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なぜ行ったり来たりがうまいのか――フィリピンの「ことば」を考えてみる

海外研究員レポート

フィリピン

岡部 正義

2017年8月発行

PDF (364KB)

1. フィリピン、国名を改称?

6月12日にフィリピンは独立記念日を迎えた。記念日を前にして、フィリピンという国名の改称に関する法案が議会に提出されたと報じられている。この動きが今後どの程度の運動に発展するのか現時点では未知数であるが、フィリピンがナショナリズムを追求する一つの動きが独立記念日に合わさったものと筆者は解釈した。

フィリピンという国名は、絶対王政期の16世紀のスペイン・ハプスブルク朝最盛期に君臨したスペイン王フェリペ2世(Felipe II)に由来している。スペインは1580年にはポルトガルを併合し、ヨーロッパ内にとどまらず、「新大陸」中南米、そしてアフリカ、インド、マラッカ王国、カリマンタン島の一部、そして、フィリピンなどを手に入れた。広大な版図を誇った当時のスペインは「太陽の沈まぬ帝国」と表現されるほどである。近代の西欧による植民地主義の展開にフィリピンも取り込まれたわけだが、16世紀に始まったスペインによる長い植民地支配は19世紀末の米西戦争でスペインがアメリカに敗北するまで続いた。その後はアメリカの植民地支配が始まり、フィリピンが主権を回復したのは、第二次世界大戦後の1946年のことだった。それでもなお、現在でもスペイン王の名を国名としていることは、明に暗にフィリピンが真の独立を成しえていないことを証明するものであると改めて主張する機運が高まった。

たしかに、いまだにスペイン王・フェリペの国と名乗っているとも解釈できるわけで、真にフィリピン人による国名に改称したいという動きが出てくるのはうなずける。実際、現地では過去にも同様の動きはあった。しかし、筆者には、対スペイン、あるいは対植民地主義という意味では国名の問題もさることながら、フィリピン内部の問題として言語の問題も大きいのではないかと考えている。それは、言語の問題も、国民統合やアメリカによる植民地支配の問題と切っても切れない関係にあるからである。

2. 「インターナショナル」な問題?

しばしば、フィリピンでは、特に海外の国を想定した話題でないにもかかわらず、「インターナショナル」という形容詞を使って国内の問題を表現するのを耳にする。よく聞けば、これはなにもアメリカであるとか中国であるとか、どこか外国との間の国家間(インターナショナル)の問題を指しているわけではなく、すこぶる国内問題を指していることに気づかされる。フィリピン国内で、例えば地方が首都マニラとの間に抱える利害の不一致を「インターナショナル」な「コンフリクト」と表現するのである。そこには、地理的な距離を超えて、言語の問題が大きいのではないだろうか。

確かに、フィリピンは、英語が通じる国だとよく言われる。実際、フィリピンはフィリピノ語とともに英語を公用語にしており、英語の浸透度は高い。法律や公文書はすべて英語で記されているし、街中の掲示や案内の表記も英語である。人びとの多くは英語を日常的に話しているし、テレビや新聞などもフィリピノ語とともに英語が中心である。実際、人口の多くが英語を使えることで、フィリピンには外国企業がビジネス展開し、商取引を行う際に、コミュニケーションの障壁が他のアジアの国々より低いと言われ、フィリピン経済が潜在的にもつ優位性の一つと考えられてきた。

しかし、国語はやはりフィリピノ語である1。マニラであれば人びとのあいだで日常展開される会話は、外国人の来客がいるなど特段の必要性がない限りは、フィリピノ語のみである。フィリピノ語は、文字通り、フィリピンの国語として制定されたものである。

ところが、フィリピノ語は、ルソン島のマニラ周辺地域(タガログ地方とかタガログ族、あるいは単にタガログという)で話されていたタガログ語という単なる一つの地域言語を土台としている。そこに、他の地域言語や外国語の語彙を一部取り入れてカスタマイズしたのがフィリピノ語であるが、フィリピノ語の実態はほぼタガログ語であると言ってよい。

タガログ語をほぼその土台とするフィリピノ語を国語とすることには、政治的、文化的、心理的な反感も少なくなかったという。フィリピン南部に多くの話者人口を抱えるビサヤ諸語、特にその中でもセブ語と称せられる言語を話す人びとは、人口の多さにもかかわらずタガログ語が事実上の国語として選ばれていったこと、その恣意性への複雑な思いがあるという。

さらに事態が複雑なのは、これらの言語どうしが、「方言」の範囲を超える差異をもっているという点にある。たとえば、セブ語、あるいはビサヤ諸語とよばれるこれら言語を、フィリピノ語しか話せない人たちが自由に操ることは不可能であり、学習経験がなければ読み聞きには困難をきたすほどという。例えば、筆者が七月下旬に現地調査に訪れていた西ビサヤ地方では、フィリピノ語(タガログ語)とは異なるキナライア語、アクラノン語、ヒリガイノン語(イロンゴ語)などが現地語として話されていた。州ごとに言語が違っていて、さらにこれらをたばねた西ビサヤ地方である程度共通するより上位言語としてイロンゴ語がある。しかし、これらはいずれもタガログ語、フィリピノ語とは異なる言語である。また、本稿執筆現在、マウテグループと政府軍との武力対立が起こっているミンダナオ島では、セブ語のほか、チャバカノ語、マギンダナオ語などまた異なる多くの言語が存在している。セブ語がミンダナオ島東部、東北部の地域共通語であるが、西部のイスラーム圏ではまた異なる言語が分布している。さらに少数民族の言語なども加えていくと、フィリピン国内には十数以上、あるいは数え方によっては百以上という多数の言語が存在している。

したがって、アイデンティティーは、対外的にはフィリピン人として一致結束する部分もあるが、平時はどちらかというとセブアノ・アイデンティティーとか、イロンゴ・アイデンティティーなど、言語との対応関係にある。地方の人びとは、マニラは自分たちを常に遇する立場に立ってはくれないとしばしば愚痴をこぼし、マニラの人びとはマニラの外に広がる多くの地域を「プロビンシャル」と総称し、自分たちとは違うラベルを貼ることがある。これらのことを称して、国内問題を「インターナショナル」とまるで国内にいくつもの国があるかのように揶揄したのだろう(さらに低地フィリピン人社会内部にあるこのような首都と地方、あるいは地方同士の二項対立とは別に、各地に住んでいる少数民族社会の人びとの問題も忘れてはならない)。

3. 絶妙な「行ったり来たり」の巧さ

さて、このように書くと、フィリピン国内は言語分布によって分断されていて、各言語話者集団はそれぞれの言語に固執しているかのように誤解されてしまうかもしれないが、実際はそうではない。むしろ、フィリピン人は、言語の壁を自由に超えたり再度戻ってきたりする、つまり「行ったり来たり」が自由な人びとである。

フィリピンの公用語は、繰り返しになるが、フィリピノ語と英語の二本柱である。学校教育では、現在進められている「K-12プログラム」と呼ばれる教育改革の一環で、現地語教育の巻き返しがあり、幼稚園と小学校の低学年においては一部教科では現地語で授業を行う場合もあるが、それ以外は、日本でいう国語や社会、芸術、道徳などに相当する文科系科目はフィリピノ語で、そして算数・数学、科学などの理数系科目は英語で行われる。そして、ビジネス一般や契約行為、政治経済活動、法案の起草などは英語で行われる。テレビ番組は、ローカル放送では現地語やフィリピノ語が用いられるが、実際には英語や「タグリッシュ(Taglish)」と呼ばれる混成語が中心である。新聞や報道は英語が多い。このようにメディアや教育を通じて、少なくともフィリピノ語と英語が混然一体となっており、さらに地方に行けば地域ごとの現地語も存在するから、バイリンガルは当たり前、場合によってはトリリンガル、クワトロリンガル(マルチリンガル)といった人びとも出てくるのである。

筆者が西ビサヤ地方を訪れた際は、英語はもちろん、フィリピノ語(ここではタガログ語と言った方が良いであろうか)もよく通用した。筆者は地域語であるイロンゴ語などを話すことはできないが、それでも英語よりは拙いタガログ語で話しかけた方が人びとは喜び、より「おしゃべり」になってくれた。

アメリカによる英語教育の導入があり、公用語にも制定されており、生活の隅々にまで英語が入り込みつつあるフィリピンでは、フィリピン人は英語を「使える」と言われる。しかし、それでも英語は決して母語ではなく、「一息置かないといけない言語」である。例えば、高等教育を受けた大学教授のような人々ですらも、会話単位はおろか一つの文単位でみても、「行ったり来たり」をしてみせるのである。具体的には、英語をベースに話されていたと思って聞いていると、喜怒哀楽を表す感極まった部分だけは文の途中であっても即座に現地語に入れ替わり、一挙に声のトーンがそれまでの英語の部分より高くなったりするのである。そして、また叙述的な部分になると英語に戻る。

人びとの会話は、より大きく見れば、日常会話では現地語(マニラ周辺であればタガログ語そのもの)、国内の言語集団を超えるシーンではフィリピノ語や英語、外国人向けには英語をベースにしている。ただし、町にあふれる活字の多くは英語が現地語表記に取って代わられており、この国独自の言語とは何なのか見失ってしまう。例えば日本やフランスのように、近代に強力に国語統一を推進した社会から来てみると、一国家一言語という対応関係を想定することは幻想かもしれないと実感させられる。

多言語多文化社会における共生は、常にグローバルとローカルの相克という現代社会のテーマのもとにあるが、人口一億人のフィリピン社会の中には、実に多言語多文化社会の特徴が濃厚に詰まっている。これまで見てきたように、人びとは、幼いうちから、家庭では現地語、学校ではフィリピノ語と英語を学び、思考し、その間を自由に行ったり来たりするのである。さらに、現地語やフィリピノ語に、英語やスペイン語、あるいは中国語などの海外の言語表現を柔軟に取り入れて、オリジナルにカスタマイズされたといっても良い言語環境を形成している。実用的には、これほど多くの人びととコミュニケーションをとることができるフィリピン人の「行ったり来たり」のうまさには多くの効用があると言える。他方で、国内の地域的差異をうまく止揚した国語を統一するという意味では、20世紀からのフィリピンの国語統一事業の成否には評価は分かれるところも大きい。特に、若い世代ではそうでもないが、いまでもタガログ語を国語教育に導入する以前に教育を受けた世代の非タガログ語圏の人びとは、やはり英語はおろかフィリピノ語よりも地方語を選好するからである。

英語は商機につながり、より多くの経済的機会を求めて海外労働に出ていくフィリピン人にとっては必須の言語である。社会的階層が高い人びととなると、フィリピノ語すらもあまり用いず、すべて英語だけで済ませるような人々も多く、その場合はいかにエスタブリッシュされた英語を使うことが出来るかどうかで、その人が値踏みされてしまうようなところもある。

経済的地位や社会階層の分断は、言語の分断とも密接に関連していて、フィリピン社会を一枚岩に捉えることは不可能である。この国がフィリピン人独自の言語を維持・発展させていく方法も、海外により大きく開かれた国として実用面を重視して発展していく方法も、それはすべて「フィリピン人」なる人びとにゆだねられている。過去にフィリピンが支配下に置かれた宗主国の植民地主義や対外国際関係を思い起こし、フィリピンという国の真の自立性やフィリピン人とは何なのかという命題について改めてフィリピン人が考える機会の一つに、毎年の独立記念日がある。しかし、国名や言語の問題だけをとって考えてみるだけでも、その「フィリピン人」なる一つの集団を想定すること自体がひょっとしたら幻想なのかもしれない。

以上

脚 注


  1. なお、厳密には、言語政策史上、本稿で用いるフィリピノ語、タガログ語、そして他にピリピノ語という三つの言語名称があり、これらを区別しなければならない。ピリピノ語は、1940年にマニュエル・ケソン大統領(当時)がその五年前の憲法制定会議をうけてタガログ語を国語と呼び、それが1959年にピリピノ語と呼称されたことに対応している(もともとタガログ語にはfの音がなかった)。他方、フィリピノ語は、マルコス大統領(当時)時代の1973年憲法において、フィリピン諸語すべてに基礎を置くフィリピノ語と呼称されるべき国民共通の国語を開発していくことが規定されたことに対応した呼称である(藤田剛正「東南アジアの言語政策 フィリピン共和国(2)」『東南アジア研究年報』31巻、1989年、pp.80-84)。ただし、本稿では以下、フィリピンの国語を指す呼称としてもっぱら「フィリピノ語」という呼称を用いることとする。
本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。