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バタアン原子力発電所は再封印か?

海外研究員レポート

フィリピン

2011年4月発行
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東日本大震災はフィリピンでも衝撃的な出来事して受け止められている。地震と津波の破壊力の恐ろしさはもとより、福島第一原発事故に見られる原子力発電の恐ろしさも改めて実感した。特に後者に関しては、フィリピンでも放射性物質の拡散とその人体への影響が懸念されるようになり、フィリピン原子力研究所は定期的に大気中の放射線量を測定している。また、食品をはじめとする日本からの輸入品に対しても心配されはじめている。加えて、原発の安全性に対する疑問が急速に高まっている。フィリピンでも昨今、前向きに検討されるようになっていたバタアン原子力発電所の復活議論が、ここにきて棚上げになった。そこで本稿ではフィリピンの原発をめぐる動きを簡単に報告する。

1960年代に原発導入を検討
フィリピンには1984年に完成したバタアン原子力発電所がある。何を隠そう、東南アジア諸国のなかでいち早く原発導入を検討し、建設した国なのだ。ただし、その後の政治判断により今日までの約27年間、一度も商業運転されていない。

同原発は、その建設経緯からフェルディナンド・マルコス政権(1965~1986)の汚職の象徴かつ「負の遺産」の一つとして知られている。だがフィリピンには、マルコス政権成立以前から、原子力エネルギーへの関心と原発導入構想があった。科学技術推進のために制定された1958年科学法は、フィリピン原子力エネルギー委員会(現在の原子力研究所)を設立し、原子力エネルギーの研究開発を進める体制を整えた。そして1960年代前半には、国連やIAEAの協力をえてフィリピンにおける原発導入の可能性を検討している。もちろん、こうした動きの背景には当時「原子力の平和利用」を強く推進してきたアメリカの影響があったことは想像に難くない。1950年代半ばに、米国主導で「アジア原子力センター構想」が提唱されたようだが、同センターをマニラに設置するという案があったとされている(内閣府原子力委員会『1956年原子力白書』)。

原発導入計画が本格的に動き出したのはオイルショック後である。1975年に国家電力会社と米国企業がバタアン州モロンに620MWの原発を建設する契約書に署名し、建設に着手した。その後、1979年に起きたスリーマイル島原発事故で安全基準が見直されたため、1984年に完成するまで年数を要した。

商業運転目前に中止
建設が完了した1984年には核燃料が現地に届けられ、翌1985年にはIAEAによる運転前の安全検査が行われ、あとは商業運転のための正式なライセンスを待つばかりとなっていた。ところが1986年2月にフィリピンで起きたエドサ政変と、同年4月に起きたチェルノブイリ原発事故が、バタアン原発の運命を大きく変えることになった。政変後に発足したコラソン・アキノ政権(1986~1992)は、バタアン原発の安全性を強く問題視して商業運転を認めず、米国企業との契約を打ち切ったのである。安全性だけではない。同原発建設をめぐるマルコス前大統領と米国企業の不正取引や、米国企業側に有利な一方的な契約内容も打ち切りの理由となった。建設費用は当初5億ドルと見積もられていたものが、最終的には23億ドルにまで膨れあがったとされている。

なお余談になるが、この時のアキノ政権によるバタアン原発運転中止をはじめとしたエネルギー政策の欠如は、その後、1990年代初めに深刻な電力危機をもたらすことになった。また、マルコスの「負の遺産」となったバタアン原発は膨大な借金を後世に残した。建設費用にかかった資金をすべて完済したのは2007年である。

原発導入議論の復活と中断
アキノ政権以降、フィリピンでは原発導入を長期的なエネルギー計画に含めながらも、本格的な議論は避けてきた。ところが数年前より風向きが変わり、政府当局やビジネス界の一部から、原子力エネルギーの利用を前向きに検討する意見が出るようになっていた。背景には、高い電気料金や将来の供給の不透明性という問題を抱え、安価でかつ安定した電力供給が課題になっていること、そして国際的には技術進歩により、原発の安全性が高まっていたことなどがある。近隣諸国が原発導入を検討しはじめていることや、地球温暖化に対する懸念なども大きく影響していよう。こうした変化を後押しするように、借金を完済したばかりのバタアン原発の復活案も浮上した。2008年初めにはIAEAの調査団を招聘し、同原発の修復と商業運転の可能性を探る動きも見られた。その後、韓国企業によるフィージビリティ・スタディも行われている。また、同原発の復活を制定化する法案も下院に提出された。

原発導入に前向きな議論が進むにつれて、反対派も勢いづく。反対派はバタアン原発の立地に関する地質学上の問題や原発の安全性に対する疑問、そして使用済み核燃料の問題などをあげ、修復・運転にかかる膨大な費用を再生可能エネルギーの開発に向けるべきだとも主張している。しかしながら、こうした議論も今回の福島第一原発事故で推進派が提案を取り下げる形で中断した。

フィリピンにおける原発復活の可能性
そもそもバタアン原発は、ベニグノ・アキノ現大統領の母親コラソンが大統領時分に中止した案件である。それを息子の現大統領がわざわざ復活させる可能性は低い。つまり、バタアン原発は再び封印されたと見てよいであろう。
もし今後議論が再開した場合、フィリピンでは原発復活の可能性が高まるであろうか。フィリピンにおける原発の議論は常にその安全性が争点となり、平行線をたどってきた。もし同じことが繰り返されるなら、何ら前進しないであろう。原発における事故の可能性はゼロではない。問題はそうしたリスクを背負ってでも安価でかつ安定した電力供給を優先するのか、言い換えればリスクを社会全体で許容する意志があるかどうかではないだろうか。そのうえで、高度な政治判断が求められる。

実際に原発を復活するにあたっては、国内の体制づくりと人材育成が必要だと考えられる。原子力行政を担う組織の構築や電力事業に関する様々な法整備をはじめ、危機管理体制の構築も必要であろう。そして、それらを確実に実行するための人材育成が重要である。原子力行政に関わる人材や原発運転に直接関与する技術者はもちろんのこと、原発の維持管理や修理、さらには放射線医学の知識を備えた幅広い人材も必要になろう。外国企業に進出してもらい、国内で自動車を生産するのとはワケが違うのだ。こうしたことを考えるだけでも、原発導入の準備にはいかに年数と資金を要するかが想像できる。そのためには、何よりも政府による長期のコミットメントが必要であろう。フィリピンの政権は原則として1期6年という制約がある。政策の継続性がなんら保証されないなかで、果たして10年、20年単位の長期計画を実行できるだろうか。ちなみに、アロヨ前政権(2001~2010)は原発復活の検討に向けて動き出したが、その際、「実際に復活するとしたら、それは15年以上先の話で、自分の政権下ではあり得ない」と批判をかわすためもあろうか、最終判断を先の政権に委ねる発言をしている。

逼迫した財政状況も事実上の障害となろう。話が若干逸れるが、マニラ首都圏を管轄する消防局担当者の発言によれば、もし大地震によりマニラ首都圏が大火災に見舞われた場合、石油精製所もしくは高層ビルなどの高所消火にあたるハシゴ車やポンプ車、それに化学消防車などの特殊災害対策車がほとんどなく、また消防ヘリコプターもないため、対応できないとのことであった。このように、危機時に出動を余儀なくされる消防ないし国軍では装備の不足が顕著である。さらに、深刻な財政状況は大学などの教育機関にも長年陰を落としている。財政を立て直さないかぎり、自前での人材育成は難しいと言わざるをえない。

原発導入の是非をめぐるシンポジウムを覗いて
最後に、時間はさかのぼるが、筆者は2009年にフィリピン大学工学部で行われた原発の是非をめぐるシンポジウムをたまたま覗く機会があった。報告者は原発推進派と反対派の議員で、聴衆者は工学部学生や教員らであった。原発の安全性を主張する議員に対し、工学部関係者で埋め尽くされた会場からは疑義の声があがるという、ある程度予想された展開になった。推進派の議員は、過去の事故の経験や技術進歩により原発の安全性が高まっていることや、地震国の日本の事例などをあげながら丁寧に説明していた。

工学部のある著名な教員は、「フィリピンではヘルメットを着用すべき建設現場で、それをかぶらずに働く労働者がいる。安全基準があっても、それが守られない国なのだ。そういう国で、高度な安全性と作業の慎重さが求められる原発運転が可能なのだろうか。」と疑問を呈していた。同調する意見は多い。

何よりも印象深かったのは、シンポジウム終盤に推進派の議員が会場全体に投げかけた次の言葉である。「フィリピンでは皆さんのように原発の安全性を疑問視する意見が多い。それは見方を変えると、原発を将来担うかもしれないあなた方、フィリピン大学工学部卒業生を信頼していないということなのです。また、あなた方も自分たちの仲間を信頼していないということでもあるのです。それでよいのでしょうか?」。この言葉に対し会場の反応は特になかったが、工学部の学生達はどう受け止めたのだろうか。

いずれにせよ、東南アジア諸国の中ではいち早く原発を建設したフィリピンだが、実際に運転されるまでの道のりは長く、不透明である。