skip to contents.

経済開発過程における環境資源保全政策の形成

調査研究報告書

2009年3月発行
第1章
淮河は、中国東部、黄河と長江の間を流れる中国七大河川のひとつであり、古くから干ばつも水害も発生しやすい地域であり、それに対応するために水利行政が発展してきた。

加えて1970 年代から水汚染の深刻化が認識されると、「水資源保護」という新たな課題が位置づけられ、河川流域における水資源の統合的管理をめぐる取り組みが中央関係部局および流域省政府の間で模索されるようになった。淮河流域における水資源保護行政は1970年代初めから、流域における水汚染問題の深刻化への対応という切実な現地の要求に中央政府が対応するなかで始動した。その後、中央では水利行政と環境行政が相互に連携しながら、流域4 省とともに、水資源保護行政を担う組織を形成し、その事務局をこれまで洪水および干ばつ対策事業を担ってきた流域管理機構に設置した。今後、それ以降の流域水汚染対策の展開に関する研究とあわせて、中国淮河流域における水資源保護行政の形成と発展の一連の過程を整理するとともに、現在に至ってもなお水汚染問題の解決が困難となっている要因について探っていくことが求められている。

第2章
日本の1960年代、70年代の高度経済成長期に、大気汚染の原因となる硫黄酸化物対策が急速に進んだ。その最も大きな要因としは、硫黄分の含有量が多い燃料から少ない燃料への燃料転換が進んだことであった。燃料転換による硫黄酸化物対策の進展の背景にあった資源エネルギー政策との関連性を示す。そして、電力業界、石油業界、中央政府、地方自治体、市民という、資源エネルギー政策と環境政策に対する異なった利害を持つ主体の間の相互作用が、結果として燃料転換による硫黄酸化物対策を進展させたことを明らかにする。また、環境政策、特に産業公害対策を分析する際に、資源に着目することの重要性を示す。

第3章
水質保全政策には、その形成過程で水資源の利用に関わる産業間の利害の調整策という側面があった。日本の水質保全政策の形成過程を振り返り、産業政策としての側面を持つ水質二法が、深刻な健康被害をもたらした水俣病事件の発生と解決の過程でどのような役割を果たしたかを検討する。さらに、水質二法の環境政策史における意味を検討し、資源論の視点から経済開発過程における環境政策に関する議論を再検討する可能性を指摘する。

第4章
戦後日本の復興は、遮断された貿易構造の中で米国の援助を受けながら出発した。そこでの懸案は、戦前に支配的であったような対外的な拡張路線ではなく、科学技術の合理的利用にもとづく国土資源の活用であった。しかし、朝鮮特需による対外環境の急変、復興にともなう物質的需要の増大、そして米国の対アジア政策における日本の東南アジア関与の方向付けなどが組み合わさり、日本は国内資源への注目から、海外資源の獲得へと急速な方針転換を行う。日本の特徴は、このような1950年代初頭までの国内資源問題の焦点化と、対外経済協力に関する議論が重なる時期に、ほぼ同じ論者らによって議論されていたことである。1947年の資源委員会の創設に関与しながら、その数年後には経済審議庁初代の経済協力室長として活躍した大来佐武郎は、その典型な事例である。本稿は、賠償とは別の次元で、国内事情と表裏一体をなしていた戦後日本の「援助」の創成過程を検証する。こうした研究は、援助をもらいながら、援助を出している今日の中進国を考えるうえでも何らかの示唆をもたらすに違いない。

第5章
第二次世界大戦後の復興期に経済安定本部の中に設置され、日本の資源政策の立案に重要な役割を果たした、資源調査会の事務局に1948年から56年まで勤務された石井素介氏(明治大学名誉教授)に、当時の事務局とその周辺の議論と関係者の様子を回想し、
論考を執筆していただいた。

資源調査会における資源論の試みは、その議論の具体的な内容だけでなく、問題意識や組織のあり方を含めて、今日の発展途上国における資源、環境に関わる開発政策に対して重要な示唆を与えるものであろう。

本稿は、石井氏が在籍された当時の資源調査会事務局がどのような組織であったか、資源調査会の設立に加わった大来佐武郎、安芸皎一、都留重人たちと、外部の協力者たちが具体的にどのように議論を主導していったかを明らかにする、貴重な証言である。(編者)