられる国であれば、一部の階層が金持ちになっても、貧困はあまり実感されないものだ。ところが、多数派のアフリカ人が土地を奪われた南アフリカでは、都市貧民の大部分には帰るべき故郷が存在しない。南アフリカの経済格差は、インセンティブの域を超えて、社会が崩壊しかねない危険水域に達している。

貧しい黒人の暮らしを底上げすることで犯罪を減らし、肌の色にかかわらず、社会の一体感を強めていくこと。これが、政治家としてのマンデラの最後の課題だった。トランスカイの平和で平等な村で生まれたマンデラがいちばん心残りだったのは、この夢を果たせなかったことではないかと思う。Sampson[1999]をはじめとするマンデラの伝記作品の多くは、彼が「白人と妥協した」ことを賞賛するが、マンデラが心を許した真の友は、ウォルター・シスル(Walter Sisulu)やオリバー・タンボ、すなわち、彼よりも先に逝ったANCの黄金時代の盟友たちだったことだろう。彼らがともに夢見た未来の南アフリカの姿は、現在の南アフリカ社会の姿とは、まったく異なっていたのではないか。

(みね・よういち/同志社大学)


参考文献
カルドー、メアリー 2003. 山本武彦・渡部正樹訳『新戦争論—グローバル時代の組織的暴力』岩波書店. クライン、ナオミ 2011. 幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン-惨事便乗型資本主義の正体を暴く』岩波書店.
MERG: Macro-Economic Research Group 1993. Making Democracy Work: A Framework for Macroeconomic Policy in South Africa. Bellville, South Africa: Centre for Development Studies.
Peires, J.B. 1981. The House of Phalo: A History of the Xhosa People in the Days of Their Independence. Johannesburg: Ravan Press.
Sampson, Anthony 1999. Mandela: The Authorised Biography. London: HarperCollins.
Stewart, Frances 2008. Horizontal Inequalities and Conflict: Understanding Group Violence in Multiethnic Societies. Basingstoke: Palgrave Macmillan.
UNDP 2011. Human Development Report 2011. Basingstoke: Palgrave Macmillan.

脚 注

  1. 筆者と同世代のコーサ人の友人が「生まれた村には電気もなかったけれど、自分が貧しいとは考えたこともなかった。貧困がどういうものかわかったのは町に来てからよ」と述懐したことがある。トランスカイのコーサ人社会の本格的な歴史研究としては、Peires[1981]が現在でも読まれるべき古典である。なお、本稿では、コーサ人やズールー人、ソト人やツワナ人といったバントゥー系の人びとを「アフリカ人」と呼ぶ。これにインド系南アフリカ人、カラード(ヨーロッパ、アジア、アフリカの祖先をもつ社会層)をあわせて、「黒人」と呼ぶ。
  2. マンデラが死去した直後、ANCと南アフリカ共産党(South African Communist Party: SACP)は、逮捕の時点でマンデラはSACP中央執行委員会のメンバーだったことを明らかにした[Business Day, 9 December 2013]。
  3. クラインの本にも登場するビシュヌ・パダヤチ氏はMERGのメンバーだったが、現在はアカデミックな研究を続けるかたわら、ダーバンで古書店を営んでおられる。2011年にお会いしたときは、「今の政府には呼ばれないし、行く気もない」とおっしゃっていた。