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医薬品特許の強制実施権設定に関する考察

海外研究員レポート

インド

久保 研介
2012年7月発行
PDFpdf(70KB)

1.はじめに

インド政府は、2005年に特許法が改正されて以来、医薬品関連発明に対して特許を付与するようになっている1。しかし、多くの新薬メーカーはインド国内で特許権を十分に行使できないでいる(久保,2011)。これらの研究開発型企業を取り巻く環境は、2012年3月に更に悪化した。ドイツのバイエル・ヘルスケア社と米国のオニキス・ファーマシューティカルズ社が共同開発した腎臓がん・肝臓がん治療薬ソラフェニブ(ブランド名ネクサバール)の特許に関し、特許意匠商標総局(以下「特許局」と略称する)が初の強制実施権を設定したのである2。これによって、強制実施権の請求者であり、地場の有力な後発医薬品メーカーでもあるナトコ社がソラフェニブを製造販売できるようになった。

ナトコは、2010年12月の段階でソラフェニブの製造販売に関するライセンスをバイエルに求めていた。その交渉が決裂したことを受け、ナトコは2011年7月に特許局に対して強制ライセンスの設定を請求したのである3。2012年1月から2月にかけての審問を経て、特許局は今回の決定を下した。

ナトコは強制実施権を使って、バイエル製品の約3パーセントという超低価格でソラフェニブを供給する予定である。これが実現すれば、ソラフェニブを利用するがん患者は大幅に増えると思われる。一方、開発者であるバイエルの製品は価格を大きく引き下げない限り販売量が減るだろう。同社はナトコから売上の6パーセントのロイヤリティを受け取る予定だが、新薬の特許権者が通常得られる利益と比べれば微々たるものだ。

インド政府がとった今回の措置は、大きな反響を呼んだ。途上国における医療アクセスの拡大を支援するNGO「国境なき医師団」は、インド特許局の決定を支持するプレスリリースを出した(国境なき医師団,2012)。同団体は、強制実施権の設定がエイズ治療薬など他の薬効分野にも広がることを期待している。4

一方、3月に訪印中だった米国の商務長官は、インド政府による強制実施権の発給が知的財産権保護の国際的枠組を弱体化させかねないとの懸念を表明した(Sen,2012)。米国通商代表部が5月に貿易相手国の知的財産権保護状況に関する「スペシャル301条報告書」を発表した際は、前年に続きインドを「優先監視国」に指定するとともに、強制実施権を巡る動向を注視し続けると述べた(Office of the United States Trade Representative, 2012)。

日本国内からも、インド政府の判断を疑問視する声が上がっている(薬事日報,2012)。とくに研究開発型の製薬業界団体は、強制実施権の利用が慢性疾患治療薬などの分野にも拡がりかねないと警戒している(西澤,2012)。

このように、様々な利害関係者がインド政府による強制実施制度の運用を注視しているわけだが、彼らが共通して抱えているのは、今後どのような薬についてどのような場合に強制実施権が設定され得るのかという疑問だ。インドの特許法には強制実施権の要件を定めた個所があるが、漠然とした表現が並んでおり指針としてはあまり役に立たない。今回の審決を読んでもこの不確実性は払拭されない。しかし、行政審判の過程でいくつかの技術的な点について当事者および特許局がどのように考えているかが明らかになった。これらを整理しておくことは、本件の上告審を含め、強制実施権を巡る今後の動きを展望するうえで有用だろう。
本稿では、まず強制実施権に関わる法制度とソラフェニブ市場の固有事情を概観する。次に今回の審判における争点を整理し、特許局の判断根拠を解説する。最後に、本件から得られた知見をもとに今後の展開について考察する。

2.強制実施権に関わる法制度

特許の強制実施権の設定に関わる法規は、インド特許法(Patents Act)に見いだされる。まず、第84条(1)項において個人または法人がどのような場合に強制実施権を申請できるかが定められている5。具体的には、当該特許の付与から3年以上経っており、以下の三つの条件のうち一つでも満たされている場合に申請が受理される(下線挿入は筆者による)。

(a)特許発明に関する公衆の適正なニーズ(reasonable requirements)が満たされていないこと。
(b)特許発明に基づく製品が公衆にとって適正に手頃な(reasonably affordable)価格で入手可能でないこと。
(c)特許発明がインド国内で実施されていないこと。

続いて第84条(4)項では、強制実施権の設定に関する特許意匠商標総局長の権限が述べられている。上記条件(a)~(c)のうち一つでも満たされていると認めた場合に、適当と思われる契約内容(ライセンス料率等)のもとで強制実施権を設定できるというものだ。ただしライセンス料率の設定に関しては、第90条(1)項でより詳しく説明されている。とくに、特許権者が発明に要した研究開発費の金額も考慮すべきであるという記述は注目に値する。

強制実施権の申請が受理された後は、実施権設定の是非を巡って特許局内部で行政審判が開かれる。特許法第84条(6)項は、審判において特許局が考慮すべき追加的ポイントとして以下の4点を挙げている。

(i)発明の性質、特許付与からの時間経過、および発明の利用に向けて特許権者とそのライセンス相手が既に採った手段。
(ii)強制実施権の申請人が公衆の利益に貢献する目的で発明を実施する能力。
(iii)同申請人が発明の実施およびそのための資金調達に関わるリスクを負担する能力。
(iv)申請人が適正な条件のもとで特許権者から自主的なライセンスを得る努力をしたか否か。また、そういった努力が特定期間中に不毛に終わったか否か。6

実務上最も重要なのは、上記条件(a)~(c)において下線で強調した部分(編集部注——本ページでは太字で強調)の解釈だろう。まず、「公衆の適正なニーズが満たされていない」状態については、第84条(7)項において箇条書きで定義されている。そのうち、本件に関係すると思われるのは以下の三つである。

(i)特許製品の需要が十分に満たされていない状態。(第84条(7)項(a)(ii))
(ii)特許発明がインド国内において商業スケールで十分に実施されていない状態。(第84条(7)項(d))
(iii)特許製品の輸入により、特許発明がインド国内において商業スケールで実施されるのが妨げられている状態(第84条(7)項(e))

第84条(7)項(a)(ii)を医薬品に当てはめて考えた場合、当該特許製品を必要とする患者(同製品が治療する疾病に罹っている患者)のうち、相当数が同製品(あるいはその代替品)を利用していなければ、公衆の適正なニーズが満たされていないと見なされる。しかし、何をもって「相当数」と見なすかは不明である。インドには薬の適正な処方に必要な医療サービスが行き届いていない地域が多く残っている。したがって、薬を利用できない患者が多く存在するからといって、需要が十分に満たされていないと言い切ることはできないのである7

第84条(7)項(d)と第84条(7)項(e)に見られる「発明の実施」に関する記述は、場違いに映る。実施の問題は、本来は条件(c)で扱われるべきだからだ。条件(a)では公衆のニーズが満たされているかという「結果」だけが問われるべきであり、発明が実施されているか否かという「手段」の問題は全て条件(c)で扱われるべきだろう。

このように不可解な面もあるが、第84条(7)項(e)の「特許製品の輸入により…実施が妨げられている」という文言は注目に値する。通常、特許製品の輸入は特許発明の実施の一形態と見なされる8。しかし、ここでは製品の輸入によって実施が妨げられる可能性が示唆されているのだ。つまり、製品を輸入しただけでは発明を実施したとは認められないかもしれない。言い換えれば、インド国内で製造が行われて初めて実施と見なされる可能性がある。9

いずれにせよ、第84条(7)項は「公衆の適正なニーズが満たされていない状態」がどのような状態であるのかについて、有用な指針を与えていない。特許法施行規則(Patent Rules)の中にも、適正なニーズの定義は見当たらない。条件(b)に登場する「公衆にとって適正に手頃な価格で入手可能でない」状態の定義も、特許法や施行規則に見いだすことはできない。また、脚注8で述べたとおりインド特許法では発明の実施が定義されていない。したがって、条件(a)~(c)の何れをとっても、解釈にあたっては特許局の裁量が大きく働くことが予想される。

3.ソラフェニブ市場

ソラフェニブは、2005年に米国食品医薬品局によって腎臓がん治療薬として承認され、2007年には肝臓がんの治療においても承認された。症状が進行し、手術や他の薬剤による治療が困難となった患者に投与される薬だ。延命効果は腎臓がんの場合は4~5年、肝臓がんの場合は6~8カ月と推定されている(ジェトロ,2012,p.5)。

世界保健機関(WHO)のGLOBOCANプロジェクト10によると、インドでは毎年約8900人が腎臓がんに罹患しており、肝臓がんには約2万人が罹患している。そのうちの何人がソラフェニブの潜在的利用者であるかについては合意が得られておらず、今回の審判でも争点の一つとなった。

ソラフェニブの開発者であるバイエルは、インドで特許を2008年に取得し、2009年には同製品をインド市場で発売した。インド国内での価格設定は患者1人1カ月分28万ルピー(約40万円)である。これは先進国とさほど変わらない水準だ11。バイエルが特許局に提出したデータによると、2010年におけるソラフェニブの輸入量は200mg錠が4万800錠であった(ジェトロ,2012,p.15)。個々の患者が1日4錠を1年間使用し続けると仮定すると、30人分にも満たない。仮に1年間のうち3カ月しか利用しないとしても、120人分である。新薬特有の不確実性によって消費が低く止まった可能性はあるが、高い価格も制約要因となったことは否めないだろう。

バイエルは低所得者を対象とした患者支援プログラムを実施しているが、最低でも1カ月分の定価(28万ルピー)を支払う必要があるため、利用者はさほど多くないと思われる(ジェトロ,2012,p.33)12

久保(2011)で紹介したとおり、2007年以降インドで特許を付与された新薬の多くが地場企業によって模倣生産されている。ソラフェニブの模倣品はシプラ社によって2010年に発売された。シプラ製品の価格は1カ月分2万8000ルピー、つまり先発品の10分の1である。そのためソラフェニブの消費は急速に伸び、2011年にはバイエル製品とシプラ製品を合わせて3908人の患者が利用したと推定される(ジェトロ,2012,p.13)。

シプラによる模倣行為を受けて,特許権者のバイエルは直ちに侵害訴訟を起こした。この時点でバイエルは審理期間中における侵害行為の差止め、すなわちシプラ製品の販売禁止を請求することができた。しかし、過去の同種事件(例えばロシュ社の抗がん剤エルロチニブに関する特許権侵害訴訟)で差止仮処分請求が却下されていること、そして同請求を行わないほうが裁判を早く済ませられるという期待から、バイエルは当面はシプラ製品の販売を許容することとした(Reddy, 2010)。ただし、本侵害訴訟がバイエルの希望通りに素早く片付くとは限らない。特許権侵害訴訟の平均期間に関するデータは手元にないが、一つの例を挙げると、ノバルティス社の白血病治療薬イマチニブの特許を巡る訴訟は2007年から今日まで続いている。

4.審判における争点

ナトコが強制実施許諾を得るにあたっては、第2節で述べた三つの条件が満たされている必要があった。したがって、行政審判ではこれらの検証が中心的な作業となった。審決文には各条件について申請人(ナトコ)と特許権者(バイエル)各々が述べた主張、そして特許局による決定が記されている。

(1)公衆の適正なニーズが満たされているか
ソラフェニブに対する公衆のニーズが満たされているか否かを検証するにあたっては、まず同製品の潜在的利用者数を特定し、次にそれを実際の供給量と比較するという手法がとられた。

(1) 潜在的利用者数
ナトコは、GLOBOCANが推計する新規症例の80パーセント、つまり約7120人の腎臓がん患者と約1万6000人の肝臓がん患者(合計2万3120人)がソラフェニブの潜在的利用者であると主張した。新規罹患者の8割をソラフェニブの潜在的利用者と見なすことの科学的根拠は示されなかった。これに対してバイエルは、がんの種類や進行期によって必要とされる治療が異なることを計算に入れ、約4004人の腎臓がん患者と約4838人の肝臓がん患者(合計8842人)がソラフェニブの潜在的利用者数であると推定した(ジェトロ,2012,pp.11-12)。

両者の推計値の間には約2倍の開きがあるが、科学的根拠に則ったバイエルの推計値のほうが明らかに高い信憑性を持つ。それにもかかわらず、特許局は審決においてナトコの主張を支持した。ここから示唆されるのは、特許局には科学的論考を判断材料として積極的に活用する意志がないということだ。

(2) 薬剤の供給量
ナトコは、バイエルが2009年までソラフェニブをインドに導入しなかったうえ、ごく少量しか輸入していないことから、公衆のニーズは満たされていないと主張した。さらに、バイエル製品が特定の医療機関でしか入手できず、普通の薬局では売られていないことも問題だと述べた。シプラ製品が2010年に発売され、以来多くの患者によって利用されていることについては、ナトコは本件では考慮すべきでないと主張している。シプラがバイエルとの侵害訴訟に負けて、急に撤退させられるかもしれないというのがその論拠だ。

バイエルは、ソラフェニブの投与に必要な専門知識を持った医師がいる医療機関には製品を十分に提供していると主張した。また、自社製品とシプラ製品の供給量を合算すると、2011年時点で潜在的利用者の約44パーセント分に達しており、現在のペースで販売が伸び続ければ、2015年には全患者の需要が満たされるだろうと述べた(ジェトロ,2012,pp.13-14)。更には、シプラと同じ市場で競争しているからこそ、自社製品の供給量が伸び悩んでいるのだと弁解した。

両者の最大の違いは、シプラ製品の供給に対する考え方だ。この点については、特許局は完全にナトコの肩を持った。需要が満たされているかを検証するにあたって、侵害訴訟の結果次第では撤退させられかねないシプラ製品は、供給量から除外して考えるべきだと断定したのである。さらに、特許局はバイエルのダブルスタンダード、すなわち侵害訴訟ではシプラを市場から排除しようとする一方で、本件においてはシプラの力を借りようとする姿勢を批判した。結論として、特許局はソラフェニブに関する公衆の適正なニーズは満たされていないと判断した。

(2)公衆にとって適正に手頃な価格で入手可能か
ソラフェニブが手頃な価格で入手可能か否かを検証するうえで、まず争点となったのはシプラ製品の扱いである。バイエルは、シプラ製品を多くの患者が利用している事実によって、ソラフェニブ価格の手頃さが立証されていると主張した。しかし特許局は、価格の問題を考える上でもシプラ製品は除外せねばならないとして、バイエルの主張を退けた。

その他に争点となったのは、「手頃さ」の基準と、価格に研究開発費を反映させるべきか否かという問題である。

(1) 手頃さの基準
先述したとおり、インド特許法には「手頃な価格」の指針がない。そこで、ナトコは学術論文に示された手法を用いて、ソラフェニブの価格の高さを強調するという戦略を採った。たとえばMendisetal(2007)は、1カ月分の医薬品の費用が公務員の最低給与水準の何倍であるかを示すことで、その薬の手頃さを測れると提案している。これを踏まえ、ナトコはバイエル製品1カ月分の費用がインドの公務員の最低給与の約3年半分であることを示し、同製品の価格は高すぎると主張した。

一方でバイエルは、薬の価格だけを入手可能性の判断基準とすることに対して異議を唱えた。同社によると、インドでは誰でも医療保険に加入することができる。よって、ソラフェニブを医療保険の対象とした場合に患者が負担しなければならない金額、すなわち保険料の差額こそが、議論の中心になるべきだと指摘している。

しかし、実際にはインド国民の大部分が十分な医療保険を持っていない。貧困層向けに、国家健康保険計画(Rashtriya Swasthya Bima Yojana)と呼ばれる制度が2008年から実施されているが、支払われる保険金には1世帯1年間3万ルピーという上限がある。この上限額をソラフェニブの1カ月分(28万ルピー)に引き上げるだけでも、保険料の大幅な増額が必要となり、国民の強い抵抗に合うことが予想される13。したがって、医療保険によってソラフェニブ(および他の高価な新薬)の費用をまかなうのは現実的でない。とはいえ、今後医療保険の普及が進めば、議論の中心が価格から保険料へと移っていく可能性はある。
このように価格の手頃さの問題に関しては、両陣営から興味深い提案がなされた。それに比べて、特許局の決定は拍子抜けするものであった。バイエル製品の利用量が極めて少ないことを指摘し、その事実のみから同製品の価格が高すぎることが類推できると結論付けたのだ。バイエル製品が売れていない背景には、適正な処方をできる医師の不足やシプラ製品の存在など、価格以外の要因もある。こういった非価格要因の効果を把握しなければ、適正な価格水準(十分な利用量を実現するための価格水準)に関する議論はできないはずである。

(2) 価格は研究開発費を反映すべきか
バイエルは、薬の価格の適正さを判断するうえでは、消費者にとっての手頃さだけでなく、開発者が投じた研究開発資金の回収可能性も考慮すべきだと論じた。また、特許法第90条(1)項の下で強制実施許諾のライセンス料率を定める際にも、特許権者が投じた研究開発費を考慮することが義務づけられている点に注意を喚起した。強制実施許諾の下で販売される製品(ここでは強制実施製品と呼ぶ)の価格は、当然のことながら特許権者に支払われるライセンス料を上回る。同時に、強制実施製品の価格は公衆にとって手頃でなければならない。したがって適正に手頃な価格には、特許権者の研究開発費も反映されてしかるべきだとバイエル陣営は主張した。

これに対しナトコは、ソラフェニブが米国でオーファンドラッグ認定を受けており、その結果としてバイエルが同国政府の補助金を享受していることを明らかにした。補助金を受けている以上は、研究開発投資を薬の価格に反映する必要はないというのがナトコの主張であった。
特許局は審決において、バイエルの研究開発費が製品価格に反映される必要はないと述べた。薬の価格が適正に手頃か否かを判定するにあたっては、患者にとっての手頃さだけを考慮すれば良いと判断したのである(ジェトロ,2012,p.)。これを受けて、特許局はソラフェニブが適正に手頃な価格で入手可能ではないと結論付けた。

(3)インド国内で実施されているか
第2節で述べたとおり、インド特許法は実施という概念を定義していない。特に、特許製品をインドに輸入する行為が当該特許の実施に当たるかについては、明確なコンセンサスが得られていない。したがって、審判ではバイエルによるソラフェニブの輸入を実施と見なすべきか否かが争点となった。
ナトコは、特許法第83条(b)項に「特許付与の目的は特許権者による独占的輸入を可能にすることではない」(脚注9を参照)と書かれていることを指して、バイエルによる輸入行為は実施には該当しないと主張した。また、第83条(a)項に「特許付与の目的は…発明がインド国内において商業スケールで、かつ遅滞なく、最大限に(to the fullest extent that is reasonably practicable)実施されることを保障することである」と記されていることを受けて、特許が最大限に実施されなければ実施要件は満たされないとの持論を展開した。その上で、バイエルによる輸入は最大限の実施ではないと主張したのである。

バイエルは、製品の輸入は実施の一形態として認められるべきだとの立場を強調した。インドは、TRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)とパリ条約の加盟国である。TRIPS協定第27条1項によると、国が特許を付与し、特許権の恩恵を発明者に与えるにあたっては、製品が輸入されたものであるか国内生産されたものであるかについて差別することはできない。また、パリ条約第5条A項(1)は、製品を輸入することによって特許の効力が失われることはないと定めている。したがってインド政府が、バイエルがソラフェニブを現地生産していないことを不実施と見なし、それを理由に強制実施権を設定すれば、TRIPS協定・パリ条約の違反に繋がるというのがバイエルの言い分だ。

特許局は、この問題についてもナトコを支持し、バイエルによるソラフェニブの輸入は実施と見なすことができないと結論付けた。製品が現地生産されていないことを理由に強制実施権を設定することは、特許を無効化することとは異なるため、パリ条約第5条A項(1)には違反しない。また、強制実施権の設定は特許権者による権利の享受を妨害するものではなく、TRIPS協定第27条1項にも違反しないという考え方である。

以上のように、第84条(1)項が定める三つの条件が全て満たされていると認定したうえで、特許局はソラフェニブ特許に関する強制実施権を設定した。ナトコに対しては、同製品を1カ月分8800ルピーという価格で供給するよう命じた14。バイエルとナトコの間ではライセンス契約が結ばれ、ソラフェニブ特許が失効するまでの間、ナトコは売上高の6パーセントをロイヤリティとして支払うこととなった15

5.むすび

バイエルは特許局の審決を不服とし、5月に知的財産控訴委員会(Intellectual Property Appellate Board)に上告した。一方、政府による初の強制実施権設定というニュースは、インドの医薬品市場で様々な動きを引き起こしている。まず3月には、ノバルティスが二つの新薬(いずれも抗がん剤)について地場メーカーとライセンス契約を結び、インド国内市場で安く販売させると発表した(Reuters, 2012)。5月には、シプラがソラフェニブの価格を1カ月分6840ルピーまで切り下げ、他の二つの抗がん剤(ゲフィチニブとテモゾロミド)の価格も大幅に引き下げると発表した(Rajagopal, 2012)。少なくともソラフェニブについては、ナトコへの強制実施許諾が引き金となったのは明らかである。

新薬の低価格販売を模索する研究開発型メーカーは、ノバルティスだけではない。特にグラクソ・スミスクラインは、途上国で新薬を比較的安く提供する方針を表明しており、インドでは先進国価格の25~40パーセントの水準で新薬を販売している(Business Line, 2011)。メルクもまた、糖尿病治療薬シタグリプチンをはじめとする新薬を、先進国よりも低い価格でインド市場に供給している。

このように国によって異なる価格を付ける慣行を、段階的価格設定(tiered pricing)あるいは差別的価格設定(differential pricing)と呼ぶが、その目的の一つは途上国政府によって強制実施権が設定されるリスクを軽減することだと考えられる16。しかし、こういった価格戦略はインドで強制実施を免れるのに十分だろうか。より根本的には、どうすれば新薬メーカーは強制実施権の設定を防げるのだろうか。

あいにく今回の審決文からは、この問いに対する答えを導出することはできない。しかしソラフェニブ特許に関する上告審、そして今後起こる同様の審判において何が争点となるかについては、ある程度の目星を付けることができる。

第一の争点は、侵害被疑製品(ソラフェニブの場合はシプラ製品)をどう位置づけるかであろう。侵害被疑製品の販売が許されているうちは、それが当該医薬品の価格低下・供給増加に貢献していることは間違いない。一方、特許権者によって侵害訴訟が起こされている以上は、侵害被疑製品がある日突然市場から消えてしまう可能性はある。特許局は後者の可能性だけを懸念し、侵害被疑製品の貢献を完全に無視したわけだが、この考え方が正しいとは限らない。たとえば、侵害被疑製品が市場から撤退させられた場合に限って効力を持つ強制実施権を設定することも可能だろう17。インドでは特許侵害訴訟が長引き易いことを考えると、この案は魅力的である。
第二の争点は、製品輸入を実施と見なすか否かである。輸入を実施と見なす必要はないというインド政府の立場は、TRIPS協定第27条1項に違反する可能性がある。特許に対して強制実施権を設定することは、特許権者による権利の享受の妨害と見なされてもおかしくないからだ。

最大の争点は、どのような価格設定であれば強制実施を免れるか、すなわち「適正に手頃な価格」とは一体どのような水準なのかという点である。あいにくこの問題については決着点が見当たらない。多くの地域で医療サービスが未整備であり、健康保険が充実していないインドでは、メーカーがどれほど価格を下げても、必要な薬を入手できない患者が数多く存在し続けるからだ。
 

参考文献

<日本語>

<英語>

  • Business Line (2011) “GlaxoSmithKline Launches Two Cancer Drugs at Reduced Prices” July 22.
  • Controller General of Patents, Designs, and Trademarks (2012) Order Granting Compulsory License in the Matter of Natco vs. Bayer. http://ipindia.nic.in/ipoNew/compulsory_License_12032012.pdf
  • Mendis, Shanthi, et al. (2007) “The Availability and Affordability of Selected Essential Medicines for Chronic Diseases in Six Low- and Middle-Income Countries” Bulletin of the World Health Organization, 85(4), pp.279-288.
  • Office of the United States Trade Representative (2012) 2012 Special 301 Report.
  • Rajagopal, Divya (2012) “Cipla Shocks Rivals by Slashing Cancer Drug Prices up to 75%” May 4.
  • Reddy, Prashant (2010) “Update on Bayer-Cipla Patent Infringement Suit: Nexavar Patent Infringement Suit Before the Delhi High Court Goes Directly to Trial” SpicyIP, http://spicyipindia.blogspot.in/2010/09/update-on-bayer-cipla-patent.html
  • Reuters (2012) “Roche to Cheaper Cancer Drugs in India” March 23.
  • Schweitzer, Stuart O. (2007) Pharmaceutical Economics and Policy, 2nd edition, Oxford University Press.
  • Sen, Amiti (2012) “US Protests Patent Issuance to Natco to Sell Copied Versions of Nexavar” Economic Times, March 27.
  • United Nations Development Programme (2001) Human Development Report 2001: Making New Technologies Work for Human Development, Oxford University Press.



  1. 医薬品の製法発明に対する特許は、2004年以前においても付与されていた。
  2. 本件に関わる命令文は特許局のウェブサイトから入手できる(Controller General of Patents, Designs, and Trademarks, 2012)。また、日本語への仮訳がジェトロによって作成されている(ジェトロ,2012)。
  3. 強制実施権の請求要件の一つに、自主的ライセンスの取得に向けた交渉とその決裂がある。つまり強制ライセンスを希望する者は、特許権者が自主的にライセンスを供与する意志があるか否かを事前に確かめなければならない。
  4. 既にラルテグラビルとマラビロクという二つのエイズ治療用新薬について、先発品メーカー(それぞれメルクとファイザー)とインド企業のあいだでライセンス交渉が始まっている。交渉が決裂すれば、インド企業側は強制実施権の獲得に向けて動き出すと予想される(久保,2011)。
  5. インド特許法の邦訳は日本の特許庁のウェブサイトから入手できる。(http://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/fips/pdf/india/tokkyo.pdf
  6. 2005年改正特許法によると、ここでいう「特定期間」は「6カ月を超えない期間」と解釈される。
  7. 医薬品に対する需要は、患者のニーズのみによって規定されるわけではない。患者のニーズに、処方を行う医師、費用を負担する保険者、調剤を行う薬剤師らの意志決定が組み合わさって需要が生み出されるのである(Schweitzer, 2007, chapter 5)。
  8. インド特許法は「インド国内における発明の実施」を定義していない(ジェトロ,2012, p.25)。その結果、インド国内法において輸入が実施と見なされるかについては意見が分かれたままである。日本を含む主要国の特許法の下では、特許製品を輸入すれば特許発明を実施したことになる。
  9. 特許法第83条では、特許は「単に特許権者による特許製品の独占的な輸入を可能にするために付与されるわけではない」と述べられている。この条文からも、特許製品のインド国内生産を求める政府の意図が伝わってくる。
  10. GLOBOCAN(http://globocan.iarc.fr/)は、世界184カ国における各種がんの罹患率等のデータをまとめている。
  11. ソラフェニブが日本で2008年に承認された際の薬価は、1カ月分で約65万円だった(日経メディカルオンライン 2008)。自己負担率を3割とすると、患者にとっての費用は1カ月約22万円となる。
  12. ジェトロ (2012, p.13)では、2011年のソラフェニブの消費量は5279箱と述べられているが、1箱に何錠が含まれるかは記されていない。仮に1箱120錠(患者1人1カ月分)だとすると全部で63万3480錠、つまり2010年の輸入量の15.5倍となる。
  13. 国家健康保険計画の下での保険料は州によって異なるが、平均で1世帯あたり年間500ルピー程度である。これを単純に10倍(5000ルピー)に引き上げると、貧困線上の月間所得(5人家族で3363ルピー)の約1.5倍となってしまう。
  14. この価格はナトコが強制実施権の申請時に提案したものである。
  15. ライセンス料率の設定にあたっては、特許局はUnited Nations Development Programme (2001)の提言に従った。4パーセントのベース率に、治療効果が特に高い薬に与えられる2パーセントのボーナス率を加算したのである。バイエルは売上高の15パーセントを提案したが、却下された。
  16. 段階的(あるいは差別的)価格設定には他の目的もある。新薬メーカーには、人道的な観点から途上国患者の医薬品アクセスを高めたいという意図もあるだろう。また、国によって利益が最大化される価格水準が異なることも事実だ。
  17. 今回強制実施が認められたことを受けて、今後地場メーカーによる無断模倣行為が増える可能性はある。特許製品を既に模倣している企業のほうが、強制実施権を取得し易いと思われるからだ。そういった機会主義的な行動を無用に助長しないためにも、インド政府はあからさまな侵害行為は侵害訴訟の審理中であっても排除できる制度を構築すべきだろう。


本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。