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時事解説:和解の政治家、ネルソン・マンデラ

アフリカレポート

No.52 特集:ネルソン・マンデラ——その人生と遺産

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No.52 和解の政治家、ネルソン・マンデラ
■ 時事解説:和解の政治家、ネルソン・マンデラ
■ 平野克己
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.10-14
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はじめに
大統領就任直後のネルソン・マンデラ氏を大統領官邸に訪ね、一度お会いしたことがある。30分ほど某テレビ局のインタビューに同席した。笑顔を絶やさず、じつにゆったりとした泰然たる風情であったが、私が受けた印象は政治家というより、厳しい修行で余計なものが削ぎ落とされた“有徳の高僧”だった。

マンデラはアフリカ政治史における最大の英雄であり、アフリカ人にかぎらず世界中の人々からもっとも尊敬され、愛されたアフリカの政治家である。彼が南アフリカ、そしてアフリカに残した足跡は巨大で、その貢献は計り知れない。20世紀の終わりに自由と民主主義をもっとも強力に推し進めた政治家は、アフリカ人のマンデラだったのである。

マンデラの登場は、それまで永く混乱と汚名にまみれていたアフリカ政治に対する世界の評価を一変させ、信頼を回復させた。そして、民主主義は国民和解のうえにしか成立しないものだということを世界に向かって示したのである。

マンデラはだれからも愛されたが、とくに世界の国家元首たちが彼を崇敬した。彼らにとってマンデラは、政治家として、また国家のリーダーとして、理想の体現にみえたのだろう。


1.自由主義者マンデラ
マンデラは、植民地時代唯一の黒人大学として設立されたフォートヘア大学に在学中、のちのアフリカ民族会議(African National Congress: ANC)総裁オリバー・タンボに出会い政治運動に入った。その後ヨハネスブルグに移りウォルター・シスルにも出会っている。シスルは、1949年にANC事務局長に就き積極的な反アパルトヘイト闘争路線を敷いた人物だ。マンデラはこういった先達たちに可愛がられ、その教えを素直に吸収して、“古典的”な正統派自由主義者として思想的に完成していった。マンデラ自身の思想陶冶期は、ANCが非人種自由主義とアフリカ民族主義の相克を経験して、最終的に前者を選択するという、組織思想の形成期でもあった。

ANCは、アフリカ民族主義ではなく、白人やインド系を含む非人種自由主義の組織として成長していった。アパルトヘイト体制下の南アフリカには、議会も選挙も三権分立もすべての民主主義制度が存在したが、その適用は人種によって違っており、つまりは基本的人権だけが欠如していた。だからANCは自由主義思想に基づく基本的人権を旗印に掲げ、アパルトヘイト最大の弱点を突いたのである。

ヨハネスブルグにあるウィットウォータースランド大学で法律を学んだのち弁護士試験に合格して、タンボと一緒に黒人のための初の法律事務所を開いた。ここから彼の大活躍が始まる。マンデラは知力体力を備えた、弁舌爽やかな、黒人たちにとってのスターだった。長身とボクシングで鍛えた強健な肉体をもち、お洒落でもあった。1956年に始まった反逆罪裁判では、マンデラはじめANCの論客は法廷論争で政府に勝利している。だが1963年のリヴォニア事件で再び逮捕され、国家反逆罪で終身刑判決を受け、ケープタウン沖のロベン島に収監された。それから27年間を獄中で過ごしたのである。

しかし獄中でも彼の思想信条はビクともせず、孤独や苦悩と闘いながら人格陶冶されていく様子は、自伝『自由への長い道』に詳しい。絶望に侵されず、自恃と理念を失わず、つねに困難と闘おうとする不屈。マンデラの自伝は、ドイツ風教養小説の香気とイギリス風冒険小説の興奮を同時に味わわせてくれる希有のドキュメンタリーで、南アフリカ近代史を学ぶうえでの必読書でもある。 国際社会で高まっていった反アパルトヘイト運動は、一面ではマンデラ釈放要求の運動でもあった。1986年に英連邦から派遣された代表団はマンデラとの面談を許されているが、そのとき彼は、社会主義ではなく民主主義に基づいた民主南アフリカの構想を語っている。ちなみにこの代表団のなかには、ナイジェリア民主化を担ったオバサンジョもいた。非合法化されたのち亡命時代のANCでは共産党と共産主義の影響力が著しく強くなったが、80年代末、政府との秘密交渉においてマンデラが披瀝した穏健思想は、白人政権にANC合法化への決心を促す大きなてこになった。ANCが本来もっていた自由主義思想はロベン島のなかで保存され、1990年代に返り咲いて民主化を指導したのである。


2.リーダーシップの輝き
1990年に釈放され、ふたたび世界のメディアの前に現れたマンデラは、若き日の姿とは見違えるほどに痩身で、圭角のとれた威厳ある風貌を備えていた。その後彼は、アパルトヘイト体制の解体と民主化交渉においてめざましいリーダーシップを発揮する。困難をきわめ、多くの妨害にさいなまれ、幾度も挫折しかかった民主化交渉は、マンデラの存在なくしては決して成功しなかったであろう。アフリカの政治家の高潔さと手腕に世界中が刮目した初の事例でもあった。マンデラは民主化交渉に参加しているだれよりも年長で、だれよりも背が高く、だれよりも威厳に満ちていた。亡命時代のANCは武力闘争のなかで共産主義に傾いていったが、90年代民主化交渉は自由主義者マンデラによって率いられたのである。武力闘争を放棄させ、武闘派を排除したマンデラの強力な指導がなければ、民主南アフリカの黎明はなかった。

1993年4月、私はマンデラも学んだ南アフリカのウィットウォータースランド大学に派遣された。南アフリカ民主化を現地で観察するためだ。大学のゲストハウスに落ち着いた1週間後、マンデラに次ぐ人気をえていた黒人政治家クリス・ハニ共産党書記長が暗殺されるという事件が起こった。世情は騒然となり、大学はもちろんのこと、国中の機能が止まってしまった。アパルトヘイトという腐った殻から脱皮したばかりでいまだ新しい体制をもたず、いわば裸同然の南アフリカは、最大の危機に陥ったのである。このとき先頭に立って国民に冷静になるよう訴えたのは、当時の大統領デクラークではなく、マンデラであった。マンデラは、国民の怒りと不安を民主選挙の実施に向け結集することでこの危機をのりきり、1年後の選挙実施決定にまでいっきにもっていったのである。このときのマンデラには鬼気迫るものがあった。南アフリカのだれもが、黒人も白人も、南アフリカを救えるのはマンデラだけだと確信した。

このような情勢のなかでANCとの対抗路線を捨てざるをえなくなった当時の与党国民党は、一転してANCと共同歩調をとるようになった。マンデラのリーダーシップに導かれながら、初の国政普通選挙に向けた工程が徐々に積み上げられていった。武装勢力は追いつめられ、個々に孤立させられて検挙され、民主化プロセスから排除された。彼らに対してマンデラは容赦なかった。最後の難関は南アフリカで最大の人口規模をもつズールー族だった(ちなみにマンデラはズールー族に次ぐ人口をもつコーサ族出身である)。ズールー族には政治的影響力をもった王家が存在したし、ズールー民族主義にたつインカタ自由党があった。黒人同士の政治紛争にも常にズールー族が絡んでいた。ズールー懐柔のため登用されたのが現大統領のズマである。ズマは、ANC内でもっとも高い地位にいるズールー人だった。

1993年10月、マンデラはデクラーク大統領とともにノーベル平和賞を受賞した。マンデラは解放闘争の先人たちの代表として受賞したと述べ、「あれだけ崇高な人々をつくりあげるには、あれだけの過酷な抑圧が必要だったのだろう」と語っている。亡命時代のANCを支えた盟友タンボは、1991年にマンデラにANC総裁の地位を譲ると、マンデラ政権誕生をみることなく、1993年4月に燃え尽きるようにして亡くなった。民主化交渉の危機を幾度となく救ってくれたもうひとりの盟友、南アフリカ共産党のジョー・スロヴォ議長も1995年に亡くなっている。2003年にはシスルも亡くなった。ひとり残された孤独をマンデラはときどき口にした。


3.大統領として
ノーベル賞受賞の翌1994年、南アフリカ史上初の国政普通選挙でマンデラは大統領に就任した。
「この美しい国で、二度とふたたび、人が人を抑圧するようなことがあってはならない」
就任演説での新大統領の言葉を聴きながら多くの人が泣いていたことを、私は鮮明に記憶している。南アフリカの歴史上最良のときであったろう。マンデラが進めた徹底した人権重視と国民和解の政治は、彼が関わったアフリカ紛争調停にも生かされた。惨憺たる有様だった当時のアフリカ政治に対し、マンデラはたいへん厳しかった。1995年に社会運動家ケン・サロウィワを処刑したナイジェリアから大使を召還し、ブルンジ紛争の調停では武装勢力を「アフリカの恥だ」ときつく叱責している。

アフリカの植民地解放運動を支えたアフリカ民族主義は、経済権益をアフリカ人の手に奪還することをめざしたが、マンデラは、徹底した非人種主義を信条として白人社会との共存を目標とした。「南アフリカの白人は南アフリカ人である」と繰り返し述べ、虐げられてきた黒人と同様、彼らの権利を擁護した。黒人たちに「白人を許そう」と説き続け、和解の政治を推し進めたのである。 南アフリカでは、アパルトヘイト体制下にあった1980年代から経済自由化政策が進行していた。このころから南アフリカに対する経済制裁が厳しくなり、外資はどんどん撤退していった。撤退した外資の権益を吸収して膨らんだいくつかの財閥が支配する、活力に欠けた経済となり、狭い国内市場に閉じ込められた南アフリカ企業は窒息寸前だった。低成長に苦しむ経済の再生を、当時の政府は自由化に託していたのである。

一方、獄中時代のマンデラは、非人間的な人種差別政策によって貧困を強いられてきた黒人大衆を救うには、少なくとも鉱業部門は国有化する必要があると考えていた。その収入を使って貧困対策を行うつもりだった。だが釈放後に国内外の企業人と会い、その意見を聞くなかで、そのような政策が経済運営に対する信任を失わせ、民主南アフリカの建設にとってかえって不利になると判断したようである。マンデラ政権は、こと経済政策に関しては前白人政権の方針をそのまま継承し、むしろ規制緩和や為替自由化、公社の民営化を加速させた。自由主義的な経済政策はマンデラの思想に沿うものでもあった。

民主化後の南アフリカ企業はくびきを解かれたようにアフリカ進出や世界展開に乗り出し、いっきにグローバル化していった。そのなかから、世界最大の資源企業であるBHPビリトンや世界第2位のビール会社SABミラー、アフリカ最大の銀行であるスタンダード銀行やアフリカ最大の携帯電話会社MTNなどが誕生した。こういった企業は一次上場をロンドンに移してグローバル企業に成長し、2000年紀に入ってからの資源高以降は、アフリカ全体の経済成長を下支えしている。

マンデラはまた投資誘致に積極的だった。日本企業では、南アフリカ最大の製造業企業のひとつであるトヨタ自動車に幾度となくラブコールを送っている。トヨタは2000年に投資拡大を決め、生産能力を倍増させて、自動車産業を南アフリカのリーディング産業にまで押し上げた。トヨタはおそらくマンデラともっとも親しかった日本企業だ。

マンデラ政権の経済政策といえば、1994年選挙におけるANCの公約だった「復興開発計画」(Reconstruction and Development Programme: RDP)が挙げられる。これは100万戸の住宅建設や25万戸の電化等を軸とした大規模な公共事業計画であり、教育拡充や保健衛生サービスの充実とあわせ、これまで公共サービスを受けられずにきた黒人大衆を救済するというものだ。しかしポスト・アパルトヘイト社会の構築は、RDPのための財源をどのように生み出すか、活力に満ちた経済をどうやって実現するかにかかっていた。またANC政権最大の課題は、4割が失業状態にある黒人層のための雇用創造だった。

どうやって経済成長率を引き上げるか。自由主義者マンデラはその答えを市場経済に求めた。それが、現在の南アフリカ経済と南アフリカ企業の基盤をつくりあげたのである。


4. ポスト・マンデラ
彼は高齢を理由に1期で大統領職を降り、長期政権が常態だったアフリカ政治に一石を投じて政界から去った。アフリカ連合での最後の演説では、ジンバブエのムガベ大統領に「ともに後進に道を譲ろう」と語りかけている。ムガベはマンデラと南アフリカに激しいライバル心をもっていたようだが、その後独裁色を強め、自国を破綻へと追いやった。

マンデラの死去が南アフリカに、なにか政治的混乱をもたらすようなことはないだろう。そもそもマンデラは、若い世代による指導体制を早期に用意するため引退したのであり、南アフリカ政治はその後15年、すでにポスト・マンデラの道を歩んできた。だがしかし、現在の南アフリカ政治は“理念なき政局政治”とも言うべき様相を呈し、要職をズマ派が占めるようになっていわば“部族政治”化し、汚職とスキャンダルにまみれている。経済においても、他のアフリカ諸国に先駆けて成長率が減速しだしている。2012年にはプラチナ鉱山での労使対決が惨劇化し、民主化後最大の死者を出したことは、労働組合組織を支柱のひとつとしてきたANCの統治能力に対する、かなり深刻な疑義を国際社会に刻印してしまった。

歴史は、ときとしてひとつの人格に象徴されるものだ。マンデラはまさにそういう人だった。21世紀に入って以降の世界は「対決の政治」に支配されているように思われる。マンデラ亡きあとの南アフリカに、いや世界に、融和や統合を体現できる政治家がふたたび登場する日がくるだろうか。

(ひらの・かつみ/アジア経済研究所)