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6度目の『海外チャイニーズ』動員

政策提言研究

相沢 伸広
2013年3月
PDFpdf (581KB)
※以下に掲載する論稿は、平成24年度政策提言研究「中国・インドの台頭と東アジアの変容」研究会の相沢伸広委員が、研究会活動を通じて得た知見を自らの責任において取りまとめたものです。

1. はじめに  —変化の始まり?-

“海外チャイニーズの政界進出は不可逆的な流れ”

“これ(Zhao Meixinの活躍)は、海外のチャイニーズが外国での政治参加に成功している例に他ならない。”

“中国の国力が堅実に成長するのに伴い、海外のチャイニーズの地位もまたそれぞれの国においてアップグレードされている。”
People’s Daily Online, November 3, 2012.1



2012年3月、人民日報のオンライン英語版People’s Daily Onlineは控えめに、しかしながら歴史的にみて大きな転換を予感させる論説を掲載した。「海外チャイニーズの政界進出は不可逆的な流れ(Overseas Chinese's participation in politics becomes irresistible trend)」と題して、海外で「政治的に」活躍するチャイニーズに焦点をあて、彼・彼女らを賞賛し応援する内容である。この論説には、長年つかわれることのなかった、もっといえば使うことを避けられてきた言いまわしが、いくつもならんでいる。なかでも際立つのは次の二つの文言である。

第一に、「これ(Zhao Meixinの活躍)は、海外のチャイニーズが外国での政治参加に成功している例に他ならない。」いう一文である。Zhao Meixinとは、本名(英語名)をJudy Chuという中国系米国人の政治家である。カリフォルニア州第32区選出の民主党下院議員であり、2012年のオバマ大統領の大統領選挙戦において、もっとも重要な仕事を担うNational Co-Chairsの一員として選ばれた人物である。National Co-Chairsは大統領選挙において、選挙人の動員等、選挙キャンペーンにおいてもっとも重要な任務を担う35人の精鋭集団であり、このメンバーはその後政治的にも重要なポジションに登用されることが期待される。オバマ政権一期目において、そのキャンペーンにおいて主たる活躍を見せ、その後大統領首席補佐官を務めたRahm Emanuel現シカゴ市長もまた、National Co Chairsのメンバーである。そのことからもJudy Chuが単なる下院議員ではないことがわかるであろう2。したがって、2013年に始まる米国の第二期オバマ政権のなかで、Judy Chuはかなりの要職で遇されるキーパーソンとなると目される人物である。People’s Daily Onlineは数多くいる世界のチャイニーズ政治家のなかでも、そんな彼女を第一にとりあげ「海外のチャイニーズが外国で」成功していると論じたのである。


Judy Chu(Zhao Meixin)米国下院議員
Judy Chu(Zhao Meixin)米国下院議員3


ここでまず気づくのは、Judy Chuの活躍というのは、本来は米国人による自国での活躍であるはずである。かりに称えるのであれば、まずは米国の政治史における中国系米国人としての活躍であろう。People’s Dailyの位置づけとしては、たとえ国籍が米国籍であろうと、彼女が活躍しているのは「外国」である。いかなる国籍を所持していようと、チャイニーズであるかぎり、中国でなければ「外国」にいることになる。

次に気づくのは、彼女の名前である。論説ではアメリカで公式に使われる本名のJudy Chuではなく、中国名のZhao Meixinという言葉で論じられた。中国発行の代表的な英字新聞であるChina Dailyでは、彼女のことをたびたびJudy Chuと米国でつかわれる名前で記されている(China Daily, May 21, 2009,June 9 / 2011)。したがって、Judy Chuのことを、公式には殆ど遣われることのないZhao Meixinとして彼女のことを呼ぶのにはひとつの「選択」を示唆するものである。

上記のPeople’s Daily Onlineの論説のなかに、もうひとつ興味深い文言がある。それは、「中国の国力が堅実に成長するのに伴い、海外のチャイニーズの地位もまたそれぞれの国においてアップグレードされている。」というものである。海外のチャイニーズと、中国本土の国力とをリンクさせるロジックをここまではっきりと明示したのはきわめて珍しいことである。中国の国力の隆盛に、海外のチャイニーズのそれぞれの居住地での活躍に因果関係を付すことは、居住国と中国との関係が良好である場合は、好意的に受け止められるものであるが、その一方で中国の国力が衰退したとき、また外交関係が悪化する状況が生まれれば、かえって中国とチャイニーズをリンクさせたがゆえに、海外のチャイニーズを厳しい状況へと追い込む効果が生まれるのは必至となる。つまり中国の成長と海外のチャイニーズの活躍をリンクさせることは、中国の国力の盛衰や外交方針に、海外チャイニーズの運命を預けることになる。海外のチャイニーズにとってみれば、自身の社会的立場に対して、遠く離れた北京政府のもつ政治リスクが好むと好まざるとにかかわらず組み込まれるということである。

ここで述べたいのは、可能性の問題というよりも歴史的な経験である。とりわけインドネシアの歴史を念頭においている。インドネシアでは実際に、1950年代は中国の経済発展を見習うべく、インドネシアでも中国を模範とした国づくりを行うという言説が強くあった。しかし中国における文化革命期には中国における政治混乱と同期するように、各国におけるチャイニーズの立場が悪くなった。中国の政治変動が原因で、1966年にはインドネシアの華人たちは北京の手先ではないかと疑われはじめ、居住国でのビジネスや、就学などが困難になった。このような歴史的経験がいまだに記憶に残っているがゆえに、これまでは上記リスクを生み出すような海外にいるチャイニーズへの働きかけは慎重に選び取られてきた。したがって、中国の国力と華僑・華人の活躍如何に因果関係、または相関関係を見出すロジックをおおっぴらに中国が用いることは少なかった。公式見解としては、ある種タブーであったロジックがPeople’s Daily Onlineの論説において高らかに発言されているということは、少なからず重要な示唆を含んでいるであろう。

ただ、そこで示唆されていることがなにであるかを理解するのは簡単ではない。果たして中国の自らに対する確かな自信とそれゆえに始まった新たな海外チャイニーズとの関係の再編戦略なのか、それとも、自国の危機を乗り切るための新たな政策的カードなのか、もしくは世代交代が進んだことによる歴史に対する忘却なのか、その見極めは難しい。

加えて、冒頭の論説が、中国政府の十分な編集と承認を経て発表したものであるかどうかは知る由もない。ただ、英語版であるにせよ人民日報という媒体の性格を考えれば、そこには中国政府の意向の反映を推察することは可能である。ならば、中国政府が海外のチャイニーズに対して、その政界での活躍を賞賛し、その成功の一端に、「中国の国力が堅調に成長」したことが寄与している、というような見解を述べるのは、過去になかったことである。そのような解釈をもった記事であっても、発表にはきわめて慎重であったはずである。

その理由はこれまでの歴史にある。1980年に制定された中国の国籍法第三条には、「中華人民共和国は中国の公民が二重国籍を持つことを認めない(第三条 中华人民共和国不承认中国公民具有双重国籍)」と明記されている。中国政府は公式見解でその理由として、「二重国籍の否認は、海外華僑と華人の利益のため」と述べている。つまり、海外のチャイニーズがそれぞれの居住国において中国籍を有するがゆえに不利益を被らないよう、細心の注意を払って制定したのが中国の国籍法である。それまでの中国国籍は血統主義であり、その親が中国人であれば、自動的に中国国籍が付与されるルールとなっていた。例えば子どもが出生地主義の米国で生まれることで、米国国籍をとったとしても、その親が中国人であれば、海外にあっても中国国籍を有することができるわけである。つまり、親が(祖先が)中国人であるかぎり、世界のどこにあろうと、中国人になれるというルールだったのである。そこでは、チャイニーズ=中国人であった。

しかし、1980年に制定された中国の国籍法は冷戦期、とりわけ1950~70年代にかけて、各国で実施された海外のチャイニーズに対する反華僑・華人政策の経験から、海外のチャイニーズのためを思えばこそ、中国国籍の線引きを縮小させたのである。中国人とは誰か?を定める法律制定の背景には、すなわち、「海外チャイニーズの利益」をどのように考えるかとうい問いが深く結びついていた。

その32年後に発表された冒頭の論説が、歴史的な変化を予感させるのは1980年の国籍法に付記されたような「海外華僑と華人の利益のため」を思う政治的配慮の影が薄くなっていることにある。Judy ChuをZhao Meixinとよび、その成功を本人の努力や、居住国の変化ではなく、中国の成長にその理由を求めるというのは、30年以上にわたって、なかったことであり、ある意味では禁じ手であった。

2. 海外チャイニーズへの政策変化のきっかけ -ロック大使と領土紛争 —
では、なぜ中国政府は舵をきったのだろうか?中国の海外チャイニーズに対する政策、スタンスの変化はどのような理由によるものだろうか。海外のチャイニーズの活躍、とりわけ政治的な活躍が中国でも注目されるようになった理由をどのように理解することができるだろうか。中国政府内の一次資料がないなかで、考えられる二つの仮説を指摘しておきたい。

第一の仮説は、なんといってもゲーリー・ロック(Gary Locke)元米国教育相が駐北京米国大使に任命されたことがきっかけだった4。ロック大使は、中国の権力者のステレオタイプとは異なる印象を中国一般市民にメディアを通じて印象付けた。中国人にとっての中国の政治家、高級官僚のステレオタイプとは、いかにも尊大な振る舞いをみせる人物であり、政治汚職の解決が現在政府最大の政策課題となっているように、一般市民にとっては往々にして目の敵になるような存在でもある。少なくとも決して親しみやすい存在ではない。その一方で、ロック大使がメディアで見せるその印象は、穏やかな、そして謙虚な立ち居振る舞いであり、一般市民のもっている上記政治家・官僚に対するステレオタイプとは大きくかけ離れた姿であった。これが市民の間で絶大な人気を得た。彼の日常の行動のあらゆるディテールがインターネットを通じて広まった。例えば着任前、シアトル空港のスターバックスでコーヒーを買おうとしている姿である。割引クーポンを提示し、それが期限切れだといわれても怒ったりもせず、自分でバックパックを背負って娘とレジの前に立っている様子である。中国の着任前大使ともあれば、多くの秘書官がかばんを持ち、コーヒーを買いに走っていたであろう。また例えば、桂林への家族旅行の写真である。そこではボディーガードもなにもつけず、家族四人でごく普通の観光客として振舞っておりその振る舞いは、中国の「村長」よりも謙虚なものだったとインターネットでは取り上げられた。これらの行動は、公私の別を問わず厳重なボディーガードや秘書、副官に囲まれて行動する中国の大使、元閣僚クラスの人物であれば想像できない姿である。ロック大使はまさに中国人の政治家にはみることのできない、一般市民と同じ姿をみせつけ、それはある意味で現実にはこれまでみることのできなかった理想的な中国における政治家像を体現していると、一部の人にはみなされた。こうした行動をとるのが仮に、アングロサクソン系の米国大使であれば、単純に別の文化、価値観を持った「外人」の行動として相対化され、中国の一般市民に大きな印象を与えることもなかったであろう。しかしながら、ロック大使は冒頭のPeople’s Dailyの言葉をつかうならば、「海外にいるチャイニーズ」である。1980年以前の国籍法にならえば、「中国人」ですらある。一般市民からすれば、国籍こそ違えども、「同じチャイニーズ」であるとも位置づけられる人物である。現存する指導者にその腐敗などで幻滅するなかで、中国人とは似て非なる「チャイニーズ」の政治指導者に注目が集まったことは、中国政府をして「海外におけるチャイニーズ」と中国の関係を再検討すべきひとつの大きなきっかけになったと考えられるであろう。

第二の仮説は、中国が直面する近隣各国との領土・領海紛争が原因と見るものである。現在日本、フィリピン、ベトナム、マレーシアと島嶼部の所有をめぐって、外交紛争、時には武力衝突が生じている。個別の事例についてはそれぞれの文脈があるが、構造的にみれば、アジア太平洋地域において第二次世界大戦後米国が強いた安全保障体制と、アジアの経済的台頭そしてアジア各国内における経済力の序列変化による国家間関係変化の要請との間の緊張関係ともいえる。中国の領有権主張に実効的に強い反対を唱える国は、現在の安全保障体制をかんがみれば米国である。したがって、中国が周辺各国との交渉を有利に進めるためには、米国の口出しや行動を抑制する必要がある。それゆえに、中国はとりわけ米国において、中国の外交立場に反対する政治的な流れが強まらないよう布石を打っておくことが必要となる。

冒頭の論説において、政治的に活躍する海外のチャイニーズのなかで、真っ先にJudy Chuが取り上げられたというのは、まさに、これから5年間のオバマ政権の中枢に入るか、もしくは太いパイプをもつことになるのであろう彼女に対する大きな期待の表れといえよう。その期待とはつまり、オバマ政権の中枢で米国政府が反中的な外交立場、とりわけ今後の周辺各国との領土紛争において、米国が取らないよう、政治的影響力を行使してほしいという願いの表れと解釈できるであろう。

この政策の変化が、米国のチャイニーズを主な対象としたものと考えられるのは、Judy Chuが第一に取り上げられたからだけではない。仮に海外で政治的に活躍する例をあげるならば、タイやシンガポールにおいては、近年の歴代首相全員が「海外のチャイニーズ」であり、その政治的活躍については、他の国と比べても際立っている。海外で政治的に活躍する人物のモデルとなるような人物としてタイやシンガポールの政治家は論説にはまったく取り上げられていない。Judy Chuと比較して、タックシンやリークアンユーといった政治家のそれぞれの国における政治的影響力はいうまでもなくはるかに大きい。したがって、論説において言外に示唆されていることは、中国にとって海外にいるチャイニーズがとりわけ政治的に活躍してほしい国は、現在、どこよりもまず米国であるということである。そしてなぜ、米国なのか、なぜタックシンやリークアンユーを取り上げずにJudy Chuを取り上げたのかを考えれば、それは海外のチャイニーズの利益の保護、拡大というより、むしろ中国の外交的利益のための政治的貢献が期待されているということが理解できるであろう。

3. 6度目の動員
今回の海外チャイニーズへの政治的呼びかけの理由を特定することはできないが、こうした海外のチャイニーズに対する中国による政治的動員の呼びかけは決して今回が初めてではない。少なくとも、代表的なものだけでこの100年間で過去5度は見られた現象である。

その第一は、1910年代の辛亥革命につながる孫中山(孫文)らの革命活動に対する支援である。孫文が「華僑は革命の母」であると語ったように、華僑は近代中国の建設において、その人的、資金的貢献ゆえに歴史的にも肯定的に位置づけられていた。孫中山は、ハワイや日本の華僑、そして現在でいうところの東南アジア各国に居住する「南洋華僑」に対して、清朝政府に対する革命活動に、とりわけ資金的・政治的支援を要請した。第二には、1930年代末から1940年代前半の抗日戦争に対する一連の共闘要請である。そこでは、資金的支援に加え、他の日本帝国占領下地域で、中国本土での抗日戦線と歩調を合わせて、対日軍事行動を行うよう、政治的、軍事的な共闘を要請した。第三には1950年代から1960年代初頭にかけての建国期中国の国づくりに対する経済支援の要請である。ここでは、華僑華人に対して中国の国土開発計画、とりわけ農村開発において、農村への労働力供給のため、再移住の呼びかけを海外における華人誌等を通じておこなった。第四には1966年に本格化する文化大革命と、冷戦期における共産革命輸出外交である。共産党政権、反共産党政権のせめぎあいのなか中にある東南アジア各国にいる華僑・華人は、北京政府寄りの政府樹立のためにその政治的なロビー活動を担うことになった。

そして第五には、1980年代初頭の改革開放時代の幕明け期である。中国政府はその経済政策の変化を世界に喧伝し、海外からの投資を呼び込んで、その資金をインフラ整備等に充てようとした。ところが、文化大革命で傷ついたイメージは簡単にはぬぐえず、海外の多くの大企業は中国の不確実性を畏れ、中国政府が期待したほど投資は集まらなかった。そこで中国政府と市場との間の橋渡しをしたのが、主として東南アジアの華人たちであった。中国政府はこの時期、国務院に華僑事務弁公室を設置し、様々な華人向け投資優遇措置を施し海外の華人、とりわけ福建省、広東省といった各僑郷からアクセスできるネットワークを頼った(庄 2001, 田中 2002, 相沢 2010)5。ここではいわば、中国政府の新政策に対する資金的応援団として、「海外のチャイニーズ」の資本に動員をかけたのであった。これに呼応したのがインドネシアの林紹良など、とりわけ東南アジアの開発主義体制下で大成功を収めた華人企業家たちであった。生まれが中国の一世華人たちが中国の投資環境、経済環境が変化したことを、自らが投資することで結果的に中国政府に代わって、世界のビジネス界にアピールする役割を担った。華人企業家、とりわけ東南アジアの華人資本家がまず、重点的にインフラ投資を行ったことで、経済開発の物理的基盤、そして初期の国際市場の信用構築を実現することが出来たといえるであろう。このように、これまですくなくとも5度、そのうち、1949年以降の中華人民協和国建国以降も3度にわたって、海外のチャイニーズは中国の政治経済的目的のために動員されてきた。今回はその意味で、6度目のチャイニーズの動員である。いわゆる華僑送金や、中国への投資といった資金的貢献以上の貢献を求めた事例についてのみ数えても、今回の政治的な活躍を期待するという点について、今回は4度目の政治的動員にあたると位置づけることが出来る。

先に述べたように、今回の海外のチャイニーズに対する呼びかけは、第一には米国のチャイニーズを主たる対象として位置づけられていると考えられるものの、こうした政策は、往々にしてその意図せざる効果を生む。中国政府の政策変化があくまでも、「米国のチャイニーズ」と限定的に述べているのではなく、一般的に「海外にいるチャイニーズ」を対象としていることから、必然的に全世界のチャイニーズに影響を与えることが考えられる。そこで、以下では米国以上に、そして世界でも最も多くの「海外にいるチャイニーズ」人口を抱えるインドネシアを事例にして、その予見される影響をはかってみたい。
インドネシアのチャイニーズは上記の複数回にわたる中国による華僑の再動員政策において、たびたび強い影響を受けてきた歴史がある。その結果は、しばしば悲劇であった。そのような悲劇の歴史を生んできた国にとって、今回の中国政府の政策転回がどのような影響を与えるかは、これからの中国と海外のチャイニーズの関係を理解する上で、きわめて重要な事例となるであろう。以下、まずはその歴史的背景から順を追って行きたい。

4. 文化大革命と海外チャイニーズの政治的動員6
インドネシアで目立った中国からの動員呼びかけはまず、1949年の中華人民共和国の建国後の国家建設の基礎となる経済発展のための動員であった。インドネシアで発行される華字新聞などで、華僑に対する人的、資金的な協力要請、動員は積極的に行われていた。1950年代後半には特に、インドネシアの華僑たちの中国への帰還、とりわけ農村開発のための動員がしばしば呼びかけられた。そこでは豊かな農村生活の姿が喧伝され、インドネシア国内において反華人政策が矢継ぎ早に発令されたこともあり、そのような宣伝工作が功を奏して多くのインドネシア華人が中国への移住を決意した。ちなみにそこでできたのがいわゆる「華僑農場」である。インドネシアの華人たちは商業などに従事する都市民であったために、中国へ移住し、農業を行うことになって、多くの苦労を背負うことになった(奈倉 2012)。

しかしながら、1966年に本格化する文化大革命を契機に中国における帰郷華僑の位置づけは一変することになった。海外で主として商業で多くの成功をつかんだ華僑は、文化大革命のなかでは「資本家階級」として位置づけられ、従来感謝されていた華僑送金による収入については「搾取」したお金と中傷の対象となったのである。さらに、中国国内の華僑の親族は「海外と関係のある者」として、文革期には厳しい批判の対象となった。文化大革命という、中国国内の政治変動を契機として、遠く離れた華僑に対する政治的位置づけは、孫文が述べたような「革命の母」から文化大革命の文脈においては「革命の敵」と否定的なものへと突如として変化したのである。

中国国内の政治変化が、とりわけ華僑送金に対する中国政府の見方を変え、引き続き華僑と中国を結ぶチャネルへの引き締めが強化されていった7。建国後当初は、こうした華僑送金は促進されていたものの、その促進策として政府が認定していた華僑投資への優遇政策もまた「華僑ブルジョワの利益を擁護し、長期搾取を許す政策」だと批判され、順次廃止されていった。そのため、これらの優遇政策の廃止、華僑送金の公式チャネルであった投資公司の閉鎖は、事実上華僑送金の激減をもたらした。

文化大革命により、華僑やその家族は、送金を停止され、批判にさらされるだけにとどまらず、台湾海峡を臨む軍事戦略上重要な福建省沿岸部に居住する華僑やその家族の家屋は接収されることになり、彼らのなかには下放されるものも少なくなかった。インドネシアの1965年9.30事件後に、命からがら「幸いにして」中国への本土帰還を果たした華僑・華人が、中国に辿り着いた時に直面した現実はこのような文革期の政治的社会的混乱であった。インドネシアで、強制移住させられ、中国でもまた強制移住を命じられるなど、インドネシア、中国双方の歴史の激動のなかで、厳しい運命に翻弄されることになったのであった8

5. 二重国籍問題
1950年代から1960年代の海外の華人をめぐる中国の政策変化がもたらした影響は計り知れない。それはインドネシア華人自身にとっては、個人の力ではどうにもならないことであった。その政策変化のなかでも、上記の華人政策以上に中国による海外のチャイニーズの政治的動員において、根本的に重要となったのが、国籍法であった。ポイントとなるのは、中国政府が、その居住国や現有国籍を問わないかたちで広く海外にいるチャイニーズも含めて「中国人」と規定するのか、もしくは、居住国や現有国籍条件として問うかたちで、中国国籍単独保有者以外は外国人として、狭く「中国人」を規定するのかであった。国籍法の問題は、中国政府の一存で、Judy Chuのような人が「何人」なのかを本人の意思とは無関係に定められる、もしくは定める選択肢を与えられるという点にある。とりわけ華人人口の多いインドネシアのような国にとっては、国籍法の問題は個人と国家の関係のみならず、国家間関係をも左右する根本問題であった。

現在の1980年国籍法へと改定される以前から中国国籍法では、中国は血統主義を採用していた。そのために、東南アジアに住む華人の多くは、居住国の国籍のみならず、自ら進んで破棄しない限りは、海外にあっても生まれながらにして中国国籍をも保持することができた。したがって、海外のチャイニーズはその多くが自動的に二重国籍を持つ状態に置かれていた。この状態が政治的に問題になったのは、海外のチャイニーズを政治的に動員したい中国政府、中国による内政干渉は排除したい居住国政府、そしてあらゆる政治的環境変化を予測しながら自らの安全を確保したい華人、という三者の利害が対立したからであった。中国政府にとっては、二重国籍状態は放置しておきたいものである。海外に居住していたとしても、華人はその血統において規定される限り中国人でもあるという規定が残れば、「自国民の保護」という名目で公式に様々な政治的な働きかけが可能となる。一方、居住国にとって、自国民であると疑いもなく考えていた「中国系住民」を中国人として扱われてしまえば、それは中国の内政干渉を誘引するファクターにもなり、沈静していた民族問題を国内において、喚起する契機にもなりかねない問題であった。海外のチャイニーズにとって、こうした二重国籍状態は、中国政府による政治的動員や、居住国政府による政治的な締め付けの理由にならない限りは、選択肢を残す上で放置しておきたい問題であったが、中国の政治的動員、そして居住国の政府の警戒と、チャイニーズをめぐって政治的緊張が高まってくると、やがて、中国国籍か居住国国籍かを選ばざるを得ない環境に変わることになる。

このような背景から1970年前半の一連の米中接近とその後に続いた中国とASEAN各国との間の国交回復交渉において、ASEAN各国の側の最も基礎的な要求は、なによりも中国が二重国籍を否定し、自国の華人に対する中国による内政不干渉の法的根拠を放棄することであった。文化大革命期における華人を通じた革命輸出政策、反帝国主義共闘戦略に見られたような中国政府による自国の華人に対する政治的動員を防ぐためである。

この点は、中華人民共和国建国直後の1950年前後の東南アジア各国と中国の国交締結交渉ではこの二重国籍問題は十分に解決することはなかったが、70年代に入ってからの交渉でこの問題は解決され、1974年、75年にはマレーシア、フィリピン、タイとの間で国交が結ばれることになった(田中 2002)9

これらの歴史を考慮すれば、中国政府がどのように中国人を規定するのか、どのように海外のチャイニーズを規定するのかという政策課題は、中国政府の対外政策の意思表明であり、とりわけ華人居住国との外交関係を左右する基本事項である。そしてそれはもちろん、加えて先に述べたとおり海外のチャイニーズの運命を左右する根本的な要因でもあった。

したがって、今回People’s Dailyが掲載した論説は、現段階では論説に過ぎないものの、今後の政策転換を予感させるものであり、多くの華人を抱える国々にとっては、米国のようにたとえ明示的に名指しされていないにせよ、注視すべき動きとなった。中国はその経済的成長を資源として、安全保障上の地域的なパワーバランスを変え、様々な文化政策をこれまで実施してきた。しかし、歴史的に振り返ってみてその政治力を国際的に投影するには、国籍法の変更こそが、中国の台頭を国際社会に投影する最大の政策となるとも言える。国籍法はある意味において、中国政府にとっての最大の華人政策である。冒頭の論説が発表されたということから、すでに国籍法の改正が検討され始めていると考えても不思議ではない。

6. おわりに
以上、中国の海外のチャイニーズに対する動員政策の歴史的経験と、とりわけその危険性について述べてきたが、一方で大きな成功体験もあることを最後に触れておきたい。中国の海外のチャイニーズに対する動員政策の主体として、忘れてはいけないのは僑務弁公室である。現在でも、僑務弁公室室長は外事小組の一員でもあり、外交政策の決定過程においては重要なメンバーとして名を連ねている。その重要な組織が大きな力を発揮したのは、1978年以降の改革開放政策のなかで、広東省、福建省といった華人出身地がもつネットワークを活用して、両省で華僑・華人資本の投資を呼び込むための政策においてであった。それは国内における様々な優遇措置と、法的な投資インフラの整備であり、世界各国に広がる華僑団体、華人団体といった社団組織を活用することであった。同郷社団組織を通じて各国の華僑・華人資本家の訪問や投資を実現させまずは華僑・華人資本を通じて基本的なインフラを整備することを優先することで、段階的に日本や欧米各国企業の高技術産業の投資へと移行していくことを狙った計画であった10。そしてその取り組みは、実に上手く成功した11。福建省の地方政府が推進して作った同郷社団である「世界福州十邑同郷総会」が、インドネシアの林紹良のような東南アジアの大物資本家の訪問、投資を実現させたことで、中国への投資を躊躇する東南アジアの華人資本家達に対する、中国の改革開放政策と経済成長の信用度をアピールする上でも極めて大きな意味をもった。林紹良ほどの企業家が投資するのであれば、中国への投資を考えようと考えた華人資本家達も少なくはなかったであろうことを考えれば、1990年の林紹良の福建訪問は公式の外交イベントである以上に、僑務政策の大きな成果であった(庄 2001, 樋泉 2006)。20年前のこの成功体験が、今日の中国の指導部において、深く刻み込まれているとしても、不思議ではない。何よりも新国家主席となった習近平の出世の場は福建省であり、こうした東南アジアの華僑がまさに福建省の経済発展を支えた時期と重なる。中国の政策を進める上で、海外にいるチャイニーズに応援を求める。とりわけ、国内が困難であるがゆえに、余計に海外のチャイニーズを頼るという政策手法は、中国の多くの指導部に歴史的に共通している点であり、習近平国家主席にとっても親和的な政治手法とも考えられる12

ただ、注意しなければならないのは、1990年代の成功体験が、「東南アジア」の華人「企業家」に対する「資金的」援助であったとしたら、2012年以降の動員政策が狙っているのは、「米国」の「政治家」に対する、「外交的」「政治的」援助である。政治的な動員をかけるということは、かつての二重国籍問題にみられるように、多くのリスクを伴うものである。これまで台頭する中国の政策は経済から政治、そして文化と展開してきた。文化的には孔子学院の広がりや、中国語の学習人口の増加などばかりが注目されてきたが、今後は、より根本的な中国の拡大戦略である国籍法の改正により、「中国人」の定義を広げる方向に舵をきっても不思議ではないだろう。冒頭で紹介した論説は、台頭する中国が改めて中国人の定義を問い直し、それによって政治的パワーを投影する可能性を予感させるものであった。中国のこうした政策変化が、かつての1950~60年代における東南アジア-中国関係のように、社会的亀裂を誘発するものになるのか否か改めて歴史的教訓を学ぶ時期が始まったと考えられる。


<参考文献>
相沢伸広(2010)『華人と国家 : インドネシアの「チナ問題」』書籍工房早山.
庄国土(2001)『华侨华人与中国的关系』广東高等教育出版社.
白石隆・C.Hau(2012)『中国は東アジアをどう変えるか : 21世紀の新地域システム』中央公論新社.
田中恭子(2002)『国家と移民 : 東南アジア華人世界の変容』名古屋大学出版会.
奈倉京子(2012)『帰国華僑 : 華南移民の帰還体験と文化的適応』風響社.
樋泉克夫(2006)『華僑烈々 : 大中華圏を動かす覇者たち』新潮社.
山岸猛(2005)『華僑送金——現代中国経済の分析』論創社.


脚 注
  1. “Overseas Chinese's participation in politics becomes irresistible trend”People’s Daily Online, November 3, 2012. (http://english.peopledaily.com.cn/90785/8003362.html)
  2. オバマ大統領のNational Co Chiars のリストについては、次ホームページ参照。(http://www.barackobama.com/cochairs/)。なお、彼女は米国において初めて下院議員となった女性中国系米国人である。
  3. 下院議会公式ホームページより(http://chu.house.gov/about-me/official-photographs)
  4. ロック駐中米国大使が中国メディアにおいて、一大ブームになっている点についてはアジア経済研究所の任哲氏や、インドネシア政府外務省各位のご教示による。
  5. 華僑事務弁公室は1978年1月に中国国務院に設立された。続いて各省レベルに僑務弁公室が設置された。とりわけ広東省、福建省といった華僑・華人を多く送り出している地域(僑郷)では郡、 県、市レベルにまで僑務弁公室が設置され、華僑・華人資本を取り込む窓口になろうとしていた。このような形で僑務弁公室が設置されたことには大きく二つの目的があった。第一の目的は、省や県、郡、 市レベルで「僑郷ネットワーク」を活用しようとするものであった。1983年、全国人民代表大会で専門の華僑委員会が設置され、僑務関係の議案の研究、審議、起草、制定が行われた。この中央での動きを皮切りに、各省、自治区、直轄市でも次々と僑務弁公室が設立され、華僑・華人を中国の経済建設に参加させるための国家支援体制と法の整備が本格的に始まる。こうした地方レベルでの体制の整備は、中央では把握しきれない「僑郷ネットワーク」を活用して各地の僑務弁公室を窓口に華僑・華人による投資を呼び込むためであった。各省以下、地方政府に設立されたこうした僑務弁公室が華僑政策の立案の中心機関となり、第一段階として同郷団体などを通じて、愛郷心をくすぐり、学校や病院など各種僑郷のインフラ整備のための資金拠出を呼びかけた。こうした初期の各地の華人資本家や同郷団体からの寄付は、その後の投資を呼び込むための基礎インフラ整備の重要な足がかりとなった。
  6. 以下、インドネシア華人と中国の関係や中国の僑務政策、二重国籍をめぐる論述については、主として(相沢2010)第6章による。
  7. まず、1967年下半期には華僑投資公司が華僑出資金吸収を停止し、その後1969年に華僑投資公司は廃止されることになった。華僑投資公司とは、中華人民共和国建国後、華僑の祖国への投資を促進するために設けられた投資公司であり、華僑送金を国家利用するための窓口であった。二大華僑出身地域(僑郷)である福建省と広東省では、中国においては、他のどの地域よりも華僑送金が期待できる場所であり、それぞれ1952年7月、1955年3月に華僑投資公司が設けられていた。この時期の華僑送金のかなりの額が、ここを通じて中国に流れていたのである。(山岸2005: 85)参照。
  8. 1966年から67年にかけて、インドネシアでの苛烈な政策を逃れ中国に渡った華僑・華人も多かったが、彼らのなかには無事にたどり着いた先でさらに厳しい反華僑政策に晒された者もいた。結局、もう一度中国からインドネシアへと逃れる者も多かった。インドネシアに帰国した彼らは、中国での過酷な経験を華僑・華人の間に伝え、これはインドネシアの華人社会が中国にいたずらな期待感を持つことを抑制する効果があった。
  9. 1959年にはインドネシアと中国の間で二重国籍問題の解決にかかる覚書が交わされた。この時点で、周恩来首相は、華人に対して、二重国籍状態の永続を終結させる旨約束していたが、 その実行をめぐってはインドネシア側の政治的思惑もあり、すすまなかった。最終的には、インドネシア側が1965年の9.30事件後の一連の政策のなかで、中国籍を保持する華人に対して、厳しい政治的、経済的、社会的規制をかけたことで、多くの犠牲を払いながら半ば強引に解決することになった。なお、1970年代には、中国は国連での代表権も国民党政府に代わって獲得し、アメリカを始めとする西側各国との国交関係も樹立したことで、中国の外交的孤立は解消されつつあった。国際環境の変化も手伝って、中国にとっても二重国籍を否定することで失うものは相対的に低下していた。1960年代の経験から、二重国籍政策を維持することで、かえって各国に根をおろしている華人を苦しい立場に追い込むことは明らかとなっており、彼らの状況を困難にすることは、望んでもいなかった。中国の国籍法の未確定という状態は、長年に渡って東南アジアからその姿勢を疑われる元になっていたが、1980年9月の中国国籍法の制定によって、従来の血統主義を継承しつつも、二重国籍を明確に禁止したことで、問題が解消された。(田中2002:67-69)。
  10. このほかにも華僑投資や送金を奨励し、それを成功させたものへの特典が、様々な形で整備されていった。たとえば、華僑・華人や、香港、マカオ、台湾の同胞は、投資、送金に対して税制面で 優遇されるだけでなく、僑郷の親族への農村戸籍から都市戸籍への変更、特に住宅購入金額に応じた優遇なども行われた(山岸2005:155)。
  11. 1990年に国交が回復した後にははっきりとした形で実を結んだ。インドネシア随一の華人資本家、林紹良(Liem Sioe Liong)が出身地である福清への訪問が実現し、 大々的に報道された。マレーシア随一の華人資本家でもある郭鶴年(Robert Kuok)らとともに、学校建設などのインフラ投資をおこなった(TEMPO, Nov. 24 1990)参照。
  12. 海外のチャイニーズの政治的動員について、ここでは具体的な政治行動を要請しているが、より広く検討すれば、中国系米国人、 中国系インドネシア人を指すChinese American, Chinese Indonesianや、その国籍上の帰属を問わずあえてあいまいな形で表現する、 “Ethnic Chinese”から、“Chinese in Foreign Country”と位置づけなおすという意味でも、すでにこれは華人の政治的動員、より政治的な意味での再中国人化の試み (※Re- Sinicization, Re-Sinification)さらには, 新たな中国圏(Sinosphere)の試みと位置づけることも可能である。Re-Sinicization, Re-Sinification, Sinosphereについての詳しい議論は (白石・Hau 2012)を参照。