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イエメンはどこに行く

海外研究員レポート

英国

2011年6月発行
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1.アラブの春
2011年1月に、チュニジアのベン・アリ大統領が民衆の抗議デモを受ける形で国外脱出し、23年間の独裁政権が崩壊したことは、これまでの中東・アラブの政治常識を覆したという意味でまさに「革命」というにふさわしい出来事でした。一部の人々はこれを「ジャスミン革命」と呼んでいるようですが、その後これがエジプトにも波及して2月にムバラク大統領が30年にわたる政権を手放さざるを得なくなりました。これまた、大方の中東専門家が予想さえしなかったという意味で革命的な出来事です。

こうした展開を見た他のアラブ諸国の人々は一種の興奮状態に陥り、各国に民主化要求の市民デモが飛び火します。この一連の動きを「アラブの春」と呼ぶ人もいます。おそらく1968年にチェコで起こり、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された改革運動「プラハの春」を念頭に置いたネーミングでしょう。

しかし、「アラブの春」の展開はそれぞれの国ごとに大きく異なっており、単純にチュニジア→エジプト→次の国というようなドミノが自動的に起こるわけではありません。リビアの状況はカダフィ氏が強固に抵抗することで泥沼化し欧米諸国が軍事介入するというとんでもない事態に発展していますし、シリアもアサド・ジュニアが弾圧志向を強めて「政府対人民」という悲惨な状態になりつつあります。バハレーンの争乱は、パトロンであるサウジが軍事介入して押さえ込んでしまいました。

では、イエメンはどうなるのでしょう。事態は流動的ですが、「イエメンはどこに行こうとしているのか」についての、私の考えを述べてみたいと思います。


2.大きな流れ
まず、今回のイエメンでの一連の出来事を、単にアラブの春の連鎖反応だと考えるのは正しくありません。イエメンにはイエメンに固有な政治の流れがあるからです。

私は5年くらい前から「サレハ政権の行き詰まり」を指摘してきました。サレハ政権は、様々な利害を持つ諸勢力をとにかくまとめて、国としてのまとまりを維持することにはきわめて長けています。1990年にベルリンの壁が崩壊した時に、無血で南北イエメンの統一を達成したのはその一つの成果です。もちろん、いろいろな人に妥協を積み重ねさせることの無理が1994年の南北内戦につながったのですが、それも武力で制圧し、旧南イエメンの保守的勢力であるハーディー氏を副大統領に据えて、統一国家を維持してきました。

しかし、サレハ政権の最大の弱点は、「政策を打ち出せない」ことです。特に経済政策、開発政策には全く方向性を打ち出せないままにこれまで33年間を費やしてきました。1978年にガシュミ前大統領が爆死して政権を継いで以来、旧南イエメンとの紛争で1980年代前半は推移し、1980年代後半は石油が発見されたのでこの金の使い道だけ考えればよく、1990年のイラク危機の時には湾岸諸国に見放されても欧米からの援助でしのぎ、1994年の内戦を乗り越えるまでは、それでも良かったのです。

しかし、1994年以降は「開発政策」が必要だったのです。それが打ち出せなかったのは、「妥協の名人」サレハ政権の宿命です。長期的な視点に立って物事のプライオリティー付けをし、政策目標を掲げて様々なステイクホルダーの利害を一致させる、ということはサレハ政権には望めません。

それでも、石油収入がありアメリカが軍事援助を続けている限りは延命できたし、2000年代前半まではそれなりの建設ブームもあったので、人々は我慢してきました。しかし、この五年ほどはサナアの表面的な活況をよそに、地方部の衰退は進み、特に旧南イエメンはアデンも含めてほとんど「無視」されてきたのです。これでは国は進みません。

サレハ大統領自身も、自分の限界は知っていると思います。サナアに壮大な「アリー・アブダッラー・サレハ」モスクを建立したのを機に本当は引退すべきだったのです。国民もそれなら「名誉ある引退」を拍手で迎えたでしょう。しかし、それは出来なかった。なぜなら後継者がいないからです。これが「手詰まり」。

サレハ自身も、国民もどうやってこの手詰まりから抜け出せるのか、見通しがなかったのです。私自身も見通しが見えませんでした。ところが、「アラブの春」です。これなら、暗殺されずに引退できるのです。サレハ大統領はこのシナリオに、基本的に乗るつもりがあるはずです。それが唯一の「出口」だということを、彼自身もわかっているから。

つまり、現在起こっていることは、手詰まり状態にあったイエメンにとっては「最も望ましいシナリオ」なのです。これが大きな流れです。問題は、「退陣の仕方」と「次は誰か」です。

退陣の仕方として、6月3日にあったような「大統領府攻撃」などによる「暗殺」は最悪です。なぜなら、サレハ政権に依存している利害関係者がそれを理由に次の政権に対する徹底抗戦をする根拠を与えてしまうからです。あくまでもサレハ自身の意志による「退陣」でなければなりません。その意味で、サレハがサウジで治療を受けた後、いったん帰国したいと考えているのは理にかなっているのです。

繰り返しますが、イエメン史の大きな流れの中で今回の争乱は、これまでのシナリオにはなかった方法であれ、暗殺でない政権交代に向かっているという意味でイエメンにとっては最も望ましいシナリオで進行しており、従って外部者が過度に騒ぎ立てる必要はないということを指摘しておきたいと思います。


3.次は誰か
そして、「次は誰か」です。これには全くめどがありません。まず第一に、誰もサレハ大統領がこれまでやってきたことを真似できません。皆それがわかっているので、誰もこの仕事をやりたくないのです。これが、サレハ政権が33年間続いてきた最大の理由です。

軍を骨抜きにしておくこと、北部部族と一定の関係を維持すること、中部イエメンのテクノクラートを掌握すること、旧南イエメンの不満分子を間接的に抑えること、東部ハドラマウトの人々をつなぎ止めておくこと、そして流れ込んできたアルカーイダ系の人々が国内で悪事をはたらかないようになだめておくこと。さらにサウジとはけんかしない程度に関係を維持し、必要なときにはお金をもらうこと。

これらをサレハはそれぞれの仲介的な役割を担う人を使いながらやってきたのです。サレハ自身の言葉によれば、イエメンを統治することは「蛇の頭の上でダンスを踊ることに等しい」のです。(Victoria Clark "Yemen: Dancing on the heads of snakes" Yale Univ.Press, 2010)。ですから、仮にサレハが退陣しても誰も蛇の頭の上でダンスを踊る役割はしたいと思っていないのです。

サレハは、シリアのハフェズ・アサド前大統領が息子に大統領職を禅譲することに成功したことを見て、またムバラクも息子に大統領職を譲ろうとしているのを見て、自分も息子アハマドに継がせようと思っていたかもしれません。しかし、仮にそれが出来たとしても、アハマドが成功する確率は限りなく低かったでしょう。アハマドは父親が持っている「ネットワーク」を持っていないからです。今回の一連の経緯でこの可能性が排除されることは、イエメンにとっては幸いです。絶対失敗するシナリオを取らずに済むからです。

ハーディー副大統領が、暫定政権を組織したとしても、同じことです。彼は旧南イエメンの代表であることから、北部部族との交渉はまず出来ません。サウジとの交渉も出来ません。1981年にサダト大統領が暗殺されたときに、ムバラク副大統領が大統領になりました。このときは、ムバラクは無名で指導力が不安視されましたが、軍を掌握していたことでそれ以後30年間の政権を維持できたのです。

ところが、イエメンでは軍を掌握している人はいません。今回の争乱の中で3月に腹心と言われていた第一師団司令官(アリ・モフセン・アルアハマル)がデモ支持を表明しましたが。まだ軍は一応大統領の指揮下にあります。各部隊の司令官だけはサレハと個人的につながっているからです。

もしも、政府が組織的に動いているなら、トップが変わっても組織は継続的に活動できますが、そうでない場合(イエメンの軍がそうですが)は、トップが変わったら大混乱になるだけです。

北部部族については、5月後半からサレハ自身の出身部族であるハーシェド部族連合の連合部族長サーディク・アルアハマルが公然と反旗を翻し、あっという間に一部の政府機関を占拠しました。この程度の軍事力を北部部族が保持していることは明らかだったので驚くことはないのですが、アハマルは、サレハのやり方に怒っているのであって、自分が大統領をやろうなどとは露ほども思っていないでしょう。

そもそも、そんなことを言い出したら、これまで3カ月以上民主化要求デモを続けてきた学生たちが黙っていないでしょう。野党連合は今回の一連の動きの中でサレハに圧力をかけてきましたが、それを率いる指導者はいません。所詮烏合の衆です。

また、今回の大統領府攻撃を誰がやったのかも謎ですが、サレハが負傷してサウジに出国したことを反サレハ派の人々は皆喜んでいますが、これでサレハが暗殺されたとしたらこれまでの民主化運動の意味はほとんど失われてしまいます。

現時点では、サレハ後のこの国の舵取りをどうするのか。全くめどが立ちません。もちろん、憲法の規定に則りハーディー副大統領が暫定政府を組織することが最も穏当です。それで一年程度はしのげますが、その間に次の「国の姿」を模索しなければならないことになるでしょう。