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ムルシー後の統治と政治:革命から安定へと移行を模索するエジプトの苦悩

政策提言研究

伊能武次 (和洋女子大学教授)
2015年3月
PDF (454KB)

※以下に掲載する論稿は、平成26年度政策提言研究「政治変動期の中東地域と湾岸安全保障」の分科会(「エジプト動向分析研究会」)の伊能武次委員が、研究活動を通じて得た知見を自らの責任において取りまとめたものです。

はじめに:安定を回復することの困難さ

2013年6月30日に頂点に達した大規模な反ムルシー運動を背景にした軍の介入によってムルシー政権は崩壊し、軍部主導の下で新たな政治的移行が出発することになった。このムルシー後の統治期において暫定政府に課せられたのは、1.25革命後の混乱が長期化するにつれ疲弊の様相を増した国民の間に強まった治安の回復と安定とを求める要求への対応であった。だが、そうした期待の高まりとは裏腹に治安の改善の兆しは見られなかった。むしろ国民の間の亀裂がさらに深まり、それが大規模な暴力を伴う政治的抗争の形で持続した。その典型的な例が、エジプトの近現代史で前例のない多数の死者を出した2013年8月のラバア事件(「暗黒の水曜日」事件)であった。こうした政治社会不安は、2014年6月にスィースィー元国防相が大統領として政権を掌握した後も、一向に改善の様相を見せないでいる。スィースィー大統領に寄せる国民の大きな期待は軍事政権の指導者として治安と安全を確保することであり、それがスィースィー政権の存続を支える正統性の源泉となっている。しかし、一方で国民の期待の大きさと他方でスィースィー政権が治安の回復と安全の確保の領域で今日までに成し遂げた実績との落差は著しい。エジプト軍はシナイ半島における治安の確保に苦慮しているだけでなく、内戦状態に陥った隣国リビアへの対応も余儀なくされ、さらに首都カイロにおいてもテロや爆破事件が繰り返されるようになっている。軍と治安部隊を配置して反対派を力によって排除する治安政策の限界が明らかになりつつある。

以下本稿では軍部クーデタ後の時期を中心に統治と政治における注目される主要な事件や出来事を整理し、革命の追求から安定と秩序を模索するエジプトの政治動向を概観する。まずはその背景を理解するために、最初に1.25革命後今日までのエジプトの政治的局面とその特徴について主要事件を簡単に振り返りながら明らかにしてみよう。

1. 2つの「革命」— 1.25革命から6.30革命へ

1.25革命後のエジプトでは4つの政治的局面を区別することができる。第1の局面は、軍部による暫定統治期(2011年2月11日~2012年6月29日)である。この時期には軍部(軍最高評議会)は、青年革命勢力及びムスリム同胞団という主要な政治勢力との間で政治的移行の方向付けをめぐって連携と抗争を繰り返した。その過程で軍部はムスリム同胞団との結託の方向を選択した。主要事件には憲法改正国民投票、議会選挙、大統領選挙、人民議会選挙法違憲判決と同議会の解散命令がある。第2の局面は、エジプト史上初めて実施された国民による直接選挙で選出されたムルシー大統領による統治期(2012年6月30日~2013年7月2日)である。民主的な手続きによる選挙で国民から政権を負託されたことをよりどころにして、ムルシー大統領は、内閣や県知事、内務省や軍部、司法府など統治機構の再編によって政権の権力基盤を固めようとした。さらにムスリム同胞団と他のイスラーム勢力が圧倒的多数派を構成する議会を背景にして新憲法の制定を強行した。このような政権運営に対して反発が拡大し、政権と反対勢力との権力闘争が激しさを増した。反対派はメディアを動員して国家機構の「同胞団化」というキャンペーンを展開した。これに対して特権として大統領に付与された大統領宣言をムルシー大統領が多用して反対派を封じ込めようとしたことが権力闘争を激化させた一因であった。軍部とムスリム同胞団の結託関係は、短期間で終わりを告げることになる。ムルシー大統領に対して「ファッショ」あるいは「独裁」という批判と非難が浴びせられ、政権発足から1年も経過しないうちに「タマッルド運動」と名付けられた反ムルシー抗議運動が生まれ、6月30日の大規模な抗議集会(6.30革命)へと発展し、軍の介入をもたらした。

第3の局面は、ムルシー政権が崩壊し、代わって最高憲法裁判所長官アドリー・マンスールが暫定大統領として統治した時期(2013年7月3日~2014年6月6日)である。暫定大統領にマンスールが指名されたことが示すように、軍部と司法府とが結託して専ら移行の方向付けを行った時期である。抗議法の施行によって反対派の組織的な抗議行動を抑え込む中で、移行の工程表において重要な柱とされた憲法改正と大統領選挙が実施された。軍部も司法府もいずれもムバーラク政権を支えた国家の権力基盤であったから、この時期は「旧体制の復活」あるいは「国家機構の逆襲」の動きとして特徴づけられる。そこでは内務省とマスメディアも暫定政権を支える役割を強めた。ムスリム同胞団を対象とする「テロとの戦い」のキャンペーンにおいてマスメディアが果たした役割は無視できない。この局面のもうひとつの特徴は、想像を超える大規模な政治的暴力の発生である。ムスリム同胞団を主とするムルシー前大統領支持勢力と政権との激しい闘争が繰り返されたのである。ムルシーの大統領復帰を要求する反対派を排除しようとして政府が行った強硬な政策によって組織的な暴力が生まれ多数の被害者を生み出した。

最後に第4の局面は、スィースィー政権の統治期(2014年6月7日以降)である。この時期は第3の局面の延長上にあり、議会選挙を実施して移行プロセスを終了する局面であるが、軍の政治的役割という観点から見ると、新たな局面としてマンスール暫定大統領の時期とは区別される。軍はムバーラク政権下で演じた「支配するが統治せず」という伝統的な役割を捨てて、「支配し、かつ統治する」という新たな役割を明確に担うに至ったからだ。したがって、そのための露払い役となったのが、軍部と司法府の結託関係を体現したマンスール暫定大統領であった。世論調査では国民の間でスィースィー大統領は高い支持率を維持しているとされるが、軍事政権として国民から期待された治安と秩序の回復にとって有効な成果を示せないでいる。

これら4つの政治的局面のうち、軍部の介入後の第3および第4の局面についてより詳しく考察してみよう。この2つの局面は、1.25革命後の新しいエジプト社会を求める動きに対する反動期として、権威主義支配の歴史的な遺産が息を吹き返した時期、あるいは「平常への復帰」として概括することができる。長期化する革命的な混乱の中で疲弊し安定と秩序を求める国民意識の変化を背景に、最も制度化された国家機構として軍部が混乱を収束させ統治の主導権を掌握したのである。国民意識の変化として注目されるのは、2013年11月に暫定政府が公布した抗議法が施行されると、国民の間に治安警察による強圧的な行動を黙認する傾向が著しくなったことである。テロ活動の活発化によってエジプト人の多くが「テロとの戦い」で政府を支持し、治安組織の行き過ぎた行為に目を瞑るようになったし、また多くのエジプト人が治安の回復と経済の改善とを最も望んでいた。さらに国営テレビや実業家が所有する民間放送が声高な軍部支持とムスリム同胞団追放キャンペーンを展開して国民の間に愛国主義的感情を高揚させ、政権の基盤を強化しようとした。こうした動きはかつてムバーラク政権下の1990年代に目撃された光景と酷似していた。それはかえって同胞団メンバーやその支持者との間の亀裂を深めさせ、爆破事件や抗議行動が繰り返され、政府は刑法の改正による罰則の強化や新たなテロ指定法の制定によって対応せざるをえなくなった。その結果、ムスリム同胞団指導者や支持者に対してエジプトの裁判史上例を見ない多数の死刑判決が下された。

2.マンスール暫定大統領の統治期の諸相 — 議会なき大統領の統治 —

マンスール暫定大統領の役割は議会なき大統領の統治下で軍部のジュニア・パートナーとしての司法府が一連の政治的重要法案を大統領決定として提示して移行の道筋を整えることであった。7月8日の憲法宣言で新たな移行の工程表が示され、改正憲法の制定、議会選挙、そして大統領選挙を経て移行プロセスが完了するとされた。憲法改正50人委員会が設置され、2014年1月に改正憲法案としてとりまとめられ国民投票で承認された。移行後の政治的行方を左右する重要な法律と見なされる大統領選挙法が3月に大統領決定として公布されたが、政治的諸権利の行使に関する法と議会選挙法はマンスール暫定大統領の任期満了直前に決定されたものとして注目される。

このような法的枠組みの決定に関連して注目されるのは、刑法改正によるテロ行為に対する罰則の強化や上述したデモ規制法、いわゆる抗議法の適用の下で反対派の動きを封じ込めようとしたことである。こうした動きはその後スィースィー政権の下で新たなテロリズム法(テロ指定法)が決定され、反対派排除の対決姿勢が一層明確になった。これもまたかつてムバーラク政権が非常事態令の下で反対派を封じ込めようとした手法と類似していた。

その結果、マンスール暫定政権の下では国民の亀裂が深まりはしても、修復を望めない状況が続いた。軍部支援集会の呼びかけが組織的に行われ、メディアではムスリム同胞団を敵視し、その排除と弾圧を支持する論調が主流をなすようになり、さらには1.25革命を推進した青年グループを外国(=米国)のスパイとみなす論調も現れた。この時期にはメディア主流が「エジプト人か非エジプト人か」、同胞団系メディアが「イスラームか世俗主義か」という対抗軸(枠組み)をそれぞれ掲げて、国民に白か黒かという選択を迫った。政権を支持するメディア主流が国民にナショナリズムを鼓舞したのに対して、同胞団は国民のイスラーム信仰に訴えただけでなく、国際社会に対してもムルシー政権の正統性を主張した。国際社会に大きな衝撃を与えたラバア事件はエジプト社会内部で和解が困難な2つの国民の間の亀裂の大きさを物語るものであった。

主流派メディアが愛国主義を増幅させた背景には、テロと社会不安の拡大があった。ムルシー大統領の失脚をきっかけにしてシナイ半島では軍や警察、ガス輸送施設に対する襲撃や爆破事件が繰り返されるようになり、武装勢力とムスリム同胞団のつながりを懸念する声が高まった。軍部はシナイ半島で軍隊を投入して「テロとの戦い」を推進し、国民の間での軍部支持をさらに拡大するために、メディアの役割を重視したのである。

ムルシー大統領の失脚後に顕著になった社会不安の拡大は、シナイ半島における治安の悪化だけでなく、コプト教会とコプト教徒を対象にした襲撃事件の増加によっても明らかであった。とりわけ上エジプトでコプト教徒への襲撃が相次いだが、最も多く攻撃が繰り返されたのは2013年8月のラバア事件が引き金になった。これらに加えて、国内各地において賃金、懲罰的解雇、労働条件などへの不満を理由とする労働者の抗議行動や労働争議が静まる気配を見せなかったのも社会不安を示すものであった。

2012年憲法の修正について詳細な考察は別の機会に行うとして、ここでは2014年1月にマンスール大統領が承認した憲法(いわゆる2014年憲法)制定までのプロセスについて整理しておこう。それらは憲法修正50人委員会の設置、審議過程、改正憲法草案、そしてその国民投票である。

ムルシー政権下では議会選挙で圧勝したイスラーム主義勢力が多数を占める立憲会議において混乱が続く中で憲法草案とりまとめ作業が行われたのとは対照的に、マンスール暫定政権下の憲法修正50人委員会にはイスラームを代表する委員として3名のアズハル代表が参加したものの、イスラーム主義の傾向を代表する委員はごく少数の2人にとどまった。同胞団は参加を拒否した。そこでの審議過程は透明性が確保されず、草案を1か条ごとに審議し採択する最終審議場面のみが公開される形となった。

とりまとめられた修正憲法の主要な特徴は、マンスール暫定政権の権力基盤の中核をなした軍部と司法府の権限を政治的移行後において確保あるいは強化する仕組みが構造化されたこと、国家機構の役割と権限に比べて議会の役割が軽視されたこと、そして宗教の役割を一層重視し、またその公的な宗教機構の役割を重視した点である。

すでに2012年のムルシー憲法において軍部の自治的な地位が明確にされていたが、2014年憲法ではそれが一層強化された。国防大臣の任命が今後2期にわたる大統領任期においては軍最高評議会の承認を条件とすると規定された。大統領の宣戦権の発動に関しては国防会議との協議を明記した2012年憲法よりも詳細な要件とそこでの軍部の役割が示された。

また軍事法廷についても民間人が軍事法廷に立たされないとしながら、例外とされる犯罪行為が極めて網羅的であるのに驚かされる。ムバーラク政権下での軍事法廷で民間人が裁かれることへの批判が1.25革命を生み出す引き金のひとつであったのが想起されるが、治安重視の方向が2014年憲法でより明確になった。警察に関しても内務大臣を補佐する最高警察会議を新たに設置するのが明記された。

宗教の役割およびアズハルやコプト正教会など公的な宗教機構の役割の重視は、第3条、第4条、および第7条において示された。それらは、ムルシー政権下の2012年憲法で初めて規定された条文を基本的には継承するものであった。2012年憲法において維持された1971年憲法のイスラームのシャリーア規定、すなわちシャリーア原則(イスラーム法)を立法の主要な法源として規定する第2条に続いて、第3条では「エジプト人のキリスト教徒およびユダヤ教徒のシャリーアの原則は、彼らの身分、宗教的事柄および精神的指導者の選出を組織する諸立法の主要な法源である」(竹村[2014.3](上)151) とした。

議会のあり方に関して2014年憲法は大きな変更を生み出した。人民議会と諮問議会からなる議会制度を廃止して、代議院という名称を付与する一院制とした。憲法上のこの規定に基づきマンスール暫定大統領は任期終了直前に「政治的諸権利の行使に関する法」および「代議院法」を決定した。代議員法は議会選挙の方式を具体的に定めたが、理解するのがきわめて複雑な制度であり、さらに政党にとって著しく不利な選挙制度であった。諸政党との協議が行われずに制度が設計され、法制化されたということができる。

3.スィースィー政権期の統治 — 「支配するが統治せず」から統治の主体へ —

マンスール暫定大統領の統治下において、エジプトの当面の方向を決定する統治の中心的な主体であった軍部・司法府・内務省の連合において軍部が国内秩序を担う権力の中心へと変化した。メディアによる「スィースィー大統領待望論」のキャンペーン、スィースィー国防相の大統領選への立候補を承認した軍最高評議会、スィースィー国防相の元帥昇格を決定したマンスール暫定大統領、そして「国民の意思」として立候補を決意したスィースィー、これら一連の動きから推測されるのは、移行後も軍部が統治の担い手になり続けるという軍部の強固な決意であっただろうと思われる。ムバーラク政権下で軍部は「支配するが統治せず」という役割を演じてきたが、2.11以後の政治的混乱を経る中で軍部はその役割を捨てて、統治の担い手へと変化した。軍は国防だけでなく、国内の治安と秩序の維持という役割をも担うに至った。

ムバーラク政権は1990年代、国内の治安維持を優先して内務省への依存を強めた結果、内務省と軍部との関係で変化が生まれた。加えて、政権内部において与党国民民主党(NDP)の政策局や実業家グループを中心にして次男ガマールの下に集まるグループの政治的影響力が強まった結果、軍部は権力の中枢から遠ざけられるようになった。しかし、2.11以後、内務省はムバーラク政権の強権政治の実行部隊として国民の激しい批判の対象となり、組織的な打撃を受けたのに対して、軍部は国家組織として強固な基盤を保持しえたから、内務省との関係において優位に立つに至った。

マンスール暫定政権の国防大臣として2013年7月以降にスィースィーが追求してきたのは軍部およびその他の治安組織の統率を強化することであり、そのために自己と軍最高評議会に忠誠を誓う国家諜報機関や軍諜報機関の退役将校を諜報組織の主要ポストに登用した。その先駆けとなったのが国家諜報機関の長官に任命したムハンマド・ファリード・トハーミーであった。スィースィーは政権を掌握後、軍の組織と運営、監督、考え方を国家機構の内部に拡大させつつある。

上述したように、スィースィーは「国民の意思」に応える形で大統領選挙に立候補し、2014年5月に実施された大統領選挙では97%の圧倒的得票率で当選を果たした。しかし、投票日を当初の2日間から1日延長すると投票初日に急きょ決定する異例の措置が取られた。その結果、投票率が47%となった。大統領選挙期間にマスメディアが展開したキャンペーンがスィースィーに大きな期待を示したのと、他方で投票日当日の光景として報じられた選挙への国民の無関心との間の落差は、はなはだ大きなものであった。ムスリム同胞団の存在に不安と危機感を感じていたコプト教徒や旧NDP勢力などスィースィー大統領の実現に期待する人々がいただろうし、他方で投票前から結果が明らかであった選挙に無関心であった人々や、あるいは投票のボイコットを決めていた人々も多数いたのではないかと推測できる。熱狂とアパシー、そして無関心が同居するエジプト社会を示唆したのが大統領選挙であった。

スィースィー政権に与えられた課題は2.11以後の政治的混乱によって動揺した統治機構を再建し、経済成長を追求することであった。テロと社会不安の拡大を阻止し、安定を取り戻すのがそのためにも必要であった。内務省治安組織による強権的な措置が復活し、反対派を封じ込めつつある。マスメディアは国民の団結を叫び、テレビや出版物、文化活動における軍や政権批判を自己規制する動きを示すと同時に異議申し立て的な意見が表明されるのを排除しようと試みた。その結果、リベラルあるいは世俗派とされる反対派の言動の範囲はごく限られてきたが、各地の大学で展開する学生たちの抗議行動から見る限り、大学法を改正してキャンパス内部で違法な活動を行う学生に対する処分を厳しくする措置を講じているにしても、学生や教員の間には同胞団への根強い支持者やシンパ勢力がなおも存在しているように思われる。

スィースィー政権の半年間を振り返ると、統治機構の再建とガバナンスの回復という点でスィースィー政権が困難な状況に当面していることがわかる。それを示唆する事件や出来事が多発しているからである。すなわち、10月の大統領決定により軍事法廷が民間人を裁く権限が拡大した結果、ムスリム同胞団メンバーをはじめとする多数の民間人が軍事法廷に立たされている。また国家人権委員会の委員が警察の家宅捜査を受けたことに抗議している。11月には司法府の規律委員会においてムルシー支持派とされる多数の裁判官が職務停止措置を受けた。すでにスィースィー政権の発足前の4月に刑法が改正されテロ行為に対する罰則が強化されていたが、11月に新たな反テロリズム法が制定施行され、テロリストおよびテロ行為について詳細かつ幅広い定義を定めて、反対派の統制を強化した。12月には逮捕権限をもつ警官補佐という新しい職位が設置された他、警察学校所属の学生数十人が同胞団とのつながりをめぐり除籍処分を受けた。このうち軍事法廷に立つ被告の中には未成年者が含まれて、国内外の人権団体の非難を浴びてきた。また司法府の規律委員会の事例は、2.11以後の革命的状況下で分裂する社会の中で政治化する司法と裁判官の姿を示している。マンスール暫定政権以降、司法府中枢は反同胞団の立場を示してきたが、ムルシー支持派と反ムルシー派の裁判官の対立がなおもくすぶり続けているように思われる。反ムルシー裁判官の中には極端に多数の死刑判決を繰り返す者が現れ、公正な法的審理の軽視が危ぶまれている。

おわりに

エジプトの混乱を収拾し社会の安定と秩序の回復を望む国民の負託を受ける形でスィースィー政権は成立したが、政権の課題とする国家機構の再建による安定の確保には程遠い現状にあると言ってよい。

マンスール暫定政権以降、エジプトの統治は軍部、司法府、内務省の連合によって担われてきた。移行後の法的な枠組みの設計は軍部と司法府の間で緊密な連携の下に行われてきたものと考えられるが、司法府は軍のジュニア・パートナーではあるにしても一枚岩的な組織とみなすのは留保しなければならない。確かにエジプトの巨大な国家機構の中で司法府は軍部に次いで組織としての既得権益の確保のために高い自己保存能力を有するにしても、他の行政組織と同様に、1990年代以降のグローバル化への対応の中で、内部に組織的な分裂を助長するさまざまな意見の対立を抱えてきた。したがって、ムルシー後の暫定政権の大統領としてマンスール最高憲法裁判所長官が指名されたにせよ、司法府が一枚岩として軍部と制度設計に関わってきたのかどうかは疑問である。それを示唆するのは、本年(2015年)3月21日から予定されていた議会選挙の立候補届け出が終了した後、3月1日に下された最高憲法裁判所による「選挙区法」の違憲判決であった。選挙区法は昨年(2014年)12月に選挙区画定委員会の原案を内閣が承認後に国家行政裁判所(Maglis al-Dawla)に送られ、そこで修正されて、最高選挙管理委員会の承認を経て大統領決定として制定されたものだったからである。なお、2012年6月においても最高憲法裁判所は選挙法の違憲判断を下し、人民議会の解散命令が出された経緯があったが、この違憲判決についても政治化する司法府と裁判官という文脈およびスィースィー政権が目指す方向性という文脈の中で検討を加える必要がある。

本稿では軍部の介入後の政治を概観してきたが、治安優先の強硬な政策によってテロと社会不安の拡大を阻止しようとするのが政権にとって最大の課題であった。しかし、そうした治安政策はかえって国民の間の亀裂を深め、国民の和解と統合を回復するには十分な対応になっていないように思われる。

<参考文献>
<ウェブサイト>