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エジプト2014年憲法:スィースィー政権の統治理念を読み解く手掛かりとして

政策提言研究

竹村和朗 (東京大学大学院博士課程、日本学術振興会特別研究員)
2015年3月
PDF (855KB)

※以下に掲載する論稿は、平成26年度政策提言研究「政治変動期の中東地域と湾岸安全保障」の分科会(「エジプト動向分析研究会」第6回研究会)での報告の後に取りまとめたものです。

はじめに

2014年6月の大統領選挙の最終結果公示により、軍出身のアブドゥルファッターフ・スィースィー(ʻAbd al-Fattāḥ al-Sīsī)前元帥を大統領とする新政権が発足した。すでに治安維持や経済開発の点でいくつかの施策が見られるが、スィースィー大統領は、今後どのような政治運営をし、どのような方向へ社会を導いていくのだろうか。本稿では、いまだ検討材料の多くないスィースィー政権の具体的な施策からではなく、その成立ときわめて深い関係を持つ「2014年憲法」を見ていく中で、その統治理念のあり方を見定めてみたい。

本稿の構成は、以下の通りである。まず、次節では、エジプト現代史における憲法の成立過程を概観する。現代エジプトの為政者は、権力の象徴としての憲法の存在を重視し、時に革命がなくとも、これを書き換えてきた。憲法はいつ、どのような手続を通じて制定されたのか、現代エジプトにおける「革命と憲法」の関わりを整理する。

その上で、第3節では、2013年の「6月30日革命」から2014年憲法の制定までの過程を振り返る。第2節で述べるように、新憲法の制定にはおもに「既存憲法の停止」「起草委員会による草案作成」「国民投票による公布」の三段階が伴う。そもそも「2014年憲法」とは、2011年革命後につくられた「2012年憲法」の抜本的改正のことであるが、第3節では、その制定過程において、誰がどのようにこれらの作業を担ったのかを明らかにする。

第4節では、2014年憲法の条文内容を精読する。ムスリム同胞団を母体とするムルスィー政権下で制定された2012年憲法は、イスラームを社会改革の柱とし、議会中心型の政治体制の構築を目指したが、これを乗り越えるべくつくられた2014年憲法においては、どのような課題が取り上げられ、どのような政治体制が目指されているのか。第4節では、条文の構成や特徴的な条項から、2014年憲法の性格を読み解いていく。

ムルスィー大統領が解任された2013年の6月の「革命」と、スィースィー大統領が就任した2014年の6月の「大統領」選挙のまさに中間点に、2014年1月の「憲法」の制定が存在する。これら「革命」「憲法」「大統領」という現代エジプトの国家体制の最重要ポストを結ぶ三角関係のあり方を考察することが、本稿の目的である。

1. 革命と憲法

現代エジプトには、2014年憲法に先立ち、「憲法」と見なされるものがおよそ七つ存在する 1 。最初の近代的な成文憲法は、1919年革命後に制定された「1923年憲法」である。これは、第一次世界大戦時のイギリス保護領から独立したエジプト王国の立憲統治を定めたものであり、同じく立憲君主制をとる1831年ベルギー憲法をとりいれたものであった。1930年には、時の国王フアードI世の主導により、議会の権能を抑えるための憲法改正が行われ、「1930年憲法」が成立したが、議会からの政治的反発が強く、4年後に無効化され、1935年から再び1923年憲法が施行された。

エジプトは1952年の「7月革命」により共和制へ移行するが、これ以来、五つの憲法が公布された。その第一となる1956年憲法の成立過程には、以下の6段階が見られる。

(1)ファールーク国王の王位禅譲と国外退去(軍隊総司令部の1952年7月26日付の声明)
(2)1923年憲法の停止、新憲法の求め(軍隊総司令部の1952年12月10日付の憲法宣言)
(3)3年の移行期間、11か条の統治原則(軍隊総司令部の1953年1月17日付の憲法宣言)
(4)共和制樹立、ナギーブ初代大統領(革命司令評議会の1953年6月18日付の憲法宣言)
(5)1954年憲法案の起草・廃棄、1956年憲法案の起草
(6)1956年憲法の制定(革命司令評議会の1956年1月16日付の憲法宣言、6月国民投票)

この内、(1)(3)(4)の段階は、王制から共和制への統治体制の移行に関わるものであり、平行して、(2)(5)(6)の「既存憲法の停止」から「新憲法の起草」「公布」が進められた。1954年には当時のアリー・マーヘル総理大臣を委員長とする50人の憲法起草委員会が憲法草案を提出した。しかしそれは1923年憲法を踏襲した「議会制共和国」を掲げるものであったため、革命指導部の同意を得られず廃案となった。代わりに、大統領府の直轄する憲法制定委員会が設置され、大統領権限を強調した草案が作られ、これが1956年憲法となった。

1956年憲法の制定と同時に大統領選挙が行われ、ナセル(Jamāl ʻAbd al-Nāṣir)が新たな大統領に選ばれた。ナセルは、アラブの統一を掲げ、1958年にシリアとの「アラブ連合共和国」を樹立すると、この1956年憲法をあっさり手放し、「1958年暫定憲法」を制定した。この1958年憲法は、全73条と短く、起草委員会による草案作成と国民投票の承認のいずれも経ていない点で「憲法宣言」に近いものであったといえよう。

このアラブ統一の夢が1961年の連合解消により頓挫すると、ナセル率いるエジプトは、急速にソヴィエト共産圏に接近していった。1962年6月30日に社会主義的統治理念を定めた『国民憲章』が公表された後、同年9月27日には暫定的な統治原則を述べる全20条の憲法宣言が発表された。その1年半後の1964年3月24日に、「1964年憲法」が公布された。これもまた1958年憲法と同じく、起草委員会と国民投票を経ていない「暫定的」な性格を有するもので、議会が正式な新憲法を制定するまでのつなぎとされた。

その後ナセルは新憲法を作り出すことなく1970年に急逝し、副大統領であったサダトが後継者となり、「1971年憲法」を制定した。その成立過程は、以下の3段階に整理される。

(1)1971年5月15日の「修正革命」により他の政治勢力を制圧。議会に新憲法を求める。
(2)による起草委員会の設置(議員50人、後に有識者を加え80人)、草案作成。
(3)1971年9月11日の国民投票による可決・公布。

1971年憲法は、1964年憲法が新憲法制定を前提とするものであったため、「既存憲法の停止」を伴うことなく、「起草委員会による草案」と「国民投票による公布」の2点により成立した。その内容は、1964年憲法の社会主義規定を継承しつつ、独自の倫理観や「法の支配」の理念、最高憲法裁判所の設置などを盛り込んだものとなった。1980年には、同じくサダト大統領の主導により、大幅な憲法改正が行われ、上院的権能を持つ「諮問評議会」の設置と報道権が追加された。

1981年にサダトが暗殺された後、大統領職を継いだムバーラクは、独自の憲法を作らず、2005年と2007年に大統領選挙に関わる憲法改正を行っただけであった。2005年の憲法改正により、従来行われていた「議会が選ぶ候補者の承認」(実質的には国民投票)から、「議会が選ぶ複数の立候補者による選挙」に変化し、大統領選挙の名に見合う形式が整えられた。それでもなお「大統領」という共和制の根幹を定める選挙は、論議の的となり続け、国民民主党を通じた政治活動を行っていた、ムバーラクの次男ガマール(Jamāl Mubārak)による大統領後継問題は、2011年の「1月25日革命」の引き金の一つと数えられる。

そのムバーラク大統領が辞任するに至った2011年2月11日から2012憲法の制定に至る道のりにも紆余曲折があったが、以下の6段階にまとめられるだろう。

(1)1971年憲法の施行停止(軍隊最高評議会の2011年2月13日付の憲法宣言)
(2)2011年3月の憲法改正の国民投票。全63条の憲法原則(同3月30日付の憲法宣言)
(3)2011年9月~2012年2月の議会選挙、2012年3月~6月の憲法起草委員会の設置。
(4)2012年4月~6月の大統領選挙によりムルスィー大統領の誕生。
(5)2012年5月~12月の軍と大統領の憲法宣言の応酬。2012年12月に最終案の提出。
(6)2012年12月15・22日の国民投票、同月25日の最終結果公示・憲法施行。

2011年の「1月25日革命」におけるキープレイヤーは、「若者」「軍」「ムスリム同胞団」の三者といわれるが 2 、(1)から(3)にかけての軍の直接統治には反発も多く、民政移管を求める過程において、ムスリム同胞団が徐々に政治の主導権を握っていった。同胞団は、2011年末からの議会選挙において議席の半数近くをとり、議員を中心とする憲法起草委員会の主軸を担い、大統領選挙においても同党公認候補のムルスィー(Muḥammad Mursī)博士を勝利に導いた。このムルスィー大統領を中心とした「同胞団政権」の力により、軍その他の勢力を抑え、後に「同胞団憲法」と非難される2012年憲法を制定したのである。

2. 2014年憲法の成立

2012年憲法が施行された2013年初頭から、ムルスィー政権は議会選挙の準備をはじめた。2011~12年に選出された議会は、2012年憲法を制定する過程で、行政司法による議会選挙の無効判決が出され、かろうじて諮問評議会(上院)のみが新議会選出まで残されることになっていた。しかし新議会選挙は、政治的な混乱と障害に阻まれ、夏に延期されることになった。同時期の経済状況の悪化は、「同胞団政権」への反発を醸成していった。この反発は、2013年6月30日のムルスィー大統領就任一周年に際し、「謀反」(al-tamarrud)ら若者団体による「大統領の即時辞任」を求める全国的なデモへと発展していった。「謀反」に連なる一団は全国から2000万人を超える署名を集めたと述べ、6月30日には2011年に勝る数の大群衆がタハリール広場をはじめとする各地の広場や大通りに押し寄せたという。

これに対し、ムルスィー政権側は、選挙で選ばれた大統領という「正当性」(al-sharʻiyya)を訴えつつ、支持母体のムスリム同胞団を動員し、各地で大統領支持派のデモを組織していった。こうしてデモとデモが顔をつき合わせ、状況が膠着する中、6月30日の午後3時頃、軍隊総司令部が国営テレビを通じて声明を出した。軍は国政に関与しないとの立場を示しつつ、民衆の声は看過できないとして、ムルスィー政権に「48時間以内」に民衆の要求に応えることを求めた。その返答期限は、7月2日の午後5時とされた。

軍の介入により大統領辞任を求めるデモは勢いづき、他方、大統領支持を掲げるデモは反発を強めた。これに対し、ムルスィー大統領は、7月2日の午後10時頃に、テレビで演説を行い、「新内閣の組織」「議会選挙法の早期制定」「憲法改正委員会の設置」「若者の登用」等さまざまな提案を打ち出したが、要求の焦点であった自身の辞任は明確に否定した。これを受けて大統領辞任を求めるデモは、さらに勢いを増していった。

そして翌7月3日の夜半、軍隊総司令部は再び声明を出し、「2012年憲法の停止」「最高憲法裁判所長官による暫定大統領就任」「新大統領選の早期実施」「憲法改正委員会の設置」等を定めた。この時、壇上で声明を読み上げたのが、ムルスィー政権下で任命されたばかりのスィースィー防衛大臣であった。彼の左右には、数名の軍隊最高幹部、アズハル総長やコプト総主教、若者・女性諸団体代表が並び、まさに挙国一致の雰囲気を醸し出していた。なお、この声明では、「暫定大統領の就任」が宣言されたが、現職のムルスィー大統領の去就については一切触れられなかった。当のムルスィー大統領は、所在不明のまま、声明の数時間後に手持ちのビデオカメラで撮影されたと思しき映像を公開し、「私はエジプトの大統領」「選挙で選ばれた正当性がある」「軍のクーデターだ」と自らの主張をくりかえした。

ムルスィー大統領や同胞団幹部の拘束が噂される中、翌日の7月4日には、アドリー・マンスール(ʻAdlī Manṣūr)最高憲法裁判所長官が、暫定大統領に就任した。この時点から、ムルスィー大統領は、「前大統領」「解任された大統領」と呼ばれるようになった。マンスール暫定大統領は、翌5日には早くも最初の憲法宣言を出し、残存する諮問評議会(上院)を解散させた。続いて7月8日に全33条の憲法宣言を発表し、暫定的な憲法原則と今後の行程表を定めた 3 。その第28条では、15日以内に上級裁判官や憲法学者からなる「専門家委員会」を結成し、30日以内に2012年憲法の改正案が提出されることが定められた。

この専門家委員会の人選は、7月8日から「15日以内」とされたが、マンスール暫定大統領は早くも7月20日に10人の名簿を発表した 4 。前述の憲法宣言には、同委員会における裁判官や憲法学者の配分が述べられていたが、実際にとられた選考手続は明らかでなく、公には知らされていない。また、改正作業に際して広く一般市民にも意見が求められたが、実際の作業は非公開のまま進められ、その内容は公式発表されるまで一切明かされなかった。

専門家委員会——その人数から「10人委員会」とも呼ばれる——は、8月20日、マンスール暫定大統領に全197条の改正案を提出した。22日には国内メディア上でその内容が公開されたが、2012年憲法の33か条が削除され、残る条文も大半があらためられた。とくに2012年憲法の特徴とされたイスラーム的性格の強い条文の内、第12条「知識・教育のアラビア語化」、第44条「使徒・預言者の中傷禁止」、第219条「イスラームのシャリーアの原則」等が削除された。また、議会の一院制への変更に伴い、二院制に関係する条項が減らされた。全般に、この改正案は、構成・内容の点で1971年憲法に近い。

なお、この改正案提出の1週間前にあたる8月14日には、ムルスィー大統領を支持し続ける同胞団デモ隊に対する治安部隊による強制排除がはじまった。これは、デモ側に数百人の死者を出し、非常事態宣言と外出禁止令が出されるほどの凄惨な事件に発展した。ムスリム同胞団は、これに続くテロ組織の認定により、公的な政治から退場させられることになる。

専門家委員会に続く50人委員会の人選については、8月初旬から議論されはじめたが、最終的に決定されたのは改正案提出後の9月1日であった。前述の憲法宣言の第29条では、「社会のすべての層、宗派および人口上の多様性を代表する」ため、「若者・女性は少なくとも10人」「各団体はその代表者を選任」「公人は内閣が選任」等の指針が定められていた。先の専門家委員会の人選と同じく、配分は公的に規定するが、実際の選出手続は、各団体もしくは内閣に一任されており、その具体的な過程については明らかにされていない。無論、ムスリム同胞団の構成員がこれに加わることはなかった。委員長は、「公人」枠で選出されたアムル・ムーサー(ʻAmr Mūsā)元外相が務めた。

この50人委員会の初会合は9月8日とされ、この日より改正案の修正作業がはじまった。憲法宣言では「60日以内に最終案を準備」と定められたが、さすがにここには若干遅れが出て、11月末日から2日間かけて最終案の決議が行われた。最終案は、ムーサー委員長により一条ずつ読み上げられ、各委員が電子投票機により投票する仕組みになっており、その様子はテレビでも放映された。否決された4か条の討論・決議が行われた後、12月3日、ムーサー委員長はマンスール暫定大統領に最終案を提出した。国民投票は、年明け後の1月14・15日に設定された。その結果は約2050万票(有効投票の98%)の賛成多数であり、憲法規定に則り、最終結果が公示された18日に「2014年憲法」が施行された。

2014年憲法の第230条には、憲法制定に続く選挙は、大統領選・議会選を問わず、憲法施行日から30日から90日以内にその手続を開始することが定められている。この規定に則り、大統領選の立候補受付が4月1日から20日まで行われた。これに先立つ1、2ヶ月間は、軍の最高位にあたる元帥になったスィースィーがいつ出馬を表明するかが関心の的となっていた。最終的に立候補したのはスィースィーと、2012年大統領選挙にも出馬した左派政治家のサッバーヒー(Ḥamdīn Sabbāḥī)だけであった。二候補による決戦選挙は、5月26・27日に実施され、6月3日に最終結果が公示された。新憲法制定の国民投票の結果をも上回る約2378万票(有効投票の97%)を得て、スィースィーが大統領に選出された。スィースィー新大統領は2014年憲法の規定に則り、議会不在のため、最高憲法裁判所において就任の宣誓を行い、マンスール暫定大統領は最高憲法裁判所長官に復帰した。

こうして2014年憲法は、「2012年憲法の停止」「二つの憲法改正委員会の設置・改正案作成」「国民投票による公布」の三段階を経て、成立に至った。大統領を先に決めた2012年憲法と異なり、暫定的な大統領を立てておき、憲法を定めてから正式な大統領を選出した点で、また、議会ではなく独自に編成した起草委員会が草案作成を担った点で、2014年憲法の成立過程は1956年憲法と似ている。スィースィーは、21世紀のナセルとなるのだろうか。

3. 2014年憲法の内容

前節では2014年憲法の成立過程を概観し、それが1956年憲法と類似していることを指摘した。本節では、その具体的な構成・内容を見ていくこととしたい 5 。2014年憲法は、全6編247条からなり、歴史的に最多であった2012年憲法の全5編236条を超えた。構成面では、1971年憲法に立ち戻ったといえるだろう 6 (表1)。

表1.三つの憲法の編構成と条文数の比較

2014年憲法 2012年憲法 1971年憲法
1.国家(1-6) 1.国家・社会の構成要素(1-30) 1.国家(1-6)
2.社会の基本構成要素(7-50) 2.社会の基本構成要素(7-39)
3.公の権利・自由・義務(51-93) 2.権利・自由(31-81) 3.公の権利・自由・義務(40-63)
4.法の支配(94-100) 4.法の支配(64-76)
5.統治体制(101?221) 3.公権力(82-199) 5.統治体制(77-184)
4.独立機構・監査機関(200-216)
6.一般・経過規定(222-247) 5.結び・経過規定(217-236) 6.一般・経過規定(185-193)
7.新規定(194-211)

第1編「国家」には、国家権力の基本原則を述べる6か条が含まれる。第1条では、政治体制を「民主共和制」と定め、「国民間の平等」(al-muwāṭana 7 )と「法の支配」(siyāda al-qānūn)の二つの原則を基礎とすることが述べられる。これらの言葉遣いは過去憲法とも共通するが、「国民間の平等」と訳したムワータナ——直訳すれば「国民権」「市民権」——の重視は、2014年憲法の随所で見られるものである。

第1条第2項では、「エジプト人民は、アラブの共同体(al-umma)の一部である」とのみ述べられ、2012年憲法で加えられた「イスラームの共同体」の語は抜けた。ただし、その後に「エジプトはイスラーム世界の一部である」とあらためて言及されており、ムスリム同胞団的なイスラーム性重視は否定しても、国民の9割を占めるイスラーム教徒のアイデンティティー自体を手放すわけではなく、より穏当な表現が模索されたといえる。

2012年憲法では第4条に置かれた国内のイスラーム最高学府「アズハル」の規定は、2014年憲法では第2編「社会的構成要素」の第7条へと場所を移された。その際、論議を引き起こした「イスラームのシャリーアに関するアズハルへの諮問義務」も削除されている。

第1編末の第6条「国籍」規定は、2012年憲法では第2編「権利および自由」の第32条に置かれていたが、2014年憲法では1971年憲法同様、第1編に戻された。加えて、従来型の「国籍は法律で定める」といった簡易な表現は、「国籍はエジプトの父もしくは母のもとに生まれた者に与えられる権利である」との積極的な権利規定にあらためられている。

第2編「社会の基本的構成要素」は、三つの章に分かれ、それぞれ「社会的構成要素」「経済的構成要素」「文化的構成要素」を扱う。第1章の第11条では、「男女間の権利の平等」「政治・行政における女性の代表性の確保」「女性の暴力からの保護」等が規定される。同様に男女間の平等を規定した1971年憲法第11条では、「イスラームのシャリーアの規定に反することがないかぎり」と留保が付されたが、2014年憲法には見られない。

第19条「教育権」では、教育の目的として、「エジプト的個性の構築」「国民アイデンティティーの維持」「国民間平等」「差別撤廃」等が掲げられ、新たな価値観が提唱されている。さらに、「高等教育修了まで無償化」「国立教育機関での無償化」といったかつてない教育重視策が述べられ、教育にかける強い意欲が感じられる。このほか、第20条「職業訓練の推進」、第21条「高等・大学教育の保護」、第22条「教員の技能開発」、第23条「学問の推進」等の新規定がこの教育権を拡充・補強している。

経済的要素を扱う第2章の第27条では、経済発展と富の再分配の両方に配慮しつつ、「透明性」(al-shafāfiyya)や「ガバナンス」(al-ḥawkama)、「競争原理」(maḥāwir al-tanāfusiyya)等の現代的な語彙を用いて、明らかに資本主義的な経済体制の構築が模索されている。これに関連して、続く第28条において、「競争の増加」「投資誘因状況の創出」「インフォーマル部門の組織化」に務める国の責務が述べられる。第29条「農業・農民」、第30条「漁業・漁民」、第31条「情報空間」、第32条「自然資源」においても、これら部門への国の保護とその経済的利用の調和が追求される。

第43条では「スエズ運河の開発」に触れ、国がスエズ運河を積極的に利用し、開発する責務を負うことが宣言される。続く第44条では、「ナイル川の保護」と「すべての国民がナイル川を享受する権利」が定められ、エジプトとナイルの間の有機的連関が示されている。

文化的要素を扱う第3章では、第47条「エジプトの文化的アイデンティティーの保持」、第48条「文化はすべての国民の権利」、第49条「遺跡の保護・監督」、第50条「文明・文化遺産の保護・指導」という従来は述べられなかった愛国的な文化規定が述べられる。この「文化的構成要素」という章自体、1971年憲法にも存在しない新しいものである。

第3編「公の権利、自由および義務」は、近代憲法の権利章典に相当する。この中では、古典的な「自由」(人身、居住・移転、信教、思想・意見、学問)、「権利」(知る、報道・出版、集会、結社、請願、選挙)、「不可侵性」(私生活、住居、個人の身体)が定められる。その大半は1923年憲法に遡ることができる古い条項であるが、近年追加されたものも見られる。その一つが、2012年憲法第31条として加えられた「人間の尊厳」で、2014年憲法においても第51条として採用されているが、ここに含まれていた「何人に対する侮辱は認めない」との規定は削除された。関連して、2012年憲法第44条「使徒・預言者の中傷の禁止」もなくなっている。続く第52条には、「拷問は犯罪である」という新規定が加えられた。

第53条では、「国民は法の下で平等である」という古典的規定に加えて、細かく差別の理由となる事柄を挙げて、「いかなる理由によっても国民を差別しない」「差別・嫌悪の煽動は犯罪である」「国は差別の解消に努める」等が付され、第1編で触れられたムワータナの原理を強く支持している。その一環として、第80条「児童の保護」、第81条「障害者の保護」、第82条「若者の保護」、第83条「高齢者の保護」、第93条「人権等の国際協定の遵守」等の規定を充実させ、社会的弱者に対する積極的な保護姿勢が打ち出されている。

第4編「法の支配」は、編の構成が1971年憲法に戻っただけであり、ここに含まれる条項は2012年憲法とも共通し、とくに大きな変化は見られない。第94条「司法の独立性」、第95条「刑罰個人主義・遡及処罰の禁止」、第96条「無罪の推定」、第97条「裁判を受ける権利」、第98条「弁護権」等、刑罰や裁判に関わる原則が挙げられる。

第5編「統治体制」は、近代憲法の権力分立に相当する。第1章は「立法権」を扱う。2014年憲法において議会は一院制に戻り、「代表議会」(majlis al-nuwwāb)と呼ばれる。この名称は、2012年憲法が定める二院制議会の下院と同じで、古くは1923年憲法下の議会下院に用いられたものである。1971年憲法下の議会は、一院制で、「人民議会」(majlis al-shaʻb)と呼ばれた。この名称は、1964年憲法までの「国民議会」(majlis al-umma)を変更したもので、社会主義的語彙として「人民」を強く意識したものだった。2012年憲法は、立法権を強化しつつ、その名称を「人民」から「代表」に替えたが、2014年憲法では「代表」の語をそのまま流用した。名称の流用そして一院制議会に戻した点に、立法権を——軽視とまではいかないが——あまり重視していないことが透けて見える。

第137条「大統領の議会解散権」では、大統領が議会を解散させる手続として国民投票の賛成多数が課されているが、同様の内容を示す2012年憲法第127条では「反対多数の場合には大統領は辞任する」ことが明記されていた。立法権の相対的な弱体化といえよう。

第5編第2章「行政権」は、三つの節に分かれ、それぞれ「大統領」「政府」「地方行政」を扱う。大統領権限は、ほとんどが保持されているが、若干の変更や追加が見られる。たとえば、第141条「大統領選挙の立候補要件」では、本人だけでなく「親・配偶者も過去に他の国籍を取得したことがない」ことが加えられ、国籍上の純粋なエジプト人性が求められるようになった。また、兵役義務の満了もしくは法的免除証明も必要とされるようになっている。(これら2点は、政府閣僚も同様だが、議員には求められていない。)

第146条「政府の組織」では、大統領が内閣総理大臣を選び、総理が組閣し、議会から信任を得る方式をとる。これは、2012年憲法第139条とほぼ同内容だが、議会から信任が得られない場合の手続に若干の違いが生じている。2012年憲法では、(1)「大統領が総理を選ぶ」、(2)「大統領が最多議席の政党から総理を選ぶ」、(3)「議会下院が総理を選ぶ」、(4)「大統領は下院を解散し、議会選挙を行う」という4段構えであったのに対し、2014年憲法では、(1)「大統領が総理を選ぶ」、(2)「大統領が最大議席の政党・連立から総理を選ぶ」、(3)「大統領は議会を解散し、議会選挙を行う」という3段構えに簡略化されている。また、同条末尾には、「(2)の場合に関して、大統領は防衛・内務・外務・法務大臣を選ぶ」という一文が新たに加えられた。2012年憲法が議院内閣制を志向していたのに対し、2014年憲法は大統領制に戻され、組閣において大統領の意向が強く反映されるものとなっている。

なお、全体に大統領の権限は保持されていると述べたが、新たに、第161条「議会による大統領の不信任決議」という規定が設けられたのは、立法権に対する重要な譲歩であろう。これは、大統領が議会を解散させることができるのと同様、議会が大統領を解任することができる仕組みで、そのいずれにおいても国民投票における賛成多数が必要とされる。ただし、国民投票において反対多数の場合、大統領は辞任を定められていないが、議会は解散させられることになっている。

第2節「政府」と第3節「地方行政」の内容は、とくに大きな変化は見られない。「地方行政」は、2012年憲法では第3編「公権力」において、立法・行政・司法に続く第4章を構成していたが、2014年憲法では1971年憲法と同様に、行政権の下位に位置づけられた。

第5編第3章「司法権」も、条文内容に大きな変化はないが、章・節の構成が変化した。2012年憲法では、第3章「司法権」の下に種々の司法機関が置かれていたが、2014年憲法では、第3章「司法権」と並列して、第4章「最高憲法裁判所」、第5章「司法機関・機構」、第6章「弁護士」、第7章「専門家」が扱われるように、やや雑多に整理されている。

第5編第8章「軍隊および警察」では、五つの節に分かれて、「軍隊」「国家防衛会議」「軍事法廷」「国家安全保障会議」「警察」が扱われる。第204条「軍事法廷」では、「文民の裁判は認めない。ただし~」以後の例外条件が細かく規定されるようになり、軍の装備や備品、財源や工場を攻撃・侵害する行為がすべて軍事法廷で裁かれる犯罪であることが規定された。第207条「警察」では、警察の最高評議会の設置が新たに定められた。2012年憲法までは、警察の長は大統領とされたが、その規定もなくなり、警察の独立性が増している。

第5編の残りの第9~11章では、2012年憲法の第4編「独立機構・監査機関」に含まれていたさまざまな国家的・公的な機関・機構の扱いが述べられる。

第6編は、1971年憲法に倣って、「一般規定」と「経過規定」の二つの章から構成される。前者の第223条「国旗その他の規定」では、エジプトの憲法史上初めて、国旗の配色と図像が規定され、さらに「エジプト国旗の侮辱は犯罪」との一文が加えられた。第51条からは「何人に対する侮辱も認めない」という一文が消されたが、人間に対する侮辱以上に、国旗すなわちエジプト国家への侮辱を問題視する意識の変化が見てとれる。

第2章の経過規定の一つとして、第234条では、「今後2回の大統領任期において、防衛大臣の任命は軍隊最高評議会の承認後に行われる」と規定された。前述の第146条と合わせても、2014年憲法における軍の立場をよく表している。

全体としてみれば、2012年憲法では「イスラーム」「尊厳」「再分配」「議会」等の要素が重視されていたのに対し、2014年憲法では「愛国心」「国籍」「経済発展」「治安」に重点が置かれた。国民統合の原理(ムワータナ)が選ばれ、国民間の権利の平等が強く主張される一方で、国民間の権力の分立については、目立った提案が見られない。2012年憲法では、ムバーラク長期政権を可能にした1971年憲法への反省として、「大統領」の権限を弱め、「議会」の力を強めることで権力の均衡が図られた。これに対して2014年憲法では、国家の責務と国民間の平等を強調することで、国家と国民の間に保護者–被保護者に似た上下関係が構築され、父権温情主義的な国家–社会関係が示されているように見える。

おわりに

本稿では、2014年憲法の成立と内容を検討してきたが、その中に読み取られるスィースィー政権の特徴は、以下の3点にまとめられる。

第一に、エジプト現代史においては、政治体制に大幅な変更が生じる際にしばしば新憲法が求められてきた。ただし、ムルスィー政権の瓦解とスィースィー政権の成立を見るかぎり、憲法は政治権力を保障するものというよりも、権力を象徴するもののようだ。

第二に、スィースィー政権は、「6月30日革命」以後の経過において、司法権と協同して、手続の法的遵守を大切にしてきた。選挙にもとづく「正当性」を根拠としたムルスィー政権に対し、スィースィー政権は「合法性」を重視している。

第三に、2014年憲法の内容は、2012年憲法が目指したイスラーム的・倫理的な方向性を抑え、「国民間の平等(ムワータナ)」を中心に据え、「国家の責務」と「国民の努力」を新機軸とすることで、愛国的・保守的な方向性を打ち出している。

これらの点を合わせてみれば、2014年憲法とスィースィー政権の関係のあり方もおのずと見えてくるだろう。それは、社会が国家権力を 拘束 するものというより、国家権力が社会に 約束 するものとしての憲法である。「6月30日革命」以後の政治過程は、選挙戦を通じて権力を掌握したムルスィー・同胞団政権に対する既存の国家権力——とりわけ軍と司法権——の抵抗であった。この「第二革命」によって成立したスィースィー政権は、司法権とがっちりと手を組み、ムワータナと並ぶもう一つの基本原則である「法の支配」を掲げながら、統治に伴う責務を果たし、国民に団結と努力を求めていく姿を見せつつある。この政治的状況の中で、より多くの層が参加する安定した国家体制を作り出すためには、いまだ内実の定まっていない立法権が鍵となることは間違いない。より多くの国民に認められる議会を地道に育て、行政権・司法権との均衡を図っていくことが、これからのエジプト政治の課題であろう 8


脚 注
  1. 現代エジプトの憲法史については、拙稿「エジプト2012年憲法の読解:過去憲法との比較考察(上)」(『アジア・アフリカ言語文化研究』87号、2014年)の109–126頁を参照のこと。
  2. 2011年革命以後の政治展開については、近現代エジプト政治史を専門とする鈴木恵美の近著『エジプト革命:軍とムスリム同胞団、そして若者たち』(中央公論新社2013年)を参照のこと。
  3. 政治行程に関わる第28、29、30条については、 資料1 に訳を付した。
  4. 10人委員会および50人委員会の人員構成は、 資料1 を参照のこと。10人委員会は、アラビア語のウェブサイト「エジプト・ファースト」(Miṣr Awwalan)の2013年7月20日付の記事「憲法改正の10人委員会の任命の大統領令」
    http://www.egypt1.info/egyptblog/?p=2103 、最終確認2015年3月10日)による。50人委員会は、エジプトのアラビア語新聞『ワタン紙』(al-waṭan)電子版の2013年9月1日付の記事「ワタン紙は憲法改正の50人委員会の人名を発表」
    http://www.elwatannews.com/news/details/295257 、最終確認2015年3月10日)による。
  5. 本節で扱うおもな条文には、 資料1 に訳を付した。底本は、国立出版局による『エジプト・アラブ共和国憲法』(Ibrāhīm Muḥammad al-ʻAdl ʻAbbās and ʻĀdil ʻAbd al-Tawwāb Bakrī, eds. 2014. Dustūr Jumhūriyya Miṣr al-ʻArabiyya (al-Ṭabʻa al-Ūlā). Cairo: al-Maṭābiʻ al-Amīriyya)である。
  6. 2014年憲法の条文内容については、 資料2 の一覧表を参照のこと。この表の右には、2013年の10人委員会による改正案、2012年憲法、1971年憲法(改正含む)において相当する条文の番号を記した。
  7. 一般名詞のmuwāṭinは「(男性)国民、市民」を意味し、muwāṭinaは「(女性)国民、市民」を表す。ただし、muwāṭanaと読む場合には、muwāṭiniyyaとほぼ同じく、「世界的な市民権を前提とした権利意識およびその普及を目指す運動」が意味される(Ṣubḥī Ḥamawī, ed. 2003. al-Munjid al-Wasīṭ fī al-ʻArabiyya al-Muʻāṣira. Cairo: Dār al-Mashriq, p. 1121)。2014年憲法では、「世界市民」ではなく「エジプト国民」に限定されるが、このカテゴリーに含まれる人間の権利の普及・拡大が目指されている点で、同種の権利概念を意味するものと考え、ムワータナ(muwāṭana)と読むこととする。
  8. これは、まさに現在進行形の課題である。スィースィー大統領はすでに2015年法律第1号として議会選挙法を公布し、2015年2月には議会選挙の立候補受付が行われた。2月23日に選挙最高委員会が発表したところによれば、立候補者は7千人を超えたという。実際の選挙は3月21日から23日にかけて行われる予定であったが、選挙区割りに疑義が呈され、選挙最高委員会は(期間を特定しない)実施の延期を発表した。この問題は、選挙区割りを定めた議会選挙法第3条が憲法の「国民の権利の公平性」に抵触するとして、最高憲法裁判所に訴えが起こされ、実際に違憲判決が下されたことによる。今回の議会選挙においては、2011年革命前の与党・国民民主党の元議員や指導部が立候補したことが一つの争点になっていたが、この延期により、混乱はさらに増すことが予想される。