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医薬品価格規制をめぐる政策議論

海外研究員レポート

インド

久保 研介
2011年10月発行
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1.はじめに
インドでは、 国民の多くが低所得層に属し、医療保険に加入していない。そのため、病気やケガの結果発生する医療費支出、そして収入の喪失は、人々の生活に大きな打撃を与え得る。World Health Organization (2008)によると、全世界で毎年約1億人が、健康問題に伴う支出増・所得減が原因で貧困に陥っているが、彼らの多くはインドに居住していると考えられる。インド政府は、公立医療機関における無料診療や、貧困層を対象とした医療保険の創設などで、このようなリスクを減らそうとしている。しかし、医療保険の加入者は全人口の約25パーセントとまだ低い(*1)。また、公立医療機関は設備やサービスの質が極めて低く、人々に敬遠されている。そのなかで、医薬品価格を低く抑えることで、国民の医療アクセスを高めることについては、政府は一定の成功を収めてきたと言える。

インドは、世界で最も薬が安く手に入る国のひとつだが、その理由の一つは、政府の価格規制である。インドでは1979年以来、医薬品価格管理令(Drugs Price Control Order: DPCO)のもと、個々の薬について上限価格が定められている、当初は、国内で利用される薬の約90パーセントが価格規制下にあったが、その後徐々に範囲が狭められ、今では市場の約30パーセントだけがカバーされている(Chaudhuri, 2005)。最近インドに導入されたばかりの新薬は、すべてDPCOの対象外である。

インドで医薬品価格の抑制により大きく貢献してきたのは、活発な企業間競争だろう。2005年に特許制度が改正されるまで、インドでは新薬の特許保護が認められなかった。そのため、個々の製品市場で複数のメーカーが競争する状況が続いてきた。政府は、市場競争メカニズムを活用することで、間接的に価格を抑えてきたのである。

ただ、企業間競争の価格抑制効果を疑問視する声もある。とくに問題視されているのは、DPCO対象外の市場で、高価な銘柄と安価な銘柄のあいだに極めて大きな価格差があることだ。後述するように、この価格差は主に「市場の失敗」によると考えられている。この考え方に基づき、多くの政府関係者は、銘柄間価格差をなくす目的でDPCOの対象範囲を拡大すべきだと主張している。

2005年に施行された新特許法のもとでは、新薬は特許保護の対象となる。したがって、以前のように複数のメーカーが模倣品(ジェネリック医薬品)を自由に製造販売することはできない。企業間競争は減ることとなり、政府の介入がなければ、薬の価格は上昇すると予想される。

そこで最近注目を集めているのが、政府による新薬特許の「強制実施」である。強制実施とは、政府が或る特許の利用権を、特許権者の意向にかかわらず、第三者に与えることを指す。新薬特許の利用権が、インドの地場メーカーに付与されれば、従来のように企業間競争が生み出され、医薬品価格は低く抑えられるという考えだ(*2)。しかし、インド政府が強制実施権を発動すれば、新薬メーカーだけでなく、それらの企業を擁する先進国の政府も激しく反発するだろう。また、上述したように、企業間競争が期待通りの価格抑制効果を生むとは限らない。そのため、政府内では新薬メーカーの特許権を尊重する代わりに、その価格を直接的に規制しようという案が検討され始めている。

このように、インドでは医薬品価格に対する直接規制の強化に向けた動きが強まっている。しかし、現行のDPCOは既に多くの課題を抱えており、同制度を拡大しても、価格はうまくコントロールできないだろう。そこで、より効果的な価格規制体系の導入が求められている。本稿では、これらの議論を整理するために、まずDPCOのもとでの規制体系を簡単に説明し、その問題点を明らかにする。次に、DPCO対象外の市場における価格形成について考察する。最後に、特許制度改正後の価格規制のあり方について、展望を述べる。


2.医薬品価格管理令(DPCO)の問題点
DPCOは、一言でいうと製造コストに基づいて上限価格を設定する制度である。まず、中間製品である原薬(薬効成分)の上限価格が、メーカーの製造費に基づいて設定される。そのうえで、同原薬を含有する最終製剤(錠剤、カプセル剤、注射剤、塗り薬など)の上限価格が、全銘柄一律で定められる。

規制価格を算定するうえで最も重要かつ計測困難な項目は、原薬の製造費である。規制当局の国家医薬品価格局(National Pharmaceutical Pricing Authority: NPPA)は、主要メーカーに対し、原材料の単価や投入量に関するデータの提出や、プラント査察の受け入れを求め、得られた情報に基づいて各社の製造費を推定する。そして、製造費の平均値に基づいて原薬の規制価格を設定する(*3)。ここで重要なポイントを二点挙げておきたい。一つは、原薬製造費の把握には多大な労力と時間がかかるということだ。二つ目は、DPCOの対象となる原薬は、たいてい複数のメーカーによって製造されているという点である。したがってどのような原材料が、どれくらいの費用で使われるのかについて、NPPAは比較的正確な情報を得ることができる。

最終製剤の規制価格は、単純な計算式によって求められる。原材料コストに、加工費、梱包材料費、マージンなどを加えるだけである。原薬以外の原材料は、汎用化学品からなる添加剤などが中心で、簡単に単価情報を入手できる。最終製剤の製造工程は比較的単純なので、加工費についても目安となる値が存在する。なお、マージンは製造費の100パーセントとして規定されている(上池、2007)。

冒頭で述べたように、1979年にDPCOが施行された当時は、殆どの薬について上限価格が設定されていた。しかし、400品目近くの原薬について製造費を算定し、数千品目にも上る最終製剤について市販価格を監視することは、インド政府の行政能力を超えていた(Chaudhuri, 2005)。そのため、1987年と1995年の二回にわたって、DPCOの対象となる薬効成分は減らされている(*4)。現在では74成分とその最終製剤だけが規制されているが、それでもモニタリングは不十分で、違反行為は後を絶たない(Business Standard, 2011)。

DPCOの対象範囲が縮むにつれ、新たな問題も発生している。メーカーがDPCO対象薬を嫌い、それ以外の薬に製品開発投資と営業努力を注いでいるのだ(Chaudhuri, 2005)。そのため、ある患者にとってDPCO対象下のAという薬が最適であっても、医師によってDPCO対象外のBという薬が処方されるといったことが起きている。また、医師がAを処方しても、薬局がそれを在庫していないということもある。価格規制の存在が、かえって患者の医薬品アクセスを悪化させてしまっている可能性がある。


3.DPCO対象外市場における価格形成
特許保護がない薬は、政府の価格規制がなくても、企業間競争によって価格がある程度抑えられる。メーカーが他社よりも高い価格を設定すると、ユーザーが逃げてしまうからである。しかし、実際には同じ薬(同一成分を同じ量だけ含有し、同じ剤形を持つもの)が異なる価格で売られているのが一般的である。Chaudhuri (2005)やMonthly Index of Medical Specialities (2011)によると、インドでは最も高い銘柄が、最も安い銘柄の数倍の価格で売られることも珍しくない。激しい競争で知られるインド医薬品市場で、なぜこのような価格差が存在し得るのだろうか。

まず挙げられるのは、「同じ薬」と言われているものが、真に同等と見なされていないことである。インドの医療現場では、特許が存在しない薬であっても、一般名(ジェネリック名)でなく、ブランド名で処方されるのが一般的だ。筆者も何度かインドで医者にかかったが、一般名処方には殆ど遭遇したことがない。たいていの患者は、医師の処方通りの薬を利用したがり、同じ薬の異なる銘柄は「異なる薬」と見なしてしまう。

医師によるブランド名処方は、銘柄間の小売段階での競争を弱めてしまう一方で、消費者が高品質な薬を使うのを手助けすることもある。インドでは、医薬品メーカーによる品質管理が徹底しておらず、政府による品質規制は十分に機能していない(Chaudhuri, 2005)。そのため、多くの医師は、評判の良いメーカーの銘柄を処方することで、患者がまともな薬を使うのを後押ししているのだ。ただし、この慣行が必要以上の製品差別化を招いていることは否めない。ある程度代替可能な銘柄が、別々の薬と見なされてしまっているからだ。その結果、品質のばらつきでは説明しきれないほど大きな価格差が、銘柄間に存在しているのだ。

全ての医師が善意で処方活動を行っていても、このように価格体系に歪みが生じ得る。一部の医師の処方が私利によって歪められているとすれば、問題は更に深刻化する。医薬品業界では、医師に対して製薬メーカーが過剰なプロモーション活動や接待を行う傾向があるが、インドも例外ではない。そのため、医師の銘柄選定が、製品品質や価格とは全く関係ない要因によって影響されている可能性がある(*5)。

もちろん、価格に対して特に敏感な消費者が、処方されたものとは違う銘柄を薬剤師に調剤してもらうことは可能だ(*6)。薬局には、一般名で流通する安価なジェネリック薬が置いてあることも多く、これらはまさに代替調剤用とも言える(*7)。ただし、一般名ジェネリックは低品質であることが多い。また、薬局が一般名ジェネリックのメーカーを選定する際は、自らが獲得するマージンを重視する傾向があるので、その利用には品質リスクが伴う。

DPCO対象外の市場では、このように様々な「市場の失敗」が重なった結果として、銘柄間に大きな価格差が存在する。これをうけて、インド政府は医師による一般名処方の義務化(ブランド名による処方の禁止)を検討し始めている(Singh, 2011)。また、より多くの薬を価格規制下に置くことも提案されている。たとえば、インド政府の必須医薬品リストに含まれる348製品(成分、投与経路、含有量によって定義される)を、全てDPCOの対象範囲に含める案などが報道されている(Mathew, 2010)(*8)。しかし、これらの政策がもたらす副作用に関しては、議論が進んでいない。先述したように、ブランド名処方には、低品質品の利用を排除するという目的がある。これを禁止してしまうと、医師は患者を粗悪な薬から守り難くなるだろう(*9)。また、全ての銘柄に対して同じ上限価格を課すと、品質向上に向けた企業のインセンティブを殺いでしまいかねない(Cabrales, 2003)。


4.今後の価格政策に向けた展望
現在、二つの要因がインドにおける医薬品価格の規制強化を後押ししている。一つは、新薬特許の導入による企業間競争の減退である。二つ目は、市場の失敗によって、健全な企業間競争が損なわれているという認識だ。同時に、既存の価格規制制度であるDPCOには、多くの問題があることが明らかになっている。したがって、インド政府が価格規制を強化するならば、制度を改正する必要があろう。

まず必要なのは、規制価格の算定方法の変更である。インド政府の行政能力を考えると、現行のコストプラス方式を数百品目について実施するのは不可能だ。特許がない薬については、競争的な原薬市場が存在する場合が多いので、原薬の市場価格をベースにした積算方法が実施可能だろう(Chaudhuri, 2005)。

特許薬の場合は、原薬が市場で取引されているわけではないので、価格情報は存在しないのが一般的である。また、新薬メーカーが、原薬製造費に関する正確な情報を規制当局に提出するとは考え難い。それよりも、諸外国の価格水準を考慮した価格算定法の導入が現実的だろう。日本を含む先進国は、古くから国際比較に基づく価格算定を使っており、最近ではブラジルや南アフリカなどの途上国も採用し始めている(Espin et al., 2011)。その際、どの国の価格を参考にするかが問題だが、事前に決めた数カ国のなかから最も低い価格を見つけ、それを採用するという案が有力である(*10)。しかし、このような仕組みで決まる価格は、インドの現行価格水準を大きく下回ると予想され、国民に受け入れられそうにない。そこで、国際比較から得られた価格を、購買力平価(Purchasing Price Parity:PPP)の調整係数で除するという案も浮上している(*11)。

全銘柄共通の上限価格を設定することで、メーカーの品質向上インセンティブが殺がれてしまうという懸念はある。ただし、医師によるブランド名処方を認め続けることによって、高品質メーカーが高い市場シェアを確保できるような環境を維持することはできる。製薬業界全体で品質管理が徹底されるまでは、医師に対して一般名処方を義務化するのは得策ではないだろう。

最後に、デリーや南インドのタミルナードゥ州などで実施されている地方政府の医薬品調達プログラムに触れておきたい。政府系医療機関で利用する薬を、バルク調達する制度だが、そこで決まる価格は市価の数分の一と極めて低い。このようなプログラムを全国各地で運用し、民間医療機関で使われる薬にまで拡げようという動きがあるが、各州政府の行政能力を考えると非現実的だ。実際、ウッタルプラデーシュ州などでは、医薬品の政府調達にかかわる汚職事件が頻繁に報道されているのだ。したがって、当面は価格だけを規制する制度が採用されるだろう。



参考文献
  • Business Standard (2011) “NPPA Issued Notice Worth Rs. 2,328.5 Crore for Drug Overpricing.” Feb.25.
  • Cabrales, Antonio (2003) “Pharmaceutical Generics, Vertical Product Differentiation, and Public Policy.” Working Paper, Universitat Pompeu Fabra.
  • Chaudhuri, Sudip (2005) The WTO and India’s Pharmaceuticals Industry: Patent Protection, TRIPS, and Developing Countries. New Delhi:Oxford University Press.
  • Espin, Jaime, Joan Rovira, and Antonio Olry de Labry (2011) “External Reference Pricing.” WHO/HAI Project on Medicine Prices and Availability.
  • 上池あつ子(2007)「インド医薬品産業が抱える課題」(久保研介編『日本のジェネリック医薬品市場とインド・中国の製薬産業』アジア経済研究所)。
  • Mathew, Joe C. (2010) “All Essential Drugs May Come Under Price Control.” Business Standard 15.
  • Monthly Index of Medical Specialities (2011) “Drug Prices: Wide Apart.” Monthly Index of Medical Specialities, vol.31, No.6, p.19.
  • Prasad, Gireesh Chandra (2007) “Healthy News! Medicines May Get Cheaper.” Economic Times, Dec.5.
  • Public Health Foundation of India (2011) A Critical Assessment of the Existing Health Insurance Models in India.
  • Singh, Khomba (2011) “Prescribing Generic Drugs May Become Must.” Economic Times, May 23.
  • World Health Organization (2008) World Health Report 2008 – Primary Health Care: Now More Than Ever. Geneva.
     


参 考 
  1. Public Health Foundation of India (2011)による。加入者数の26パーセント(約8000万人)を占める国家健康保険計画(Rashtriya Swasthya Bima Yojana)は、貧困層を対象に新設された制度だが、対象とする疾病や支払われる保険金が限定されている。
  2. 強制実施を巡るインド国内の動きについては、筆者による2011年6月の現地情勢報告を参照のこと。
  3. NPPAウェブサイトによる。(http://nppaindia.nic.in/procedure-bd.htmdoc
  4. DPCOの対象範囲縮小の背景には、地場製薬産業の育成という目的もあったと考えられる(Chaudhuri, 2005)。
  5. 筆者は、インドの医療現場における「処方の歪み」を個人的に経験している。首を寝違えて病院に行ったところ、胃潰瘍薬を処方されたのである。
  6. インドの法律では、薬剤師は原則として処方された銘柄を調剤しなければならない。しかし、実際には代替調剤は頻繁に行われている。医師が不足している地域では、処方箋に基づかない調剤や、薬剤師の資格を持たない者による調剤も許容されている。
  7. 特許がない薬を、先発メーカー以外の企業が独自のブランド名で製造販売しているものは、ブランデッドジェネリック(branded generic)と呼ばれる。これに対し、一般名で売られている薬は純粋なジェネリック(pure generic)と見なされる。
  8. 一般名ジェネリック製品に関しては、薬局のマージン率に対する規制が最近導入された模様だが、その施行状況は不明である(Prasad, 2007)。
  9. 日本では、最近になってジェネリック医薬品の銘柄名に対する規制(一般名による命名の義務化)が導入された。インドとは違い、全ての薬が一定以上の品質水準を保っていると思われるため、同政策に対する批判は少ない。
  10. ブラジル政府が参照しているのは、米国、カナダ、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、ニュージーランド、オーストラリアの9カ国である(Espin et al., 2011)。インドの場合は、ブラジルや南アフリカの価格も参照できるだろう。
  11. 医薬品価格問題の専門家、Chandra M. Gulhati氏(Monthly Index of Medical Specialities編集長)へのヒアリングによる。インドのPPP調整係数値は、現在約2.5である。