時事解説:死を悼み、生を祝う——南アフリカにおけるマンデラ追悼の10日間

アフリカレポート

No.52 特集:ネルソン・マンデラ——その人生と遺産

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■ 時事解説:死を悼み、生を祝う——南アフリカにおけるマンデラ追悼の10日間
■ 佐藤千鶴子
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.15-19
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はじめに
2013年12月5日午後8時50分、民主化後の南アフリカ初代大統領を務めたネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)が95年の生涯を終えた。少数の白人が大多数の黒人を支配下に置くアパルトヘイト体制から民主主義体制への政治的移行を平和裏に成し遂げた立役者のひとりであり、赦しと和解の象徴でもあったマンデラの死をめぐっては、南アフリカが内戦状態へと突入するきっかけとなるのではないか、との噂がささやかれていたが、そんな懸念は根拠のないものだった。南アフリカにおけるマンデラ追悼の10日間(2013年12月6~15日)は、マンデラという南アフリカの「最も偉大な息子」、そして「父」 1 の死を悼みつつも、その生涯を祝い称える期間であった。

1.最期の時
マンデラは、ジョハネスバーグのホートン・エステート(Houghton Estate)地区にある自宅で、グラサ・マシェル(Graça Machel)夫人、ウィニー・マディキゼラ=マンデラ(Winnie Madikizela-Mandela)元夫人、すでに亡き最初の夫人の娘であるマカジウェ・マンデラ(Makaziwe Mandela)、孫のマンドラ・マンデラ(Mandla Mandela)ら家族に囲まれて安らかに息を引き取った。

マンデラは2008年頃から公式の場にはほとんど姿を見せなくなっており、2011年からは入院することも幾度かあった。2013年6月、健康状態の悪化により再び入院し、一時的に危篤状態となったことが大統領府により発表された際には、自宅と入院先であるプレトリアの陸軍病院に大勢のマスコミと回復を祈る人々がつめかけた。プライバシーを求めるマンデラの家族が過熱報道に抗議する一方で、マンデラ家内部ではマンデラの埋葬地をめぐる内紛が裁判の形で明らかになるなど、マンデラが安らかな死を迎えることは不可能であるかのように思われた。危篤状態を脱した後、大統領府はマンデラの状態が「重篤だが安定している」との説明を繰り返した。情報が乏しいなかでマンデラが植物状態にあるとの噂が流れ、家族や大統領府の否定にもかかわらず、マンデラが9月に退院して自宅療養となった後にも国民の間での疑惑は消えなかった。マンデラ逝去後にウィニー元夫人が明らかにしたところによれば、退院時に医師団はもっても1週間との見解だったという[Weekend Argus, 14 December 2013]。マンデラは、生命維持装置の力を借りつつ、1週間ではなく最後の3カ月間を自宅で過ごした。
写真1 マンデラ氏逝去を伝える12月6日の<br/> 南アフリカ各紙(2013年12月筆者撮影)<br/>
写真1 マンデラ氏逝去を伝える12月6日の
南アフリカ各紙(2013年12月筆者撮影)
2.追悼報道と追悼式
マンデラの死が5日深夜に発表されたにもかかわらず、6日の各紙朝刊1面はマンデラ逝去を伝える報道で埋め尽くされた(写真1)。その後も各紙は連日マンデラ特集を組み、マンデラの人生を振り返る年表や発言録、監獄から当時のウィニー夫人に送った手紙などに加え、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)元大統領、フレデリック・デクラーク(F.W. de Klerk)元大統領、デズモンド・ツツ(Desmond Tutu)大主教ほかさまざまな著名人、政治家、ジャーナリスト、作家、研究者、スポーツマン、一般の人々による追悼文を掲載した。テレビでは、マンデラの生涯に関するビデオ映像やマンデラと親交を持っていた人々のインタビュー映像が繰り返し放映される一方で、ホートンのマンデラ宅とかつてマンデラが住んでいたソウェトのヴィラカジ(Vilakazi)通りに集まった人々が花を添え、祈り、歌い、踊る姿が映し出された。南アフリカの人々が、マンデラの死を悲しむだけではなく、マンデラの生涯を祝い、称える機会としようとしていることが死の直後から観察された。

マンデラの死に追悼の意を表すことを希望したのは、南アフリカ人だけではなく、オバマ米国大統領を初めとする世界各地の国家元首や王室関係者が公式の追悼行事への参加を表明した。世界中の注目が集まるなかで、南アフリカ政府にとっては、①ジョハネスバーグでの追悼式(10日)と②東ケープ州クヌ(Qunu) 2 での国葬(15日)を滞りなく取り仕切ることが優先課題となった。だが、8万人収容可能なジョハネスバーグのスタジアムで行われ、ライブ中継された追悼式は、雨天や公共交通機関の遅延のせいもあり空席が目立つとともに、司会者は来賓の追悼演説をかき消すような聴衆の歌と騒音への対応に追われた。とりわけズマ大統領が基調演説を行った際に起こったブーイングに対しては、マンデラの死に直面し、その理想や徳と現大統領とのギャップに改めて気づかされた民衆の抗議の声として解釈する報道が目立った。

ズマ大統領への抗議という側面は確かにあったかもしれないが、筆者はそれに加えて、追悼式がスタジアムに集まった聴衆にとってつまらない内容だったこともブーイングを誘った原因だったと思っている。オバマ大統領やンコサザナ・ドラミニ=ズマ(Nkosazana Dlamini-Zuma)アフリカ連合委員長に加えて、追悼演説を行ったのはブラジル、インド、中国などの国家元首ないしその総代であった。南アフリカ政府にはおそらくBRICsを重視した外交政策を国際的にアピールする意図があったのだろうが、彼らの演説は、スタジアムに集まった人々がともに合唱したり、叫び声とともに拳を突き上げたりといった、南アフリカの集会でよく見られるような聴衆の参加を誘うようなものではなかった。公式な追悼行事を説明する際にズマ大統領は、「南アフリカ人として、われわれは幸福なときに歌うが、悲しいときにも元気を出すために歌う。われわれが知っているこの方法でマディバ 3 を祝おう。マディバのために歌おう」と述べたが[Sunday Times, 8 December 2013]、ジョハネスバーグの追悼式は人々にその機会を与えるような内容ではなかった。
写真2 ケープタウン市庁舎前で行われた<br/> 追悼式後に記帳する人々<br/> (2013年12月筆者撮影)。<br/>
写真2 ケープタウン市庁舎前で行われた
追悼式後に記帳する人々
(2013年12月筆者撮影)。
南アフリカ政府による各国の来賓を招いた追悼式以外にも、12月6日から各地で多数の追悼式が執り行われた。筆者は6日にケープタウン市庁舎前の空き地(グランド・パレード)で行われた「異教徒合同追悼式(interfaith service)」に参加した(写真2、3)。同式では、パトリシア・デリール(Patricia de Lille)ケープタウン市長がマンデラの死を追悼する短いスピーチを行った後、さまざまな宗教指導者や音楽・文化団体により合唱や器楽の演奏、メッセージの読み上げなどが行われた。合唱や演奏の合間には、司会者がマンデラを称える解放闘争歌を歌いだしたり、コーサ語 4 で演説をしたり、「ネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ、ビバ」、「マンデラ、ロングリブ(long live)、ビバ」と叫ぶことで聴衆から「ビバ」という呼応を誘い出すなどといった方法で、集まった人々の関心を特設ステージにつなぎとめるための努力が行われた。
写真3 ケープタウンの追悼式に集った人々<br/> (2013年12月筆者撮影)。
写真3 ケープタウンの追悼式に集った人々
(2013年12月筆者撮影)。
司会の努力にもかかわらず、特設ステージを熱心に見入り聞き入る人々は徐々に減っていった。さらには、追悼式のかなり早い段階で聴衆の女性の一部がコーサ語で大声で歌いだし、彼女たちの周囲に人が集まり歌と踊りに加わった結果、瞬く間にもうひとつの歌と演奏の場ができてしまった。合唱の声は特設ステージ上の合唱・演奏をかき消すほど大きくなり、追悼式を取材するために集まっていたマスコミの中にもこちらの集団をカメラに収める人々が増えていった。2時間に及ぶ追悼式が終了した後には、一部の人々が反アパルトヘイト闘争歌の「センゼニナ(Senzenina)」(ズールー/コーサ語で「われわれが何をしたのか」の意)を合唱しながら、トイトイ(toyi-toyi) 5 し練り歩いた。今思えば、6日にケープタウンで筆者が目撃した光景は、ジョハネスバーグの追悼式での聴衆の反応を予告するものだったように感じる。家でテレビを見るのではなく、追悼式の場に集まる人々は、ともに歌い、叫び、拳を上げることでその場に生まれる一体感を求めていた。公式の追悼行事が一体感を生み出せなかったときには、その場に集った人々自身の手でマンデラの死をともに悼み、祝うための試みが行われたのである。
3.東ケープ州クヌでの国葬
ジョハネスバーグで行われた追悼式後の3日間、マンデラの遺体はプレトリアの政府庁舎で公開安置され、たくさんの人々がマンデラを一目見ようと参列した。14日にはウォータークルーフ(Waterkloof)空軍基地での与党アフリカ民族会議(African National Congress: ANC)による追悼式の後、国葬が行われる東ケープ州に空軍の輸送機で遺体が運ばれた。翌15日にクヌで行われた国葬は、南アフリカ国軍の指揮のもと厳かに執り行われたが、ライブ中継のテレビ画面には参加者の間で笑みがこぼれた複数の瞬間など和やかな雰囲気も映し出された。

ジョハネスバーグの追悼式がBRICs色の濃いものであったのに対し、国葬で追悼演説を行ったのはジャカヤ・キクウェテ(Jakaya Kikwete)タンザニア大統領やケネス・カウンダ(Kenneth Kaunda)ザンビア元大統領といった、反アパルトヘイト解放闘争を歴史的に支援してきたアフリカ諸国の国家元首および元国家元首が中心であった。南アフリカでは2008年にアフリカ諸国出身移民に対する大規模なゼノフォビア(外国人排斥、反外国人感情)的暴力事件が発生し、現在でもアフリカ系外国人が経営する商店を標的とする商品強奪事件などが時おり起こっている。そのような状況において、マンデラの国葬という、南アフリカ国民にとって非常に大切な場でアフリカ諸国の国家元首が、マンデラやANCに対してかつて提供した支援について述べたことには重要な意味があったと思う。


おわりに
マンデラが逝去した12月初頭、与党ANCとズマ大統領を取り巻く政治状況は芳しいものではなかった。クワズールー・ナタール州ンガンドラ(Nkandla)にあるズマ大統領私邸の改築に関して多額の公金が必要以上に使用されたことを指摘するトゥリ・マドンセラ(Thuli Madonsela)公共保護官の中間報告書がマスコミにリークされ、大統領に対する批判が高まっていた。ハウテン州では、南アフリカ労働組合会議(Congress of South African Trade Unions: COSATU)や野党民主同盟(Democratic Alliance: DA)などの反対を押し切って、高速道路課金(Eトール)システムの運用が12月3日から開始されたが、同システムに対する反発の声も続いていた。マンデラ逝去のニュースはこれらの報道を一掃した。タイミングがANCとズマ大統領にとって好都合すぎると感じた人は少なくなかったはずである。

マンデラの死が南アフリカの政党政治に重要な影響を及ぼすかどうかは現時点ではわからない。国民統合の象徴とはいえ、すでに公の場から引退して久しいマンデラの死は、2014年に予定されている総選挙の結果に対してほとんど影響を及ぼすことがないだろうという見方もある。追悼期間の間、ズマ大統領を含むANCの政治家は、天国に行ったらマンデラはANCの天国支部を探すつもりであり、支部が存在しなければ自分でANC支部を結成するつもりであると生前語っていたと述べ、マンデラとANCの一体性を幾度かにわたり強調した。ジョハネスバーグの追悼式もクヌでの国葬も、シリル・ラマポーサ(Cyril Ramaphosa)ANC副議長とバレカ・ムベテ(Baleka Mbete)ANC全国委員長が司会を務めていたことを考えればANC色が強かったことは否めないが、式次第や追悼演説からは政治色は排除されていた。とはいえ、2014年前半に激化する選挙戦において、ANCを含む各党がマンデラのイメージを利用しないとは言い切れない。

(さとう・ちづこ/アジア経済研究所)



脚 注
  1. マンデラ逝去を伝えるズマ大統領の国民演説における表現。(http://www.thepresidency.gov.za/pebble.asp?relid=16646, 2013年12月16日アクセス).
  2. マンデラが育った地。
  3. マンデラの氏族名。国民が尊敬と親しみの念を込めてマンデラを呼ぶ際の愛称でもあった。
  4. 南アフリカの公用語11言語のひとつで、おもに東ケープ州に住むコーサ人が話す。マンデラの母語でもある。
  5. 反アパルトヘイト闘争時から現在の政府に対する抗議行動にいたる幅広い機会に行われる、一定のリズムに合わせてステップを踏みながら行われるデモ行進。