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地方の人々にとって身近な医療機関

海外研究員レポート

ベトナム

2014年1月発行
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地方の人々にとって身近な医療機関
病の時には、できるなら身近な医療機関で安心して治療を受けたい。誰もが同じ思いを抱いているのではなかろうか。「身近」を構成する要素には、物理的距離と心理的距離がある。ベトナムでは医療や健康に対する関心は高い。例えば病院数(下記表注1参照)は、2005年時の病院数878から、2012年には1030に増えた(Tổng cục thống kê ,2013: 689)。ハノイ市、ホーチミン市などの大都市では、国際水準を標榜する病院が存在し、外国人向けの情報誌でも紹介されている。また、テレビを観ていても薬のコマーシャルが頻繁に流されている。

ベトナムでは行政級のそれぞれ、すなわち、中央、地方(省レベル、県レベル、社レベル)に病院、医療機関が設立されている(表参照)。社会化(民間活力の導入)も推進しているが、医療部門の中心は公的機関だといえる。

表 ベトナムの医療機関(2012年)
   医療省管轄<中央> 医療局(注4)の管轄<地方> 他部門管轄
病院(注1) 41 963 26 1,030
介護・リハビリ病院 0 35 27 62
皮膚科病院 3 20 0 23
助産院 0 11 0 11
地域総合診療院(注2) 2 621 18 641
社レベル・機関・企業の診療所 0 10,757 715 11,472(注3)
出所:Tổng cục thống kê ,2013: 690.
注1:専門科、検査室、手術室などを備えた医療機関。
注2:県レベルの診療・治療機関。
注3:このうち、機関・企業の診療所数は715。
注4:省人民委員会医療局の管轄する地方の医療機関。


地方で暮らすベトナムの人々にとって、最も身近な医療機関のひとつには、地方行政末端級の社レベルに設置される診療所(Trạm Y tế)がある。筆者の限られた経験の範囲では、日本でいう「——医院」というような民間病院は、農村部でまだ見たことがない。2012年段階で、ベトナムには1万1145の社レベルの行政単位が存在する。このうち、1万757(96.5%)の行政単位で診療所が設置されている。大病院のある都市部で暮らす人たちにとっては、やや状況が異なるかもしれない。しかし、そうした大病院へのアクセスが容易ではない、地方の特に農村部で暮らすベトナムの人々にとっては、末端行政レベルの医療専門家、医療設備、常備薬、それを支える基本インフラが充実していることは、安心して生活をしていく上で大きな意味を持つ。ひとつには診療所は住民にとって身近な場所に位置することが多く、住民が通いやすいこと、2つめには住民の生活状況を含めた健康状況の把握や対処に有利だからである。

しかし、地方で暮らす人々に少しお話をうかがった範囲では、診療所よりも、より上級の病院、医療機関で診療、治療を受けることを望んでいる人がかなりいる。たとえば地方の住民が中央の病院に直接行くと判断した場合、地方住民にとって、身近な居住空間を離れて移動することは経済的にも心理的にもかなりの負担となる。病人の移動はただでさえ大変である。交通費、付添者の滞在費の問題も心配する必要が出てくる。そして、たとえ医療保険証を所持していても、医療保険証取得時に定められた医療機関を通さずに、より上のレベルの病院に直接受診した場合には、余分に費用を払わなくてはならない。にもかかわらず、離れた場所に位置する大病院に行こうとする人々、家族を連れていこうとする人々があとを絶たない。背景にあるのは、より上級の医療機関の方が安心して治療を受けられるという人々の思い、認識である。また、緊急時において、定められた規則を守って診療所から、段階的に上のレベルの病院に行くというような時間的余裕はないというのが、患者サイドの現実でもある。

実際に地方の診療所にうかがうと、診療所には診療室、医療器具、常備薬、ベッドも備えられている。しかし、たとえ診療所に行っても、レントゲン、超音波検査機などの医療設備が設置されていない、ベッド数も限られ、得られる薬にも限界があるといった、自身の経験や日々の暮らしから得られた情報が、人々の上記の認識、判断を支えている。こうした認識、判断は、現在ベトナムの医療分野で問題のひとつとなっている、地方から中央に向かう患者とその家族の増加、都市の大病院における過重負担の状況を生み出す原因のひとつとなっている。患者が集中する大病院では、一つのベッドを複数の患者が共用することも珍しくない。

この状況は、診療所で働く人々に問題があるから起きるのだろうか。いや、そうではないように思われる。診療所の責任者にお話を少しうかがった範囲では、診療所の役割は病気予防に重きがおかれていることが多い。職員の皆さんは、当直(診療所での宿泊勤務)も含めて真面目に勤務している。医療、診療行為だけでなく、医療会計専門家が不在のなかで医療保険に関わる書類作成など、様々な職務に追われている。一個人としては、家族のケアもしなくてはならない。所与の条件の中で、真面目に懸命に職責を果たそうと努めても、多くの住民が期待するような医療活動を行うことは、容易でないというのが、現実のようである。住民が、診療所に割り当てられた役割についてまだ理解していないことも多く、住民の望む診療レベルと、診療所の現実、与えられた役割との間にはギャップが存在している。もし、こうしたギャップを、医療設備、常備薬、基本インフラの充実を図るなど、診療条件を強化し、ベトナム医療における診療所の役割・位置付けを向上させることで解消していくことができるなら、地方で暮らす人たち、特に設備の整った大病院まで距離のある遠隔地で生きる人たちにとって、大きな暮らしの支えになると思われる。そして、こうした「充実」をはかりつつ、地道に実績を積み重ね、しっかりと住民にその成果を伝えていくことは、患者が集中する傾向にある大病院の過重な負担を減ずる上でも、大きな意味を持つのではないかと考えられる。

なお、基本インフラの整備については、医療行為を支える電力、清潔な水の安定的供給とともに、診療所への患者のアクセスの問題も視野に入れる必要がある。例えば未舗装の土の道は、雨が降るとぬかるみ、人々の移動を困難にさせ、奥地に暮らす人々の医療機関へのアクセスを妨げるからである。このように、医療に関わるインフラ整備のためには、地方・地域の生活基盤の総合的な充実が求められることになる。

ベトナムでは、2008年の後期国会で医療保険法が可決され、2009年7月1日に発効した。以降、段階的に対象者が広げられ、医療保険制度の普及が進められている。医療保険証を手にした多くの国民からは、「以前よりも安心できる」との声が聞かれる。医療保険制度の整備・普及は、多くの国民から歓迎されている。しかしながら、たとえ医療保険制度が普及・浸透しても、制度の普及・浸透に応えられるだけの人的、物的な裏付けが保証、拡充されていかなければ、制度の普及・浸透そのものの意義が損なわれかねない。医療保険制度の普及、浸透のためには、人的、物的な医療サービス供給体制の強化が不可欠だと思われる。

  ベトナム国民の約7割は農村部で暮らす。ベトナムのほとんどの末端行政単位には、公的な診療所が設置され、医療活動を行っている。地方、農村部で暮らすベトナムの人々の生活を考えた時、診療所という住民にとって最も身近な医療機関のさらなる強化・充実、ベトナムの医療における位置付けの見直し、地位向上をはかることは、中央・都市に位置する医療機関で国際水準の医療レベルを追求することに勝るとも劣らず重要ではないかと考えられる。

《参考文献》
Thổng cục thống kê,2013, Niên giám thống kê 2012. Nhà xuất bản thống kê.

本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。