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シリア内戦とクルド民族主義勢力

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.84

森山 央朗

2017年3月31日発行

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  • シリア内戦の初期、クルド民族主義勢力は、「アサド政権 vs.反体制運動」という内戦の主軸から距離をおいた「第三極」的立場をとった。
  • その後、「イスラーム国」との戦闘をとおして内戦の「主軸」に絡まざるを得なくなり、内部に主導権争いを抱えつつ、クルド民族の政治的権利拡張の主張を強めている。

シリアにおけるクルド人人口は、総人口(約2200万人)の約10%(約220万人)と推計され、北東部のハサカ県を中心に居住している。シリアのクルド民族主義は、トルコやイラクにおいてと同様に、第1次世界大戦後のセーブル条約(1920年)でクルディスタンの独立が提起されてから本格的に形成された。続くフランスの委任統治(1920-1946年)は、分断統治策の一環として、民族的多数派のアラブ人に対する少数派としてクルド人を優遇した。このことが、独立(1946年)後のシリアにおいて、クルド人とアラブ人の民族的亀裂が政治的争点として浮上する要因の一つとなった。そして、アラブ民族主義に基づくエジプトとの合邦(アラブ連合共和国、1958-61年)から、シリア・アラブ共和国として離脱すると、アラブ民族主義の大義を手っ取り早く示すために、クルド人に対する差別的政策が施行されていった。


これに対して、クルド民族主義勢力は、シリア・クルディスタン民主党(1957年結党)などの政党を組織して対抗した。ハーフィズおよびバッシャール・アサド政権は、シリア国内での武装闘争を志向する勢力を徹底的に弾圧する一方で、政権との協議・協力によってクルド人の文化的自治や政治的権利の改善を掲げる諸政党に一定の枠内での活動を許容してきた。


そうした状況の中で、2011年に「アラブの春」がシリアに波及し、同年3月頃からアサド政権と反体制運動の対立が激化していった。クルド民族主義勢力は、同年10月にイラクのエルビールで、イラクのクルディスタン民主党(KDP)の支援の下に、11の政党が集まってクルド国民評議会を結成した。クルド国民評議会は、同時期に結成されたシリア国民評議会(SNC)に参加し、さらに、SNCをも取り込んだ反体制運動最大のアンブレラ組織である、シリア国民連合(2012年11月設立)にも参加している。


クルド民族主義勢力は、これらのシリア国外に拠点を置く反体制運動組織において、アサド政権打倒後のクルド人の文化的自治や政治的権利の改善を訴えた。その一方で、シリア国内においては中立的立場をとり、対立に巻き込まれることを避けた。しかし、2012年の半ば頃から、アサド政権が、アレッポなどの大都市が集中する西部での反体制運動に対抗する戦力を増強するために、ハサカ県から軍と治安部隊を引き上げていくと、クルド民族主義諸政党は、それぞれに民兵組織を結成して治安維持に当たりながら、内戦に参戦していくこととなった。


これらの民兵組織の第1の目的は、各々の勢力圏の維持・拡大であり、アサド政権打倒という目標を「自由シリア軍」などと完全に共有しているわけではない。また、クルド民族主義勢力の内部も団結しているわけではなく、様々な対立や抗争を抱えている。PKKの影響下にあるイェキーティー(PYD: Partiya Yekîtiya Demokrat、民主統一党)は、KDPの影響下にあるクルド国民評議会には対抗的で、アサド政権と暗黙の協力関係にあるとも言われている。イェキーティーは、アサド政権がトルコへの対抗策としてシリアでの活動を認めていたPKKのオジャラン党首を、トルコからの圧力に抗しきれずに国外に退去させた(1998年)後の2003年に、シリアに残ったオジャランの支持者によって結党された。イェキーティーは、武装闘争によるクルド民族の独立を目指すオジャランの理想を追求するために、イラクやトルコで活動する軍事部門(YPG: Yekîneyên Parastina Gel、人民保護部隊)を訓練していた。そのために、アサド政権がハサカ県から軍と治安部隊を引き上げたとき、速やかに人民保護部隊を展開し、同地の治安維持に大きな役割を担うことができた。


PKKとライバル関係にあるKDPの支援によって形成されたクルド国民評議会は、イェキーティーが軍事力と治安維持能力によって、クルド人居住地域で勢力を拡大することを警戒した。クルド国民評議会を支援するKDP党首のマスウード・バルザーニは、エルビールでの協議を主催し、2012年7月に、イェキーティーとクルド国民評議会がともに参加する上部組織として、クルド最高委員会(Desteya Bilind a Kurd/Supreme Kurdish Committee)を発足させた。この最高委員会の指揮下に、人民保護部隊と、バルザーニが訓練したクルド国民評議会の軍事部門であるシリア・クルド・ペシュメルガが、ともに入ることによって、イェキーティーとクルド国民評議会の対立は一部解消された。しかしその後も、イェキーティーは、人民保護部隊の支配地域にシリア・クルド・ペシュメルガが入ることを認めず、イェキーティーとシリア国民評議会のライバル関係も続いた。


クルド民族主義勢力は、シリアという国家の枠内での文化的自治権や、クルド人地域とアラブ人地域での連邦制などを主張しつつ、ハサカ県を中心としたシリアのクルディスタンの安全の確保を掲げながら、その内部で主導権争いを行ってきたのである。そのため、アサド政権対「民主化勢力」という内戦の主軸には積極的に関わらない「第三極」と見なされ、シリア内戦に関する議論や交渉の中でクルド問題が主要な争点となることもなかった。


こうした状況を変えたのが、ヌスラ戦線や「イスラーム国」といった、「過激イスラーム主義」武装集団の流入である。クルド民族主義勢力は、クルド人居住地域に隣接するラッカ県に急速に支配を広げた「イスラーム国」との戦闘に突入し、コバニの攻防戦が大きく報道されるに及んで、「イスラーム国」に対抗する勢力として注目を集めることになった。


シリアのクルド民族主義勢力は、欧米諸国の空爆とKDPやPKKからの援軍を得て、「イスラーム国」の侵攻を食い止めることにある程度成功してきた。しかし、「イスラーム国」を完全に駆逐、ないしは、圧倒する見通しは立っていない。今後のクルド民族主義勢力の動向については、当面は、欧米諸国とKDP、PKKの支援を受けて、団結して「イスラーム国」の脅威に対抗できるかが課題となるであろう。さらにその後については、シリア内戦の推移や、トルコとイラクの動向によって大きく変わってくる。


そうしたクルド民族主義勢力の動向を見る上で重要な点は、結束力と動員力の変化と考えられる。諸政党・諸党派が結束した場合には、「イスラーム国」の勢力を押さえ込むことも可能であろう。そして、内戦の続くシリアにおいて、ハサカ県やコバニなどに、比較的安全な「クルド人地区」を確立することができれば、文化的自治や連邦制といった政治目標の達成に向けて、アサド政権と反体制諸派の双方と主導的に交渉することもできるだろう。


さらには、イラクやトルコのクルド民族主義勢力と共闘した経験から、シリアのクルド人居住地域をイラクやトルコのクルド人居住地域とつなぎ、「大クルディスタン」を統一・独立しようという主張を前面に押し出す可能性も皆無ではない。この場合、アサド政権の弾圧と「過激イスラーム主義」武装集団の「暴力の犠牲者」として、クルド人に同情的な国際世論を利用することもできるだろう。


逆に、クルド民族主義勢力内部の亀裂を克服できなかった場合、「イスラーム国」の勢力を押さえることができず、さらに大量のクルド人がトルコに流入する事態が懸念される。あるいは、一般のクルド人住民の多くが、クルド民族主義勢力によっては自分たちの安全が確保されないと感じるようになり、アサド政権の支配の復活を望んだり、「過激イスラーム主義」武装集団の支配を受け入れる可能性も否定できない。こうした状況は、クルド民族主義勢力のシリア国内の政治勢力としての消滅を意味するだけでなく、一般クルド人住民に対する深刻な人道危機につながる可能性が高い。

(もりやま てるあき/同志社大学)

本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。