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アラブの春と『包括的発展』

政策提言研究

清水 学 (帝京大学教授)
2011年10月
※以下に掲載する文章は、平成23年度政策提言研究「中東・南アジア地域の平和システム構築に向けて」研究会における報告内容を要約したものです。


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今日のアラブ世界の政治変動を引き起こす上でチュニジアとエジプトでの「アラブの春」と呼ばれる民主化が大きなきっかけとなったことはいうまでもない。両国とも2008年秋のリーマンショックによる世界的な信用経済危機の否定的な影響を受けるまでは、マクロ面でみると比較的順調な成長を見せていた。表面的には社会経済的問題がないように見えた。その点からすれば、ここ2,3年の国際的な過剰流動性を背景とする小麦などの高騰こそが社会不安を激成した原因とする見方も成立しうる。しかしエジプトに限ってみると、すでに「アラブの春」につながる動きが世界的信用危機以前の2006年にはその端緒的な姿を見せていたのである。それは労働運動の分野における異変である。

労働運動と民主化運動の共振
エジプトの「1月25日革命」の表舞台はカイロのタハリール広場で、重要な裏舞台の一つはナイルデルタのガルビア県の工業都市マハッラ・エル・コブラであった。マハッラ・エル・コブラは人口約50万人であるが、労働者数2万7000人を数えるミスル紡織工場を始めとする最大の国営繊維産業を抱えた都市である。2000年半ば頃から大規模な争議が頻発するようになり、2008年4月初めにカイロで、そこでのストに連帯するゼネストを呼びかけたことから「4月6日青年運動」(正式には同年5月発足)が始まった。このグループは、今年の「1月25日革命」を推進した主要青年グループの一つとなった。2008年4月のストは2006年9月の第1波ストから始まり繰り返された一連のスト・デモの中では第4波のものであった。当時、筆者はたまたまカイロ訪問中であったが政府がこれに対してとった厳戒態勢に強い印象を受けている。

エジプトの労働組合組織はナセル時代に上から組織されたエジプト労働総同盟の一元的支配のもとに置かれてきた。労働総同盟は与党・政府の有力な支持母体であり、1980年代半ばまでは労働総同盟の議長はそのまま政府の労働大臣に任命される慣習さえあった。しかし、2004年に成立したナジーフ内閣のもとでマハッラ・エル・コブラの労働運動は活発化した。一つは賃上げ要求であり、当時の労働者の平均賃金は約300ポンド(当時の為替換算で約6000円)であった。もう一つの課題は国営企業民営化が解雇に結び付くことに対する警告抗議であり、事実非正規雇用が当時増加し始めていた。労働総同盟は政府の国営企業民営化に全面的に賛同している以上、スト参加労働者は公式労組の指令系統とは別個の指令系統で動いたもので、いわゆる山猫(wildcat)ストであった。しかし、その動員力が大きかったため、政府も無視できず、一定の賃上げ要求にも応じ、民営化後ただちに雇用を削減することには慎重な対応を見せた。事実上の「独立系労組」の発生である。その後、固定資産税務局労組、教職員独立労組など一連の独立系労組が生まれている。ネットワークの発展は独立系労組間を結び付ける役割を果たし、労働総同盟による労働運動の一元的支配が崩れ始めていたのである。

これらの労働運動は都市青年層の民主化運動との共振関係を次第に強めていったと見られる。現在の暫定権力機構である軍最高評議会(SCAF)とシャラフ内閣が労働運動側の要求に対してかなり前向きに対応しているが、それは労働運動と民主化運動の共振性に神経を使っているためと見られる。公務員の最低賃金を約50%引上げ、民間部門の裁定賃金も同様な措置をとるなど、かなり労働者側の要求を呑んでいる。

経済成長の陰に生じる社会的緊張
高い成長率あるいは順調なマクロ経済指標は、しばしばその社会に起きている質的な変化を覆い隠し易い。1979年2月の「イスラーム革命」直前のイランが高成長を謳歌していたことを想起させる。それは高成長が自動的に社会的安定に結び付くものではなく、高まった社会的流動性(農村から都市への労働力移動など)が社会的緊張を高める可能性があること、 平均所得が上昇していても所得格差が拡大していれば新たな不満要因となることを示唆している。。また各方面から指摘されているように、高学歴若年層にしわ寄せされた高失業率とならんで、受けた教育のレベルに対応する就業機会の欠如という構造的なミスマッチの問題があった。

これらの不満が権力との特殊関係を利用して成長した鉄鋼王と称されたアフマド・エッズなどの政商的資本の富の蓄積に対する不満、汚職に対する反発を生み、それを政治的運動に転化しやすい土壌をつくっていったといえよう。「社会的公正」が多くの青年層をとらえる政治的スローガンとなっていった。これは一部の青年層が労働運動とのネットワークを築いていった条件の一つであった。

エジプトの今後の経済政策
「革命」後のエジプトは何よりも人民議会選挙(今年11月末予定)、憲法問題など政治的課題が山積しているが、そのなかで経済政策の今後が問われている。主要政治勢力の間で市場経済を基礎とするという点では大方の合意があると思われるが、ムバーラク時代末期の一部政商的企業家に対する反発を見ると、いかにして「公正」の概念を経済政策に反映させるかが問われている。現在までのところ、国軍は自らのビジネスの既得権益保持の姿勢が強く、また主要政治勢力でもあるムスリム同胞団はマクロ経済政策に関して事実上学習段階にあることを自認している。事態は流動的で試行錯誤状況にあると見てよい。「革命」後の政治的不安定状況のなかで、観光客の急減、外貨準備高の減少、新規FDI案件が事実上ゼロなど、一時的な経済困難の対応も重要である。直近では10月9日のコプト教徒のデモに治安当局が発砲し25人が死亡するという事件が起きた。これに対して副首相兼蔵相のハーゼム・エル・ビブラーウィは抗議の辞表を提出した。これに対して軍最高評議会は財務相の辞任はエジプト経済が悪化しているという間違った印象を内外に与えかねないという理由を挙げて辞表受取りを拒否した。なおエジプト中央銀行によると、外貨準備高は2011年2月末の298億ドルが9月末には194億ドルとなり、輸入額の6.9か月分から4.8か月分まで落ち込んでいる。財政赤字の13%を銀行からの借入で賄っており、銀行の貸付残高の40%が対政府向けとなっている。その結果民間向け貸出が圧迫されるクラウディング・アウト現象が起きている。なお、対外累積債務残高は350億ドルで対GDP比15%相当となっている。

コンセンサスとしての「包括的発展」
チュニジア、エジプトの「革命」が提起した問題は、マクロ的経済指標が比較的順調な場合でも社会的政治的緊張を生ずることを示すといえよう。「革命」はマクロ成長の数字だけではなく、その中味が重視されるべきことを強調することとなった。特に社会的経済的歪みに目を向ける必要性を認識させた。そのなかでIMFや世界銀行などの国際金融機関の文書でもチュニジア、エジプトの経済開発において包括的発展(Inclusive Development)を考慮すべきであるとする発言が出るようになった。包括的発展は単に経済発展をマクロレベルの成長率だけではなく、一人当たり所得の伸び、平均余命、識字率などを考慮に入れて総合的に判断しようとする発想(人間開発指数)に基づいている。いわば経済成長の質を問おうとする発想である。今年9月末のIMF・世銀年次総会でガイトナー米財務長官は「アラブの春」に言及し、青年層の失業問題などを解決するための包括的発展に言及した。

このように国際的に包括的発展が総論としてはコンセンサスとなってきた現在において、必要なことはアラブ世界における包括的発展とは具体的にどういう内容が重視されるべきか、何が含まれるべきかが問われている。それは「アラブの春」で謳われた「社会的公正」の具体化とも関連している。そのためには、ガバナンスの改善、高等教育システムの改革、職業訓練と労働市場とのスムーズな連関、中小企業育成政策、政治的圧力で市場が歪められないための保証などの多様な課題が存在している。

今回アラブの変革のなかで、欧州復興開発銀行(EBRD)が定款を変更してチュニジア、エジプト、モロッコ、ヨルダンなどの地中海南部および東部をも融資対象国に含める方向に動き始めた。EBRDはもともと1991年4月に旧ソ連圏・旧東欧の民間資本と企業家の育成を通じた市場化支援のための国際金融機関として設立されたものである。その点ではアラブ諸国の一部を融資先に含めるのは銀行としては大きな政策転換である。今回の動きの動機はどうであれ、旧社会主義圏での経験がチュニジア、エジプトなどで適用しうるという発想があることは推測しうる。確かに国有企業の民営化あるいは国営企業改革などでは旧ソ連圏と類似した課題があることは明らかである。しかし社会的公正をキーワードにしている「革命」後のチュニジアやエジプトの政策志向とEBRDの民営化重視路線がどのような有機的な接点を持つかは今後の課題となりそうである。いずれにしても、具体的な改革の課題を多面的に深めるなかで、援助政策のさらなる効率化が検討されるべきであろう。

(2011年10月16日)