skip to contents.

アラブ世界の民衆蜂起とアサド体制 ─その国際的・国内的条件─

政策提言研究

2011年12月
※以下に掲載する文章は、2011年度政策提言研究「中東・南アジア地域の平和システム構築に向けて」研究会における報告内容を要約したものです。
※本稿の内容は2011年10月末時点での動向を反映したものです。

PDFpdf(254KB)

I. はじめに
2010年12月チュニジアで始まり、2011年3月にはシリアのダマスカスにまで到達した民衆の抗議運動は、チュニジアのベン・アリ、エジプトのムバーラク、リビアのカダフィという3人の支配者を倒す結果となった。これらの抗議運動の同時発生は、アラブ世界の多くの政権が、似たような危機に直面したことを示している。ネオリベラリズムによる改革は、社会経済的な窮乏と不平等の拡大をもたらし、腐敗した縁故的な資本家集団と体制維持を主たる機能とする治安部隊によって国が思いのままにされ、国家機関は指導者の恣意的な権力維持とその後継者の選定のために利用されている1 。しかしながら、アラブ世界の国々における抗議運動の多様な軌跡とその結果が示しているのは、アラブ世界は社会経済構造、国内及び地域・国際関係、政治・軍事関係という意味では互いに異質でもあるということである2 。チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、バーレーンそしてシリアなどで起こっていることは、アラブ世界の他の国々でも近い将来必然的に起こると考えることはできないのである。

シリアでのバッシャール・アル=アサドの支配に対する8カ月間にわたる民衆抗議3 への政府の暴力的弾圧の結果、国連の報告によれば、3500人以上の一般市民が死亡し、数千人が負傷し、数万人が拘留施設に収監されている4 。収監されている人々の中には、女性や子供も含まれ、多くが拷問を受け、日々死者が増えている。一般市民に対する政府の軍事作戦により、多数が国内避難民となり、数千人がトルコやレバノンに難民として流出している。しかしリビアとは異なり、外国による軍事介入などはなく、抗議者に対する弾圧の強化が、エジプトやチュニジアで起こったような政権からの軍の離反を促したり、軍がアサドを追放する動きも今のところない。

抗議運動に対する暴力的な弾圧が続いているにもかかわらず、シリアの支配エリート層と軍部が一体性を維持していることは、どのように説明できるだろうか。徴兵されたシリアの兵士の大半は、反体制抗議運動に参加している多くの市民と同じスンナ派のムスリムであるという事実にもかかわらず、なぜ軍からの本格的な離反はみられないのだろうか。一般市民の犠牲者数が増え続けているにもかかわらず、外国による軍事介入も近隣諸国による強固な対応も見られないのはなぜなのだろうか。現体制がこの状況下でなおも存続していることには、国と軍部の有機的な結合、地域的・国際的環境、そしてシリア社会の分裂と統一した野党勢力の不在という3つの大きな要因がある。しかし、ここで注意したいのは、これらの要因だけが今後のシリア情勢の決定要因ではないということだ。日々の抗議運動の中で、人々は政府の統制の外での組織化が可能になり、より多くの市民が新しい市民社会の構築に向けて重要な役割を果たしており、変化するシリアで新しい政治的展望が見えつつあるといえる。

II.シリアの政治・軍事関係
チュニジアやエジプトの軍と違い、シリア軍は、1970年にハーフィズ・アル=アサド(ハーフィズ)が権力の座について以来初めとなる前例のない全国規模の反体制抗議運動に直面しながらも、バッシャール・アル=アサド政権を現在までしっかりと支えている5 。シリアの政権が民衆の抗議の波に抵抗できるのは、何よりもまず政治体制と軍部に強固で有機的な結びつきがあるからだ。アサドは、少数派である同じアラウィー派に属する者たちで大統領府を含め、軍部、諜報機関(ムハーバラート)、与党バース党などの主要ポストを独占してきた6 。アラウィー派はシリアの体制の中核を構成し、スンナ派が圧倒的に多い同国で、国家の諸機関、特に重要なバース党と軍部を強く支配している。A.ドライスデールは、ハーフィズが軍隊に2つの機能を持たせることで確固とした抑圧機構を構築したと説明している。1つは体制を守るアサドの親族とアラウィー派からなる親衛隊という機能であり、もう1つは国境を防衛する職業軍人からなる軍隊という機能である7 。ハーフィズはまた、複数の諜報・治安機関が体制の柱となる「ムハーバラート国家」を建設し、これらの機関が現在に至るまで国民、軍部、そして互いを監視してきた8

シリアの軍は体制を守るために設計されており、アサド一族が、訓練され装備も充実した大隊の指揮権を握り、軍と治安機関の上層ポストの過半数を占めることで、支配体制に対する軍の忠誠と結束を確実なものにした 9。例えば、アサドの筆頭顧問たちはほぼ全員がアラウィー派であり、バッシャールの弟マーヘルはシリア軍の中で最も装備された第4大隊と共和国親衛隊を率い、シリアの強力な諜報機関においても大きな影響力をふるっている10 。バッシャールの妹の夫アーセフ・シャウカトはシリア軍の副参謀総長であり、その前には軍事情報機関の長を務めていた11 。また、重要なエリート官僚は、軍の将官や治安機関の長から選ばれているのである。このような現実により、アサド体制は軍部と治安機関から無条件の支持を得ることができたのである。

これらの要人は、選択的な重用や裁量的な利権供与を通して富を蓄積し、忠誠と結束はさらに強固になった12 。イスラエルの脅威に対するシリアの安全確保という名目で、シリア軍は国から豊富な財政資源を受け取り、国内問題についての影響力を保持している。こうしてアサド体制下の軍は、財源の分配という役割を担い、アラウィー派の高級軍人とその一族は、電気通信、銀行、エネルギー部門など国家経済の半分以上を握っているのである13

また、政権が軍や警察等の強制装置で宗派主義をとってきたことにより、少数派のアラウィー派の運命が体制の存続に直結することになった。アサド政権は、体制の崩壊が惹起し得る宗派抗争やイスラミストの台頭を理由に少数派、特にアラウィー派、キリスト教徒、ドルーズ派、イスマーイール派(シーア派からの分派)などの不安を煽り、体制への支持獲得に利用した。キリスト教徒の支持の獲得を狙った最近の動きとして、2011年8月半ばにキリスト教徒の将軍ダーウード・ラージュハを国防大臣に任命した例が挙げられよう。この役職は常にアラウィー派が占めていたことを考えると、この動きは歴史的なものといえる。さらに、アラウィー派を武装集団化することで、宗派間の緊張を高めようとする体制側の危険な企みが明らかになった14 。しかし、社会経済的な困窮に加え、抗議者をイデオロギーと宗派の線を越えて団結させることになった強い共通の要因は、宗派や民族的な背景に関係なく、全シリア人にとって民主主義と表現の自由が存在していないということである。

体制と軍部の有機的な結合は、現在まで軍の上層部の寝返りを防止するように機能しており、チュニジアやエジプトで起こったように、軍部が独立した組織として行動し、国益の名においてバッシャールとアサド一族の支配を追放するために軍が介入することを難しくしている。軍部の下層レベルは徴兵されたスンナ派兵士が多数を占めているが、抗議者の殺害には主としてアラウィー派からなる民兵(シャッビーハ)が配備され、民兵が体制による抗議運動の弾圧において重要な役割を果たしてきた15 。抗議を弾圧する際に、体制が直接手を下すことなくシャッビーハを第三者として利用することは、体制が殺害を伴う事件から距離を置き、市民の殺害を外部の陰謀のせいにする戦略の柱ともいえる。

さらに体制側は、方々の市や町で同時的に軍事作戦を展開することを控えることで、忠誠部隊の数が不十分であることを穴埋めし16 、軍部からの離反の規模を抑え、民衆の抗議が拡大するリスクを避けてきた。軍は、各地を転々として作戦を展開し、町を孤立させ、殺戮と大規模な逮捕を行うことで反体制派を一掃し、軍からの離反者を捕らえている。また、現場では信頼性の低い部隊は包囲した市の外におき、信頼性の高い陸空軍部隊と狙撃部隊を市内に送り込むことによって、軍の統制を維持している17

シリアの体制は、主としてダマスカスやアレッポ出身のスンナ派の特定一族の商人やビジネス階級に支配階級との有利な関係を享受させてきた。これによってアラウィー派は権力を維持し、スンナ派の商人も富むことができ、体制は政治的な安定を確保できた。これらの権益は、議員になることで確保され、結果として支配エリート層の拡大と、支配エリートによる国家権力独占の維持に利益を見出す層を生み出してきた。首都ダマスカスやアレッポの街頭で大規模な抗議行動が起こっていないようにみえるのは、これに要因の一部がある。しかし、現在の情勢は西側からのさらなる経済制裁を招いており、観光産業は消滅し、投資家はシリアでの事業を取りやめ、スンナ派商人やビジネス階級のなかには、シリア国外に資金を移動させている者も出てきている18 。また、民衆蜂起が弁護士や医師などの専門職の人々を巻き込むことに成功したことで、この2つの主要都市も新たな局面に入る兆候がある。専門職集団による抗議運動へのロジスティックな面での支援、つまり人道的支援と医療援助により、これらの専門職集団は体制側と直接対峙することになり、終局的には現場で反体制側を団結させることにもなるだろう。

III. 地域および国際的環境
シリアの政権の将来像に対する中東域内および国際社会からの一致した見解がないことで、抗議運動に対するアサド政権の軍事的弾圧が続けられてきた側面がある。アサドの失脚は体制の存続よりも多くの問題を引き起こしかねないという恐れが、ほとんどの周辺国の政策を左右してきた。シリアが中東の非常に緊迫した地域で占める戦略的な位置により、ムバーラクの失脚によって警戒心を強めているイスラエルを含めすべての近隣諸国は、アサドの失脚に伴う混乱への懸念を抱いている。特にイスラエルにとっては、アサドの失脚は避けなければならないシナリオである。シリアはイスラエルを敵国と見なしていても、現実に目を向けると、アサド支配の40年の間、イスラエルとシリアの国境は安定した状況を維持してきた。アサドが失脚し、シリアが民主化して国民を代表する政権が誕生すれば、シリアはイスラエルによるパレスチナ占領だけでなく、ゴラン高原の占領についてもこれまでのように黙っていることはないだろう。また、アサドの失脚により、シリアが混乱状態に陥れば、アサド体制下のような安定した国境を維持することは難しいだろう。こうしたことから、アサドは、反体制派が現体制に替わるものを提供する点において弱いことを念頭に、シリアの安定の維持のために最も良いのは、現状を維持することであるという主張を続けているのである。さらに、シリアはイスラエルを攻撃する用意はなく、イスラエルとの間接的な和平交渉の継続は、特に西欧諸国に対してアサド体制が地域的な和平に貢献することができるかもしれないという印象を抱かせている。

シリアが1998年にトルコの反政府クルド労働者党(PKK)の指導者アブドゥッラー・オジャランをトルコへ追放して以降、トルコはシリアとの関係改善を精力的に進め、近隣地域における影響力を強めてきた19 。さらにトルコは、2009年のイスラエルによるガザ攻撃によって計画が頓挫するまで、イスラエル・シリア間の和平交渉を仲介する用意もあった。2011年3月のシリアでの抗議運動勃発の際、トルコがアサド政権を見捨てず、抗議を抑え込むためアサド政権に対して改革を推進するよう奨励したのはこのためである。しかしアサド政権による抗議運動への暴力の激化を前に、トルコの指導部は、イラク系クルド人がイラクの前大統領サッダーム・フセインに対する反乱に失敗し、何百人もが大挙してトルコ国境に逃げ込んだ1991年の繰り返しを危惧するようになった。トルコはシリアとの長い国境線上での混乱と、長い間抑圧されてきたこの地域のクルド人が勢力を強めることを恐れているのである。そして多くのトルコ政府当局者が、トルコ軍はシリア国内に緩衝地帯を設け、アサド政権の暴力的弾圧から逃避する人々がシリア国内で人道的支援を受けられるようにするべきだと提案している20 。さらに、トルコの報道機関が抗議運動に対するシリア政府の暴力的な弾圧を詳しく大々的に報じ、シリア難民が続々とトルコに流入してくることで、トルコ政府に国内的な圧力がかかることとなり、トルコはアサド政権を支持し続けることが困難となった。シリアからトルコへの流入難民は、シリア軍からの離反者を多く含んでおり、これらの離反者が自由シリア軍(Free Syrian Army)と呼ばれる武装集団を組織している。この集団のメンバーの大半はシリア国内にいるが、その指導者的立場にある司令官リヤード・アル=アスアド大佐と兵士たちは現在トルコにいる。トルコとこの自由シリア軍との明白な関係は、シリアの体制に対するトルコの政策の大きな転換を示すものである。

トルコに続いて、中国とロシアもアサド政権に改革の実行を呼びかけている。しかし、中国とロシアはこれまでのところ国連安全保障理事会がシリア政権への非難決議を起草することを阻んでいる。自国内にチベット人やウイグル人といった少数民族問題を抱える中国は、国連安保理が特定国の内政問題に干渉することを強く警戒している。中国は国連安保理が他国の問題に干渉する前例を作ることを望んでいないのである。一方ロシアにとってシリアは重要な軍事的・経済的基地であり、ロシアは中東地域における戦略的同盟国であるシリアを失いたくはないと考えている。また、シリアのタルトゥースとラタキアの両港にはロシアの海軍基地が置かれており、シリアは中東におけるロシアからの最大の武器輸入国であると見られている。もし西欧諸国に支えられた反体制勢力がシリアを支配するようになれば、これらの関係に対する大きな脅威になるだろう。したがって、シリアの現体制の存続は、ロシアが旧ソ連以外の地中海に開けたこれらの基地を通じて、中東での軍事的・政治的影響力を維持する上で極めて重要なのである。

民衆の抗議運動にもかかわらず、シリアの現体制を支持している中東の主要国はイランである。シリアとイランの同盟関係の歴史はイラン・イラク戦争時(1980-1988年)にシリアが公然とイラン側を支持した時代にさかのぼる。両国が共にイラクのサッダーム・フセインに敵対していたことが、同盟関係をより強固にした大きな理由であり、それはレバノンにおいて、イランとシリアが支援する非国家主体の強力な武力組織ヒズブッラー運動が出現したことによって、その後ますます深まった。さらに、2003年のアメリカによるイラク侵攻も、アメリカの中東における戦略を弱体化させるという共通の目標を持つイランとシリアの関係を一層緊密化させる理由となった。イランはシリアとヒズブッラーを通じ、中東域内での強い影響力と、アメリカおよびイスラエルに対する防衛線を維持してきたため、イランにとってシリアとの連携は非常に重要なのである。このようなことから、イランが抗議運動の参加者たちを陰謀者や国外からの侵入者と呼ぶシリア政権側の論理を受け入れ、アサド政権を公然と支持してきたのは、なんら驚くべきことではない 21

IV. 反体制統一戦線の不在
1970年にハーフィズ・アル=アサドが権力を握って以来の40年において、シリア国内における個人間の結びつきは、エジプトの場合などと極めて異なるものである。エジプトではこの間市民社会が成長し、市民的・政治的権利が向上したが、シリアではそのようにならなかった。厳しい抑圧の歴史が、あらゆる形態の組織化された政治活動の出現を妨げていたからである。したがって、シリアの個々人が恐怖や脅威を免れない政治から身を引いてきたのは無理からぬことであり、そうした恐怖や脅威は今日に至るまでシリアの政治状況を特徴付けている。抗議者たちは現在アサド支配に対する抵抗で結束しているが、共通のアジェンダあるいは国家プロジェクトに向かって団結していこうとする兆候はほとんどない。この結果、反対勢力は今ひとつまとまりがなく、彼らの間に存在する違いは宗派、民族、イデオロギー等によって分割されたシリア社会が内部に抱える多くの矛盾を反映しているのである22

過去8カ月間、街頭での反体制の抗議運動は次第に組織化と一体化が進み、シリア内外の政治的反体制グループは、パリ・ソルボンヌ大学のシリア人教授ブルハーン・ガルユーンが率いるシリア国民評議会(Syrian National Council)を組織することにも成功した23 。しかしこの評議会は、現在までのところアサド体制に替わる広範な支持基盤を持つ反体制戦線を確立できないでいる。緊急の課題は、国外でロビー活動を行っている亡命反体制派とシリア国内の活動家をつなぐことである。また、評議会で特定の政治・経済的計画に対する合意ができていないため、体制からの離反せずにいるスンナ派のビジネスエリートや他のシリア人を説得できずにいる。抗議者の名において国際社会に対して発言ができる反体制の統一戦線がなければ、国外からの恣意的な介入は単に反体制派を非合法化させ、民衆蜂起に分裂をもたらし、アサド政権が西側諸国から国を守るという口実のもとで抗議者の弾圧を優位に続けさせるだけに終わることだろう。

他方で、抗議運動の現場に目を向けると、集団行動の新たな兆候が見える。抗議運動参加者はアサド政権の暴力的弾圧にもかかわらず、武装することを拒み、いかなる外国の軍事的干渉も拒否している。抗議者たちは、インターネット、携帯電話、アル=ジャジーラ、BBC、アル=アラビーヤなどのテレビ局等を通じて、地域を超えた組織と動員を行う若者たちを中心に形成された地域間調整委員会(Coordination Committee)を運動の原動力にしている。分散的な組織を維持し、秘密裡に行動し、人々を広く動員するためイデオロギーを超えて全国民に通じるスローガンを使い、宗派、宗教及び階級の分断を乗り越えたことに彼らの成功がある。だが他方でリーダーシップの欠如は、彼らの現場での努力を、亡命反体制派とを結び付けることを困難にしている。

抗議者に対する軍事力行使の拡大は、隣国のイラクやレバノンで起こったような長期化した宗派抗争に陥らないために、アラウィー派さえも含めた少数派が現体制から距離を置くように作用するかもしれない。国家が市民に対して容赦なく組織的に暴力を行使してきたため、多くのシリア人は自分と家族を守るために武器を持つことを余儀なくされている。リビアの反体制勢力が武力によってカダフィを倒すことに成功したことで、体制側の軍事的弾圧に耐え続けてきたシリアの人々にとって、リビアの事例が魅力を増すシナリオになるかもしれない。しかし現在まで市民が運動の暴力化を拒否し続けていること事実は、民衆の道義的支援、国際社会からの共感そして反アサド政権の行動をいっそう引きつけるためには、自分たちの運動が平和的でなければならないという人々の高い意識を示すものである。

V. 結論
シリアの現政権は現在、階層構造も組織も統一した指導層も持たない民衆運動に直面している。イデオロギー的・宗派的な背景がはっきりしない若者を中心に構成されているこの運動は、民衆の組織と動員を追跡困難なコミュニケーション手段によって行っており、これが政権にとって運動の抑圧を一層困難にしている。彼らの反体制活動は、警察や軍部との対決の経験をもとに変化し、日々発展している。こうしたことが、体制側が逮捕や殺害を繰り広げても、現在まで抗議運動を抑え込むことに失敗している理由である。さらに、1980年代に起こった体制とムスリム同胞団との対立24 が都市部で起こり地理的に限定されていたのと異なり、今回の抗議運動は主に地方で起こり、徐々に都市部へと広がっている。シリア社会がこのように抗議運動を取り込んで行っているという事実は、この抗議運動が広範な地理的基盤に支えられていることを示している。既に3つの国で強固な権威主義体制が崩壊したこと、そして他の政権も民衆の抗議に直面していることは、シリアにおける抗議運動にはずみを与え、逆に政権にとっては市民を暴力的に弾圧することの危険性を増大させたのである。

過去8カ月間の経緯で明らかになった事は、体制側の治安対策が解決をもたらすようにも、運動を抑え込むことができているようにも見えないことである。それどころか体制側の弾圧は人道的な危機を増大させ、抗議運動の規模をむしろ拡大させる結果になっている。体制による抑圧的な行動は、軍やシャッビーハに対して、人々が暴力的な手段を選ぶ方向への圧力となっている。そして、さらには、宗派対立を引き起こそうとしている体制が利用している少数派(特にアラウィー派)に対しても、軍からの離反者や抗議者が暴力的な手段を選ぶようになる可能性もあるだろう。加えて、今後は軍部の分裂が進むことにより、長期化する軍事紛争を招く危険性もある。軍からの離反が増加すれば、体制を支持する軍の結束と地理的な統制能力が弱まり、結果として、アサド体制を倒す手段として武力闘争がより現実味を増す可能性もある。結果として、平和的な抗議運動を維持しようとしている人々も、アサド政権を倒すために暴力的な手段が必要だという訴えにやがて同調するかもしれない。シリアにおける民衆蜂起は、これまでのところ次第に規模が大きくなり、国際的な支持をも拡大してきており、徐々に「革命的」な性格を帯びてきている。体制による暴力の激化と反体制派および抗議者に対し妥協しない姿勢は、エジプトやチュニジアのような比較的平和な体制転換という選択肢が、シリアでは次第に狭まりつつあることを示しているのである。


参 考
  1. Mouin Rabbani (2011) “The Arab Revolts: Ten Tentative Observations,” Perspectives, Special Issue 2 May: 10-13
  2. Rolf Schwarz (2008) “The Political Economy of State-Formation in the Arab Middle East: Rentier States, Economic Reform, and Democratization.” Review of International Political Economy 15 (4), October : 599-621; Mehran Kamrava (2000) “Military Professionalization and Civil Military Relations in the Middle East,” 115 (1), Spring: 67-92
  3. シリア政府は、抗議運動を外国による陰謀、武装イスラム主義者によるもの、外国(イスラエル)の諜報員が関わっているなどと説明し、抗議運動の弾圧を正当化しようとしている。また、シリアの公式メディアは、武装集団が市民に発砲し、治安部隊を殺しているため、市や町での軍隊の動員が必要であると報じている。
  4. United Nations News Center “UN Human Rights Council Appoints Experts to Probe Syrian Violence,” 12 September 2011 (accessed 13 September 2011) (htttp://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=39516&Cr=syria&Cr1=)
  5. ハーフィズ・アル=アサドがクーデターによって権力の座についた1970年以前、シリアはアラブ世界で最もクーデターが頻発していた国だった。ハーフィズ・アル=アサドの30年にわたる支配の後、その体制は2000年に息子バッシャールに引き継がれた。これは、世襲による体制継承に失敗してきたイエメン、エジプト、リビアなどのアラブ諸国の多くの指導者に対し、世襲の前例を示すこととなった。
  6. アラウィー派はシーア派イスラーム教徒の分派であり、シリアの人口の約14%を占める。1960年代以降はシリアの宗派別の国勢調査データがないため、同国内のアラウィー派の正確な数は不明である。
  7. In Raymond Hinnebusch (2008) “Modern Syrian Politics,” History Compass, 6 (1): 263-285.
  8. Ibid.
  9. Eyal Zisser (2011) Asad’s Legacy: Syria in Transition. London: Hurst; Zisser (2007) Commanding Syria: Bashar al-Asad and the First Years in Power. London: I.B. Tauris.
  10. The New York Times, 6 August 2011.
  11. Al-Akhbar, 10 August 2011.
  12. Risa Brooks, 1998. Political-Military Relations and the Stability of Arab Regimes. Oxford: Oxford University Press.
  13. シリアにおける経済の自由化は、アサド一族に近いエリート集団に利益をもたらしている。バッシャールのいとこで、シリアの携帯電話会社シリアテルなどを保有し、シリア経済のに大きな影響力を持つとみられるラーミー・マフルーフが一例である。マフルーフはエジプトの鉄鋼王アフマド・エッズ、あるいはチュニジアの前大統領ベン・アリの妻で支配家族の贅沢の象徴とされていたライラ・トラブルシのシリア版といえる(Anthony Shalid, “Syrian Businessman Becomes Magnet for Anger and Dissent,” The New York Times, 30 April 2011 ; “Uprising Exposes Syria’s Economic Weakness,” Financial Times, 26 April 2011 ; Adrian Blomfield “Syrian President’s Reforms Blocked by Family,” The Daily Telegraph, 28 April 2011.
  14. The Guardian, 18 July 2011.
  15. 離反は軍の下層兵士の間で少しずつ増えているが、アラウィー派が支配する軍部と治安部隊に脅威を与えるほどのものではない。抗議者が宗派的分裂ではなく国民的団結を強調しようと努力しているにもかかわらず、シャッビーハによる抗議の弾圧はアラウィー派に対する反感を煽っている。
  16. The Jordan Times, 4 August 2011.
  17. Al-Asharq al-Awsat, 18 July 2011 (http://www.sawsat.com/details.asp?section=4&issueno=11920&article=631583).
  18. Lahcen Achy (2011) “The Economic Consequences of Syria’s Social Unrest,” Carnegie Middle East Center, 17 August.
  19. 2000年以降、バッシャールが権力の座に就いたことと、2002年の総選挙の結果、公正発展党がトルコの政権を取ったことにより、トルコ—シリア関係は劇的に改善した。2002年から2010年の間に、シリアとトルコは50以上の協定を締結し,トルコはシリアの最大の貿易相手国となった。2009年以降、ビザの制約が取り払われ、2010年には両国は史上初の合同軍事演習を行った(The New York Times, 13 October 2009 ; Bilal Y. Saab (2009) “Syria and Turkey Deepen Bilateral Relations,” Saban Center for Middle East Policy, 6 May)。
  20. Today’s Zaman, 22 August 2011.
  21. Khaleej Times, 12 April 2011.
  22. Bassam Haddad (2011) “The Arab Uprisings and the U.S. Policy: What is American National Interest?” Middle East Policy. XVIII(2), Summer: 1:28.
  23. シリアの主な組織化された反体制グループは、ムスリム同胞団、クルド人の政党やグループ、自由シリア軍(Free Syrian Army)、民主的変革のための国民協調委員会、そしてブルハーン・ガルユーンが議長を務めるシリア国民評議会の5つである。
  24. 1982年にハマー市で起こったムスリム同胞団の反体制蜂起に対する体制の弾圧で、数万人が殺害されたと言われている。