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インドのある女三代記

海外研究員レポート

インド

2010年11月24日発行
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ヒンドゥ教徒の聖地の一つハリドワールにて。左からミーナさん、クニカ、プレマさん。
ヒンドゥ教徒の聖地の一つハリドワールにて。
左からミーナさん、クニカ、プレマさん。
ここに記すのは、2年近いインド滞在生活のなかで、最も身近に過ごした女性3人の半生記である。ミーナさんは自称53歳、プレマさんは33歳、クニカはこの12月で14歳になる。3人はミーナさんから見たら、娘、孫娘に当たる。ミーナさん、プレマさんは共に夫と別れ、家事労働者として1人娘を育ててきた。様々な苦労があったが、その焦点は1997年から2004年まで続いたクニカの養育費を巡る裁判だった。今、ミーナさん、プレマさんの希望の中心はクニカである。英語で教育する私立学校の8年生に在学しているクニカは、学年でも1、2位を争う秀才だ。

聞き取りではミーナさんとプレマさんには、ほぼ自由にそれぞれの半生について言いたいことを語ってもらった。クニカに対しては、私の方から質問する形でインタビューした。それぞれの記憶と見方をそのまま記しているので、事実関係については、齟齬があるかもしれない。

彼女達のケースが、インドの今を代表する事例ということではない。非常に変化の激しい部分と変わらない部分の両極端を併せ持つインド社会の中で、一人ひとりが日々一生懸命闘いながら生きているということ、それに対する心からの賞賛を込めてミーナさん達の半生を記録しておきたいと思う。

ミーナさん
ミーナさんが生まれたのはマハーラーシュトラ州の農村であるが、今ではその名前や場所は覚えていない。ムンバイ(当時はボンベイ)から丸1日はかかる距離だった。彼女の正確な年齢はわからないが、おそらく1950年代末の生まれだろう。父親はムンバイの繊維工場で働いていたため、不在の期間が長かった。ミーナさんの前に4人男の子が生まれたが、みな幼い時に死亡、ミーナさんは最後の子どもで、はじめての女の子だったが、彼女が生まれたころからすでに母親の健康状態は悪く、彼女が2、3歳の頃にとうとう亡くなってしまった。死因についても、喉の病気か何かであったということくらいしかわからない。母親が生きていた頃から、父親はムンバイで酒屋の娘と関係があり、母親は薄々感づいていたらしい。自分の死後、ミーナさんの養育を自分の母親に託し、夫には渡さないように頼んでいたという。

母親の治療で借金したこともあり、祖母と2人の生活は経済的に貧窮を極めた。母親の兄弟やその妻たちは別に世帯を持っており、息子の子供でなく、嫁いだ娘の子供をなぜ育てるのだと母親(ミーナさんの祖母)を批判した。9歳の時、知り合いの伝手でムンバイのある家庭で仕事をすることになった。その家に到着して15日後、夫婦に赤ん坊が生まれた。しかし9歳の少女にとって、家事使用人としての仕事を一から学ぶことは大変なことだった。雇い主から殴られたり、顔を爪でつねられたりするのは日常茶飯事だったが、ある時は腹を立てた雇い主が包丁を投げつけた。思わず顔を手で隠したため、包丁は右手の付け根のところをざっくり切って落ちた。近所の人が見るに見かねて治療してくれた。雇い主がどんな仕事をしていたか、はっきりとは覚えていない。ただ、大きな会社で車も所有していたという。5階に住んでいて、そこまで水を運び上げるのが大変だった。こぼれたら漏電するからといって、エレベーターは使えず、階段で上り下りしなければならなかったからだ。こんな調子で、この家に4 年ぐらいいた。その間、金のイヤリングを一組もらっただけで、その他の金銭的報酬は一切なかった。ある時、この家族の田舎の実家についていった。ミーナさんの虐待の痕をみた姑さんが、どうしたのだと聞くので、最初正直にたたかれた痕だといったら、姑さんは怒り出した。後で、雇い主から、殴られたなどと他人にいったら金のイヤリングは取り上げるぞと脅され、その後は虐待のことを聞かれても「何でもありません」と答えた。その晩だったか、雇い主は、他の家にミーナさんを置いたままムンバイに戻ってしまった。ミーナさんは祖母のところに送り届けられたが、ミーナさんの状態を見るなり、おばあさんは泣き出したという。

一旦は祖母の村に戻ったミーナさんは、田んぼや薪割りで米をもらうなどして過ごしたが生活は苦しく、1年後再びムンバイへ向かった。銀行勤めの共稼ぎ夫婦のところで2年働いた。この家庭での仕事はよかったという。料理や赤ん坊の世話をした。20ルピーの月給だったという。

そんなある日、父親の親戚に偶然出会った。しばらく話をした後、ある日親戚の結婚式に呼ばれた。その後、母親の従兄に当たる人がミーナさんを家に時折呼ぶようになった。しかし、雇い主の方は、自分のところで仕事をするのならもう行くな、あるいは親戚のところにしょっちゅう行って休みを取るのなら、仕事をやめるようにミーナさんに言い渡した。結局、ミーナさんは銀行勤めの家の仕事をやめた。親戚のところでは、パールシー(拝火教徒)の家で月85ルピーの仕事があると聞いたが、以前働いていた人が戻ってきたからということで雇ってもらえなかった。親戚の家で2カ月仕事がないまま過ごした後、他の家で働いた。銀行勤めの家をやめた半年後、友人とともに、ミーナさんはデリーに出てきた。

デリーに出てきたミーナさんは、まず北部のモデル・タウンで家事労働者としてしばらく働いた。Ram Chand Kishan Chandという有名なサリーショップのオーナーの家でも働いたことがある。本屋が集積しているので有名なダリヤガンジの近くに自宅があったという。そこには3年いた。

友人の紹介で結婚したのは1975年の半ばのことである。夫は、現ウッタラカンド州のグルワールの出身で、コックだった。1977年に娘、プレマさんが生まれた。当時、デリー南部のハウス・カースにあったゲストハウスで夫が仕事をしていたため、そこに住んでいた。そこで知り合ったマドラス(現チェンナイ)出身の夫婦に可愛がられ、彼らがデリーの観光名所のひとつクトゥブ・ミナールに近いカトワリア・サライで食堂を始めるというので、夫はその仕事に就いた。しばらくしてダウラ・クアンという地域に、朝と夕方、鍋と食器を洗うという仕事で住居付きという仕事を見つけた。その間、夫はカトワリア・サライの食堂で働いていたが休みがもらえなかったため、辞めてデリー南部のマダンギリというスラムの再定住コロニーに部屋を借りた。

この頃から、夫の兄弟姉妹との関係が悪化し始めた。原因は息子が生まれないということだった。そんななか、夫が政府のゲストハウスのコックという「良い仕事」に就くことになった。それをきっかけに、夫の兄弟姉妹は夫を村に呼びもどし、2度目の結婚をさせようと目論んだ。夫が「緊急な用事で兄弟姉妹と会ってくるから」と言い残して村に帰った後、夫の親戚であった日本の新聞記者のところで働いていた運転手がミーナさんに、結婚のために村に帰ったのだと教えてくれた。怒ったミーナさんは、人に頼んで、「娘が病気だ、すぐ帰れ」という電報を夫の村の実家宛に打ってもらった。それによって、最初夫の実家の人々が結婚させようとしていた娘の家族は、新郎と考えていた男が既婚者であり娘もいると知って、その結婚は反故になった。しかし、夫の家族は別の女性を探して結婚させてしまった。1週間後、デリーに戻ってきた夫にミーナさんは怒りをぶつける。しかし夫はミーナさんを殴った。ある日、村に残した妻に贈るために夫が買ったサリーをベッドの下に見つけ、怒ったミーナさんはそれを着てしまった。夫は家に金も入れなくなった。2人の間では口論が絶えず、夫はすぐに自転車で出て行ってしまう。職場の夫の同僚達もすべての事情は知っていながら、ミーナさんの側には立ってくれなかった。結局、別れを切り出したのはミーナさんからだった。夫はプレマさんを引き取り、村で育てさせるつもりでいたが、ミーナさんは自分の手元に置くと譲らなかった。プレマさんが3歳くらいのことだった。

友人に金を借りたりしながらしばらく凌いでいたが、知り合いのアイロン職人に仕事がないか知らせてくれるよう頼んでいたところ、ある教師の家で洗濯と食器洗いの仕事を見つけてくれた。また2軒目の仕事も見つかった。当時住んでいたのはカトワリア・サライの小さな部屋で、家賃は月40ルピーだった。2軒目の仕事は、食器洗いだけだったが、ディワリ(ヒンドゥ教徒にとっての最大の祭り)の頃、雇い主が「娘にミターイー(スイーツ)を買うお金挙げるから今日は洗濯もして頂戴」と言った。それで部屋から洗濯物を運び水につけたところ、ズボンの一つがいやに重い。ポケットなかには沢山のお金が入っていて、ミーナさんは雇い主に金を渡した。ミーナさんが金を返してきたことを雇い主は、下に住んでいた夫の姉妹にも伝えたところ、そこでも仕事をしてほしいということになり、ミーナさんは3世帯での仕事を掛け持ちすることになった。しかしそこから得る賃金は微々たるものだった。

ミーナさんは日本の新聞記者の運転手に、住み込みの仕事がないかと尋ねたところ、彼が、ある日系企業の運転手(カイラシュさん)と知り合いで、その社長宅での仕事を紹介してくれた。1984年のことである。単身赴任だった当時の社長の自宅に行ってみると面接に4、5人既に来て待っていた。この日はもう話は出来ないから家へ戻れとカイラシュさんに言われ一旦は帰宅した。翌日夕方、社長と話をした。当時は、洗濯や床掃除をする人は既に別にいた。またミーナさんも日本食については全く知識が無かった。しかし社長から、日本食の作り方を教えるからと言われ、料理と食器洗い、フルーツなどの買出しの仕事をすることになった。給料は月700ルピーと決まった。しかし2カ月後、掃除人と社長の間で問題が起こり、掃除人が解雇されることになった。ミーナさんにはお金が必要だし、時間があるのだからというカイラシュさんの口利きで、ミーナさんが掃除もすることになる。後には洗濯人も解雇され、給料は1000ルピーになった。

当時の社長宅はディフェンス・コロニーにあった。既に5歳を過ぎていたプレマさんは同じコロニー内にあるデリー自治体(MCD)の小学校1年に入学した。

ある時、昼食の準備が10分遅れたということで社長は非常に腹を立て、ミーナさんに出て行くよう命じた。そのためカイラシュさんの家の近くに部屋を見つけて引っ越しすることになった。しかしミーナさんが荷物をまとめて出て行こうとすると、社長は慌てて怒りのあまり言ったことだったからとミーナさんを引き止めた。しかしミーナさんは、「もう既に家の前金も払ってあるし、何度もこのようなことがあるととても困る」と引っ越してしまった。そして朝7時半から夜8時まで、日曜日は休日ということで通いでの勤めになった。ダクシンプーリーの家から社長宅まではバスやオートリキシャで通勤した。怒りっぽい反面、プレマさんをとても可愛がって、マーケットに買い物に連れて行ったりしてくれた社長だった。

1987年には社長が交代した。引き続きミーナさんはダクシンプーリーから通いで働いた。朝、プレマさんと一緒にディフェンス・コロニーまで来て、プレマさんは学校へ。学校が終わると社長宅に来て、夜一緒に帰宅するという生活だった。新しい社長は、朝ごはんの後、自分の部屋は鍵をかけて出勤し、普段お昼ご飯に戻ってきていた。忘れっぽいところのある人だったという。ある時、ロケットペンダント用の宝石が見つからないと社長が騒ぎ出した。大きな宝石が4、5個もあったろうか、ミーナさんも以前に見せられたことがあった。社長はミーナさんがスペアキーを作って盗んだのではないかという疑いを持った。その頃、大使館からの通達で、防犯のため警備員を雇うか犬を飼うようにという指示があったという。警備員には給料を払わねばならないため、この家では犬を飼うことにした。犬の世話もミーナさんの仕事に加わった。宝石盗難騒ぎから4カ月後、社長の休日のある土曜日、部屋をのぞいたらあまりにも汚いので、誰かが来たら自分が非難されるから掃除をさせてくれとミーナさんが頼んだところ、社長は了解して、床に散らばっている英語と日本語の新聞を分けて片付けるように言った。新聞の下から出てきた靴下がいやに重い。中から無くなったはずの宝石が出てきたそうだ。お礼だったのかお詫びの印だったのか社長は、ミーナさんに20ルピーくれたそうだ。そのまた2カ月後、掃除の機会に100ルピーとか1000ルピーとかお金が入った封筒が沢山でてきたそうだ。

そのあと社長宅がコンノート・プレース(CP)近くに移転することになった。ミーナさん達が住んでいたダクシンプーリーからはさらに遠くなった。プレマさんは、ディフェンス・コロニー近くの中学校(ミドル・スクール)の6年生に進級していた。授業のあとバスに乗ってCPの社長宅まで通ってきた。社長宅は、その後ジョル・バーグ、グレーター・カイラシュIのMブロックなど転居を重ねることになる。

1992年に再び社長が交代した。当時の社長宅はニティ・バーグで、この社長は夫婦と娘1人の家族で来ていたため、ミーナさんに同居を頼んできた。しかし4年後、再び単身赴任の社長に交代すると、アパートに住むし、家事は自分でするので、ミーナさんの仕事は必要ないと言われた。そのため紹介されたジョル・バーグに住む別の日本人家族のところに行ったが、大家と住んでいたその日本人家族の住む邸宅のサーバント・クオーター(使用人が住むところ)は母屋から離れており、警備のため警官や警備員、そのほかの家事労働者など、男性ばかりが住むサーバント・クオーターにプレマさんを1人では置いておけないと判断し、その話は断った。社長からは、当面自分のところのサーバント・クオーターに住んでいてもよいが、他の仕事を探すよう言われた。しかしなかなかよい仕事は見つからなかった。

他方、社長の方でも家探しをしていたのだが、よい物件が見つからない。最終的にスクデヴ・ビハールというところに手頃な家が見つかった。社長は以前の決断を覆し、ミーナさんに、住み込みで掃除の仕事をするようにと言った。プレマさんの結婚が行われたのもこのスクデヴ・ビハールの家でのことだった。1995年のことである。社長宅の地下で、会社のスタッフも含め大勢の人を呼んで結婚式のお祝いをした。

結婚後11カ月経った。しかし嫁ぎ先の家族はプレマさんに対してひどい仕打ちをしていた。ミーナさんに対しても、これをよこせ、あれをよこせと次から次へと要求してきた。プレマさんは、食べ物も満足に与えられなかった。ご飯の替わりに、米を炊く時に捨てる湯、よく言えば重湯をプレマさんは食べていた。見かねたミーナさんが、お茶と一緒に食べるようにとビスケットを持たせると、夫は同居していた兄夫婦の子供達に食べさせるよう取り上げてしまった。

もともとこの結婚は、ミーナさんの別れた夫の姉の娘(つまりプレマさんの従兄妹にあたる)女性(ヴィムラという名前だった)の夫の弟の嫁にと望まれたものだった。プレマさんの夫は、デリー西部のステンレス・スチールの皿(ターリーという食事に使う大きな皿)を作る工場に勤めていた。プレマさんの夫の問題は、義理の姉ヴィムラの言う通りに行動し、自分の頭で考えることをしないことだった。プレマさんが妊娠8カ月を迎えたとき具合が悪くなった。しかし嫁ぎ先家族は薬を買う金を出そうとはせず、ミーナさんが知り合いの医者に連れて行った。その医者はすぐに入院させるよう診断したため、プレマさんの夫の工場労働者がかかっているパンジャービ・バーグのESI病院に連れて行った。胎内の赤ん坊が下におりてきているのでそのまま入院ということになった。夫とその家族は、入院の申し込み用紙を記入したのだが一旦はプレマさんを連れて帰宅した。その後、再びプレマさんの具合が悪くなり夫がプレマさんを病院に連れていった。3時頃、プレマさんから泣きながら電話が来た。病院で一人ぼっちだという。ミーナさんは社長に事情を話し、病院に行かねばならばいが夕食に何を作ろうか尋ねたところ、社長は、ただ犬のご飯を用意しておいてくれればよいからと言ってくれた。

スクデヴ・ビハールから病院までは相当の距離があった。パンジャービ・バーグに行ったことが無かったミーナさんは、全インド医学大学(AIIMS)まで行き、そこでパンジャービ・バーグへの行き方を尋ねバスにのった。漸くたどり着いてみるとプレマさんは一人ぼっちで、医師からは安静にしていないと胎児が降りてきてしまうと言われた。その日からミーナさんは付き添いをしたのだが、近くに住む夫の家族からは何の差し入れも無かった。4日後、医師は退院を許可したが、絶対安静を言い渡した。それに対して、夫はプレマさんの姑の言葉として、自分達も家事をしながら子供を生んできたのだから、家事をしないで休ませておくなんてできないと伝えた。そこでミーナさんは、では自分のところに連れて行くといって、2人はオートリキシャでスクデヴ・ビハールに戻った。

その後夫の家族からは何の連絡もない。社長も「プレマはもう戻らないのか?」と尋ねてきた。12月末のことである。「28日からは仕事も休みで自分もいなくなる。どうやって病院に連れて行くのだ?」それに対してミーナさんが、タクシーで何とか連れて行くからと応えたところ、社長は「それは駄目だ。運転手に言っておくから、夜中でもいつでも必要になったら電話するように」と言ってくれた。

12月24日午後、プレマさんの具合が悪くなりディフェンス・コロニーの医師に見せたところ、すぐに病院に連れて行ったほうがいいということになった。一旦家に戻って入院の準備をしていたところに、社長の運転手が家の前に来ていたので、そのままパンジャービ・バーグの病院に連れて行った。なぜまたパンジャービ・バーグの病院なのかと尋ねたところ、「民間の病院に連れて行くお金が無かったし、パンジャービ・バーグの病院に既に名前を登録していた。それにもし赤ん坊に何かあったら、婚家の家族が自分を非難するから」とミーナさんは応えた。

入院の手続きが済んだ後、ミーナさんはプレマさんの夫の家に電話をしてその旨を伝えた。一夜明けて1996年12月25日、午後になって姑が来て帰って行った。その後プレマさんの夫も夕方に来た。その後、クニカが生まれた。女の子だった。「インドでは、生まれてくるのが男の子か女の子かで受け止め方に違いがあることを知っているでしょう?」ミーナさんは言う。クニカは出産の際に羊水を飲んでしまって具合が悪くなった。しかし26日の夕方には退院し、スクデヴ・ビハールの家に連れて帰った。午後食べた食事代を含め、プレマさんの夫は一切金を出さなかったという。

3カ月が過ぎた。婚家の家族との話し合いで、プレマさん、クニカと夫の3人が住む部屋を別に作ることになった。その金を払うのはミーナさんである。ミーナさんはカイラシュさんから月額1500ルピーの利子で3万ルピーを借金した。プレマさんの金の腕輪なども売ったがまだ足らず、再び5000ルピーをカイラシュさんから借りたという。実は、結婚の際にも冷蔵庫からベッドから家財一切に加えて、夫婦の指輪などをミーナさんがプレゼントしていた。部屋を作ってやった後も、婚家からはプレマさんとクニカを迎えに来ない。それは3月、ホーリー(春の祭り)の頃だった。ホーリーの時期には娘を他所にやらないという慣習がある。そのため、ホーリーの後に婚家に戻るようミーナさんはプレマさんに言った。

プレマさんの夫は時折妻と子供に会いに来ていたが、クニカが3カ月になるまで、すべての費用はミーナさんがみていた。それに対して、プレマさんが夫に少しは払うよう要求すると、夫は300ルピーをプレマさんに渡した。ミーナさんはそのことを知らなかった。その金のことで、夫の姉から電話がかかってきて「弟が給料を全部あんたに渡したらしいけれど、そしたら弟はどうなるのよ」と非難してきた。対してミーナさんは、そんな話は知らないし、自分も働いているのだから1人や2人を食べさせることはできる。ただ何もせず座っているわけではないのだ、と反論した。相手は血圧が上がったといって電話を切った。ミーナさんも腹を立ててしばらくしてから電話をすると、出た相手(婚家には電話がなく、近所の家の人が取り次ぎをしてくれていた)が言うには、家族の中で口論が起こり、プレマさんの夫は怒って蚊を退治する薬を飲んでしまい、病院に運ばれたとのこと(よくわからなかったが、家族の誰かが夫の体に火もつけたらしい。お尻に大きな火傷跡が残った)。夜9時になっていた。

プレマさんは泣き続けで、とにかくオートリキシャを捕まえてヴィジャヤナガルにある嫁ぎ先の家に行った。すごい大雨だった。生後3カ月のクニカを濡らさないようにするのが大変だった。病院にいるとのことで、そのままCPの病院まで行ったのだが結局夫には会えず、夜中の1時過ぎに諦めて自宅に戻った。付き添いの家族のために食事を差し入れしなければと、ミーナさんはジャガイモのパランタ(お好み焼きのようなもの)とチャイを作り、一睡もしないまま朝5時の始発バスで再度病院に行った。しかし夫と会えないまま11時過ぎまで待っていた。その間、夫は緊急病棟から一般病棟に移されていた。しかし家族の誰もミーナさんたちには伝えなかった。ベンガルから旅行に来て急病になった父親についていた家族が、どこかに移ったらしいよと教えてくれた。驚いたプレマさんが看護師に尋ねると、妻のくせに夫の病棟がわからないなんてことがあるかと怒られた。なんとか病棟を探して行ってみたが、夫の家族はミーナさん達を夫に会わせまいとした。ミーナさんが言うには、体に火をつけたので、ミーナさん達が騒ぎ出して警察沙汰になることを恐れたためだという。しばらくして夫は退院し自分の家に戻ったが、ミーナさん達と夫家族との関係は悪化するばかりで、ミーナさんは訴訟を起こす決心をした。

妻と子供を引き取らず、経済的責任も果たさない夫を訴え、子供の養育費の支払いを求めたミーナさん達に対して、夫は仕事をしていないからと答え、判事の最初の判決はわずか月に400ルピーの支払いを命じた。しかし400ルピーでは赤ん坊のミルクですら十分でない。それでなくてもミーナさんは弁護士に、400ルピー、300ルピーと頻繁に支払いをしなければならなかった。

その頃ジャナキプーリーに有名な社会活動家がいると聞いて会いに行った。そこで得た情報に基づき、ラージパト・ナガルの警察の女性担当室(Women’s Cell)に行った。担当者に事情を話すと、これまでに婚家に渡したゴールドの領収書が必要だという。それらを全て保存しておいたミーナさんはコピーして警察に渡した。警察からは婚家に通知が行った。婚家家族は、自分達のところにはプレマさんのゴールドなどないと否定した。最初、警察は1万5000ルピーを取り返すから、自分達に5000ルピー寄越せといっていた。しかし残り1万ルピーでは2万5000ルピーかかったゴールドの回収には程遠いとミーナさんが抗議した。最終的には2万ルピーを取り戻し、5000ルピーを警察に払う(もちろん違法)ことになった。夫の家族は相当抵抗したが、支払わなければ逮捕すると脅かされ2万ルピーを返還した。

夫側は2万ルピーを返したのだから、これで離婚が成立すると思っていた。しかし女性担当室の偉い人から、離婚すると逃げられてしまい、子供の養育費も取れないよと言われ、ミーナさん達は離婚には同意しなかった。全てではないがある程度の家財を取り戻し、スクデヴ・ビハールの地下に置いた。女性担当室への訴えはそれで終了した。

その間も裁判所での養育費を巡る訴訟は続いていた。2003年頃のこと、裁判官は、クニカが18歳になるまで、毎月2200ルピーを支払うよう夫(父親)に命じた。しかし翌日、再び裁判所に行くと、夫は支払えないと騒ぎ出し、裁判官は前日の裁定を撤回した。背後でどんな交渉が行われたのか(夫側が裁判官に賄賂を払ったからなのか)、ミーナさんにはわからない。しかし裁定は撤回されたまま、この訴訟は審議終了とされてしまった。

4カ月後、再びミーナさん達は訴訟を起こした。裁判所は夫に対して1万7000ルピーを支払うよう命じた。その回収のため、裁判所の職員二人を連れて夫の家に行った。夫の家で近所の人たちも巻き込んで大騒ぎになった。夫の方は自分達の弁護士に連絡したところ、5000ルピーを裁判所に提出しろと助言された。結局それでその訴訟も終わりとなった。その5000ルピーの小切手がミーナさんに渡されたのは、それから2年後のことだった。

裁判が続く一方、クニカはどんどん成長していた。しばしば学校を休んで裁判所に行かなければならないことを、クニカは嫌がるようになった。特に、母親が病気だとか様々な嘘をついて学校を休まねばならないことが嫌だったらしい。クニカが小学校2年生くらいのことだろうか。ミーナさん達は、なぜ裁判所で争わなければならないか、クニカの父親がしたこと、お金のこと、もしかしたら父親のところに引き取られる可能性もあること等すべてをクニカに話して、クニカにどうしたいのか尋ねた。するとクニカは、「1時間考える時間がほしい」と言った。そして1時間後、クニカの答えは「お金なんて要らない。もう裁判はやめて」ということだった。ミーナさん,プレマさんは、「本当に? 後になって、私達が何もしなかったなんて言わないように」と念を押したところ、クニカは、「そんなこと言わないよ」と答えた。

通称パティアラ・ハウス(デリーの県裁判所)での訴訟で、プレマさんは離婚する代わりに10万ルピーの養育費を支払うよう求めていた。それに対して相手の弁護士は6万ルピーを提示していた。クニカの意見だけでなく、ミーナさんにとっても裁判を続けることは大きな負担になっていた。原告側は夫だけでなく夫の家族が沢山来る中で、プレマさんとクニカだけを裁判所に行かせるわけにはいかず、その度に仕事の休みを取らなければならない。弁護士への費用も馬鹿にならないだけでなく、体を壊して手術を受ける羽目にもなった。その際1本2000ルピーの輸血5本が必要だったという。最終的に6万ルピーの養育費を受け取ることでミーナさん達は同意した。弁護士には1万ルピーを支払った。

もう一つ夫側が起こしたティース・ハザリ裁判所の訴訟は、養育料の支払いを免れるために、プレマさんとクニカを自分のもとに引き取りたいというものだった。最終的には、クニカの親権が争点になり、夫側はクニカを引き取りたくないと述べたため、クニカの親権はプレマさんが持つことになった。


6万ルピーの支払いが済んだ3、4ヵ月後に離婚が成立した。判決では、父親に会うことについて何ら条件をつけていなかった。クニカが最後に父親に会ったのは裁判所でのことだった。弁護士費用を除いた5万ルピーは、銀行に預金した。
18歳を過ぎたら、今度は自分の教育費を要求するためにクニカ自身が父親に対して訴訟を起こすことが出来る。ミーナさん曰く、「訴訟を起こすかどうかはクニカ次第だが、クニカはこれだけは父親に尋ねたいと言っている。『なぜ母親を捨てたのか?』」

今、クニカの学校で、先生達は事情を知っているが、友達には父親は死んだということにしている。離婚したということは、特に女性の場合、インド社会では非常に不名誉なことと捉えられているからである。

ミーナさんは言う。2004年に裁判が終わり、借金も全て返済して、「この数年は心に平安がある。プレマはどんなことでも自分で対処できるようになった。クニカについては望むだけ勉強させたい。最近は、チャイの入れ方を覚えたり、家事も少しずつできるようになってきた。それがとても嬉しい。」

プレマさん
プレマさんは1977年6月11日に生まれた。1984年にディフェンス・コロニーのMCD学校に入学し、5年生まで過ごした後、6年生から8年生までは同じくディフェンス・コロニーの公立ミドルスクールに通った。その後10年生までは、カシミーリー・ゲート近くの私立学校で勉強した。6年生以降は女子高だった。

一時は住み込みでなく、ミーナさんは通いで仕事をしていたわけだが、プレマさんは「その頃は全てお母さんが対処していたから、私は何の不都合も感じていなかった。」社長宅がCPに移った後は、プレマさんは学校が終わった後バスでCPまで通っていた。友人も一緒だったし、運転手も含め皆顔見知りになっていたのでバスで通うことに不安は無かったけれども、ミーナさんはバスの到着する時間を覚えていて、遅れたりするととても心配したという。

1994年に10年生修了試験を終えたあと、その年の6月プレマさんは婚約した。その少し前、ミーナさん親子の大きな支えであったカイラシュさんが病気になった。かろうじて命を取り留めるという重病だったのだが、そのことがミーナさんに、自分に何かあったらプレマさんが1人残されてしまうという危惧を抱かせ、結婚を急がせる契機となった。プレマさんの相手は、先に書いた通り父親の縁者であったのだが、婚約した後、結婚前から、カルワチョート(妻が夫の長寿を祈って断食をする日、姑にプレゼントをする場合もある)の日に姑になる人にサリーをプレゼントするよう要求された。そのため、ミーナさんが、当時の価値では結構な値段である550ルピーのサリーやドライフルーツなどを買って贈ったのだが、結婚前からこのような要求をすることに、プレマさんは嫌な気持ちを抱いた。

ミーナさんは語らなかったが、一度別れたプレマさんの父親とは復縁したこともあったらしい。1995年の結婚式には、プレマさんの父親としてすべき役割を果たした。しかし1、2年一緒に住んだ後、また諍いが続き別れることになったという。プレマさんに、父親の2番目の奥さんのこと、そちらに子供はいるのか(つまりプレマさんの異母兄弟の存在)について尋ねたところ、プレマさんは父親に尋ねたことがないのでわからないと言っていた。

カルワチョートの件を始めとして、嫁ぎ先の家族は様々なものを要求してきた。その中心にいたのがプレマさんには従兄妹にあたる夫の兄嫁ヴィムラだった。1995年11月30日、スクデヴ・ビハールの家で結婚式が行われた。婚約から1年以上後になったのは、必要な資金をためるためだった。結婚の費用はすべてミーナさんが出した。父親からは1パイサももらわなかったという。日本人宅で働くようになった1984年、ミーナさんはディフェンス・コロニー・マーケットにあった銀行に定期預金の口座を開設した。当時の金利はとても良く、5年で元金が倍になった。こうして少しずつミーナさんはプレマさんの結婚費用と貯めてきたのである。

プレマさんが嫁いだ家族は、デリー大学の北キャンパスの裏にあるヴィジャヤナガルという地域に住んでいた。同居していたのは、姑、夫の兄、妻(ヴィムラ)、2人の子供、夫の未婚の兄だった。最初は、それほどは問題は無かったという。結婚式の前日、姑は外出の際リキシャで怪我をした。式の後に入院したことから始まり、退院後のトイレの世話まですべてプレマさんの役目になった。結婚前に姑はよく泣きながらミーナさんにこぼしていた。「上の嫁(ヴィムラ)は自分に冷たくあたる。」そんなことがあったので、ミーナさんはプレマさんに、本当の親と思って仕えるように強く言い渡していたのである。

プレマさんは、夫がいくら稼いでいるのかそれも知らないままだった。パンジャブ・ステンレス・スチールという食器を作る工場のプレス・マンだった夫は給料を兄嫁ヴィムラに渡していた。夫の長兄はドライバー、次兄は銀行のマネージャーだった。合同家族に暮らすということは共同所有が原則である。しかし、この家族の中では、特にヴィムラは、これは誰のもの、あれは誰のものという考え方だった。ヴィムラの中ではまず、彼女の子供が最優先された。

食べることもままならない日々が始まった。プレマさんは食べることが好きである。ミーナさんとの暮らしでは、好きなものを好きな時に作って食べることが出来た。夜中2時頃、パコーラ(天ぷらのようなもの)やハルワ(野菜などを煮詰めて作るスイーツ)を作って食べたこともあった。しかしここでは、ヴィムラと一つの皿でご飯を食べなくてはならなった。ヴィムラは早食いで、プレマさんの食べる量は必然的に少なくなった。

結婚してまもなくプレマさんは妊娠したのではないかと思った。それを姑とヴィムラに言うと、何かわからないが熱いものを食べされられた。すると具合が悪くなってまた生理が始まった。同じことが2回続いたので、3回目は生理が止まっても、プレマさんは黙っていた。3カ月目になり、夫を伴いプレマさんはミーナさんのところに里帰りし、ディフェンス・コロニー近くの医者に見てもらったところ妊娠3カ月になっていることが判明した。しかし2度おかしなものを飲まされた後、プレマさんの体調は良くなく、医者は出産までずっと薬を飲み続ける必要があると診断した。お金のかかる治療だったが、ミーナさんは自分が出すからと言った。15日分の薬をもらい、プレマさんは婚家に戻った。

婚家ではプレマさんのためには1パイサも出してくれなかった。15日分の薬が終わってしまったので近所で購入しようと思っても、お金を出してくれない。プレマさんはミーナさんに電話をして助けを求めたところ、ミーナさんはすぐに薬を買って持って来てくれた。その後15日に一度、プレマさんはミーナさんのところに戻って医者にかかり、ミーナさんが薬を購入してくれた。

妊娠して空腹を感じても、婚家ではあまり食べるのは良くないといって食べさせてくれなかった。先に述べたとおり、普段の食事すら満足に食べられなかったプレマさんは、ヴィムラの子供達のために作るチャパティを余計につくって隠しておいたり、ご飯を炊く時に捨てる重湯に塩を入れて飲んだりして空腹をしのいだという。姑やヴィムラは、ミーナさんが以前、婦人科系の大きな手術を受けたことを指摘して、だからプレマさんも常に具合が悪いのだと責めた。婚家では、プレマさんに話しかける人はおらず、常に隅で黙っていたという。夫も同様だった。夫が口を開くのは、ミーナさんにこれがほしい、あれがほしいとねだる時だけだった。婚家の蛍光灯までミーナさんに買わせた。半月毎に通院のために帰ってくるプレマさんに対して、ミーナさんは食べるものから何から山のように持たせて帰した。しかしミーナさんの心づくしがプレマさんの口に入ることはなかった。里帰りしていたある日、婚家から電話があった。プレマさんの夫が病気だからすぐ戻って来いという。医者に見せてデング熱であることがわかったのだが、この治療費もミーナさんが出した。3人の稼ぎ手がいる婚家には、経済的に困窮しているという問題は無かった。なぜか末弟であるプレマさんの夫が、家の電気代やなにやら経済的な責任を主として担っていた。「妻に対する責任は感じていなかったのに」とプレマさんは言う。

ヴィムラによるいじめは、熱湯を掛けられるといったことにまで至った。ヴィムラがなぜこのような態度を取っていたのか、プレマさんにも本当のところはよくわからない。多分一つの理由は、ミーナさんが1人娘であるプレマさんのために、金や物など出来る限りのものを与えていたから、それを妬んだのではないかと思っている。ミーナさんはプレマさんの婚家に来るたびに、姑やヴィムラなどみなにお金も含め沢山の贈り物をしていた。それがインドの慣習でもあったからである。

妊娠8カ月目に入った頃、何を食べさせられたのかわからないが、嘔吐を繰り返すようになった。今でもはっきり覚えている。1996年の11月17日のことだった。ミーナさんに頼らず、初めて夫がプレマさんをかかりつけのディフェンス・コロニー近くの医者のところに連れて行ってくれた。薬をもらってヴィジャヤナガルの婚家に戻った。しかし具合は悪くなるばかりだった。翌11月18日は、プレマさんが婚家で過ごす最後の日になった。朝、パンジャービ・バーグのESI病院にプレマさんを連れて行った。医者は、プレマさんの状態を見て、すぐに入院させる必要があると診断したが、家族はそれを無視してプレマさんを家に連れ帰った。30分以上歩かねばならず、痛みで大変な思いをしたという。しかし家に戻ってもひどくなるばかりで、再び病院に連れて行かねばならないと家族も判断したらしい。「痛みで、頭の中も子供みたいになっていた。命令されるままに、病院に良いサリーを着ていくと盗まれると言われれば、ぼろぼろのサリーと壊れかけのサンダルに着替えた」プレマさんを夫が病院に連れて行った。午後3時頃のことである。プレマさんはミーナさんに電話をして、病院に来てほしいと訴えた。初めての場所にミーナさんが苦労してたどり着いたのは1時間半後、入れ替わりに夫は帰っていった。

ベッドに起き上がることも許されない絶対安静の3日間を過ごしたが、その間婚家からは誰も見舞いに来なかった。流産の危険はとりあえず去ったというものの、医師は出産まで安静が必要だと診断した。それに対して夫は、家で休ませることはできないと答えたため、ミーナさんがプレマさんを連れて帰ることになった。夫は1パイサもくれなかったばかりか、1度でも会いに来たかどうか。「覚えておく必要もないので、忘れた」とプレマさんは言う。

予定日は12月28日だったが、24日には胎児が降りてくる感覚があり、ディフェンス・コロニー近くの医師に見せたところ、今日にも生まれるから入院した方がいいとのこと。一旦家に戻って入院の準備を始めた。デリーの冬は寒い。プレマさんの着替えに加えて、新生児のための服やオムツを詰めた。インドでは、生後1カ月、特に最初の6日間は新しい服を赤ん坊に着せるべきではないと言われている。そのため、ミーナさんは以前から、古いサリーでオムツを作ったり、新しい服は洗って、新品でなくしたりと準備してきた。既に日本に一時帰国していた社長からは、病院が遠いので必ずプレマさんを車で連れて行くようにという指示が、運転手だけでなく会社のスタッフなどにも出ていたが、ミーナさんは迷惑をかけるのは良くないから、自分達だけで黙って行こうと言っていた。オートリキシャを捕まえて、乗ろうとしたちょうどその時、カイラシュさんが仕事を終えて車を置きに戻ってきた。それですぐ乗り換えてESI病院に行った。夜8時に到着した。一日食事も取れなかったミーナさんとプレマさんは、地下にある食堂に行ったが、もう食べ物は残っていないという。しかしプレマさんの状態をみた従業員が同情して、彼らの賄い食を分けてくれた。グリンピースとジャガイモのカレーだった。夫は夜10時か11時頃に病院にやって来た。

翌12月25日3時55分にクニカが生まれた。姑がやってきたのは、プレマさんが分娩室で苦しんでいる時で、10分いただけで帰ってしまった。プレマさんのために食事を持ってきてくれる家族はいなかった。今では私立病院などでは産婦に対して食事を出すところもあるが、そこは政府の病院だった。下の食堂はあったが、通常産婦は軽い食事を取るべきとされている。同じ時に入院していたシク教徒の家族が、出産した嫁のために作ってきたキチュリ(お粥)をプレマさんにも分けてくれた。十分に食べていないため母乳もでない。泣くクニカのために、ミーナさんはチャイ用のミルクを下の食堂からもらってきて、それを冷まして与えるしかなかった。羊水を飲んで具合が悪くなったこともあり、クニカは一晩中泣き続けた。

12月26日に退院となった。夫はその場にいたが、家に連れて帰るとは一言も口にしなかった。それで、オートリキシャでスクデヴ・ビハールのミーナさんのところに皆で戻った。このオート代もミーナさんが出した。家に着くとすぐに、ミーナさんは新生児用のミルク缶を買いに行った。夫は15日に一度会いに来た。クニカがよくミルクを飲むことに対して夫が言ったのは、「こんなにミルクを飲むなんて、どこから金を調達すればよいのか。」ミーナさんは、自分が買って飲ませるからと答えた。

そうしているうち、夫は婚家の上に部屋を作って3人で暮らすと言い出した。そのためにミーナさんが運転手さんから2万ルピーを借金して、さらにプレマさんの金のネックレスと腕輪を売って必要な資金を作った。部屋に必要なもの全て、ガスのシリンダー(調理に使う)から箒まで全部ミーナさんが用意した。1997年の3月頃には新しい部屋は完成していた。結婚の際にダウリ(婚資)としてプレマさんが持ち込んだソファーなども上の部屋に移した。しかし宝石類は下の母屋に置いたままだった。それが一番の失敗だったとプレマさんは言う。

ホーリーの後、婚家に戻るべく米、ダール(豆)、クニカの服、ミルクなど全て用意が出来た。ところが、ある日、用事があるからと戻った夫が、家族の諍いから蚊退治の薬を飲んでしまう。夫が戻ってこないので心配したプレマさんが電話をすると、電話を取り付いてでくれる近所の人が、夫が入院したことを教えてくれた。夜中、大雨のなか、生後3カ月のクニカを抱いて、3人でオートで病院まで行った。夫の家族はいたが、こんな夜中に赤ん坊を連れてきてと非難され、一旦は家に戻った。翌朝、朝ごはんを用意して再び病院に行った。途中、外にご飯を食べに行ったプレマさん達が戻ってみると、夫は違う病棟に移っていた。カイラシュさんの家族も見舞いに来てくれた。しかし、夫の家族はミーナさんが何かおかしなものを食べさせたと非難し始めた。蚊退治の薬を飲んだ夫も、死ぬつもりではなく、ただミーナさんやプレマさんを脅かすために飲んだのだという。プレマさん曰く、そもそもこの薬は強いものではなく、まがい物も多いので死ぬなどということはありえないのだそうだ。

夫はすぐに回復したが、プレマさんが作ったばかりの新居に戻ることについては、夫婦喧嘩の結果、毒を飲まされたり、焼かれたり、首を吊らされたりした妻の事件に関する新聞記事を見せて、暗にプレマさんが婚家に戻ったらどうなるかわからないぞと脅したという。とにかく一度話し合うということで、向こうが指摘したある日曜日、カイラシュさん家族も伴って婚家に出かけて行った。さらに行く前に、電話でこれから行くからと伝えた。しかし着いてみると、夫やその兄弟は在宅しておらず、話し合いは出来ないという。プレマさん達は怒って戻ってきた。その後電話をしたミーナさんに対して、夫は極めて汚い言葉で悪態をついた。そこでカイラシュさんの奥さんが知り合いの社会活動家に連絡をしてくれ会いに行った。事情を聞いた社会活動家は、裁判を起こした方がいいと言った。その忠告に従いプレマさんはパティアラ・ハウスに訴えを起こした。1997年4月のことである。プレマさんが求めたのは、クニカの養育費だった。それを支払いたくない夫側が起こした訴訟(プレマさん、クニカの同居を求める)がティース・ハザリの裁判所で始まった。

パティアラ・ハウスの裁判では、夫は1万ルピーの慰謝料を払うから離婚しろとも言ってきた。しかし1万ルピーで一体何ができる? 部屋を作ってやっただけでも2万ルピー以上かかっている。またその頃警察の女性担当室での訴えもしており、警察(女性警官)は5000ルピーの支払いをプレマさんに求めていた。

最終的にパティアラ・ハウスの裁判で養育費6万ルピーと、ティース・ハザリの裁判で離婚を勝ち得た。夫側家族は、クニカに会うことも、引き取ることも求めなかった。子供はアシュラム(ヒンドゥ教徒の共同道場)に入れろといったくらいである。幼かったクニカは愛らしい子供で、裁判所の警官を始め皆が可愛がってくれたのに、夫側の家族は一度たりともそんなそぶりを見せなかった。離婚が成立したのは2004年のことである。6万ルピーのうち、弁護士に払った1万ルピーとそのほかの費用5000ルピーを除いた4万5000ルピーをクニカの名前で定期預金にした。8%の利息で、6年経った現在6万7000ルピーになった。以前に比べると利率はすごく悪くなったという。ちなみにプレマさんによれば、郵便局の貯金のほうがずっと利率が良いのだそうだ。こういう情報をプレマさんは、旧知のスクデヴ・ビハールのサリー屋の主人から得たと言っていた。1990年以前(つまり経済自由化以前)の利率は、5年で5万ルピーが倍増するくらい良かった。

裁判が終わり、離婚するまでは考える時間として2、3カ月の猶予が与えられた。最後に裁判官が、他に何か望むことがあるかと尋ねた時、クニカが「これ以上何も望むことはない」と言った。

12年前からプレマさんも、日本人の若い社員のところで家事労働者として働くようになった。しかしこの家族は大変だった。夜遅くまで働かなければならなかった上に(その頃スクデヴ・ビハールの近くの道では、女性が襲われる事件が頻発していた)、1カ月経っても2カ月経っても給料を支払ってもらえない。一度は社長夫人が注意して給料を支払ってもらえたが、また同じことが続いた。「とにかくけちな夫婦で、周りのみんなが苦労していた。」結局、社長がプレマさんもミーナさんと一緒に働くよう言ってくれた。幼かったクニカが母親を求めて泣くのを、社長夫人は見たくなかったのかもしれない。その頃のクニカは、社長夫人が教えてくれた日本語も覚えていた。「あーがり目、さーがり目とか。」

5年前から、全ての借金から解放された。それまでは裁判の費用やミーナさんの手術やら常に借金をしている状態だった。「でも今、自分はそれなりに幸せだなあと思える」とプレマさんは言う。以前はお金が無かったから、金を使う行動をすることが不安だった。4歳くらいの時、クニカはマクドナルドのハッピー・ミールのおまけが大好きだったので1カ月に1度は連れて行った。当時ハッピー・ミールは60ルピー。しかしミーナさんとプレマさんは何も食べなかったという。また中で食べると、クニカが他の物をほしがるかもしれないので、いつもテイク・アウトにしていたという。旅行なんて行った事もなかった。裁判が終わってから行ったジャムー・カシミール州のヴァイシュノ・デヴィ寺院(ヒンドゥ教徒の有名な聖地)が生まれて初めての旅行だった。

「女だけの家族で何ができるという人もいるけれど、今、自分達は自分の力で何でも出来る。」とプレマさんは言う。先日、ミーナさんの具合が悪くて入院した時、全てプレマさんが対応した。プレマさんの友人は「男性が家族にいないのに、よく対処できたわね」と言った。夜、救命病棟の外で一晩中1人で過ごしたが、怖いとは思わなかった。知り合いで、お金はあるのに女1人では病院に行けないという人がいる。「健康が一番。健康でありさえすれば、こうして働いて生きていくことができる。」

クニカの将来については、クニカが望む限り勉強させたいと思っている。「自分自身はあまり教育を受けなかったけれど、クニカがやりたいことを、私達2人でサポートしてやりたい。」具体的に何をしたいかは、10年生になった後で決めていくことになるだろう。クニカがいくら稼げるようになるかは問題ではない、経済的に自立してほしいとだけプレマさんは願っている。「娘でなくて息子がいればよかったのにねと言われると、すごく腹が立つ」とプレマさんは言う。「今の時代、どこでも女の子が活躍している。コモンウェルス・ゲームズ(英連邦総合競技大会、2010年10月にデリーで開催された)だって女性選手が沢山金メダルを取ったでしょう。」「学校に行くと先生達がクニカのことを『神が与えてくれた贈り物』と褒めてくれる」のがプレマさんにとって心からの自慢である。ミーナさんの入院をきっかけに、クニカは家事も大いに手伝ってくれるようになった。

将来、あと一つだけ望むとしたら、小さくても良い、自分達の家が欲しいということである。公務員だったらローンが受けられるのだが。でも3、4年後、ワンルームでも良いので、家を買いたいと思っている。ノイダのような遠くでなく、近くがよい。デリー開発公社(DDA)のアパートであればローンが受けられる。毎日、新聞で良い物件がないか気をつけて読んでいる。デリーでは、自分の家があるだけですごいことだ。

「後はもう何も望まない。神が全てを与えてくれたから。」


クニカ
クニカが生まれたのは1996年12月25日、今年14歳になる。今GLT Saraswati Bal Mandirという英語ミディアムの私立学校の8年生である。

この学校は、幼稚園(NurseryとKindergarten:KG)が各1年、その後12年生まである男女共学の学校である。クニカは、KGからこの学校で学んでいる。クニカのクラスには41人、8年生は5クラスあるという。

「4年生の時が一番良かった。最終試験で1位にもなったし、参加したいろんなコンクールでも賞をもらったから。」例えば、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』のような叙事詩を読んで質問に答えたりするようなコンクールである。

今習っている教科は、ヒンディー語、社会(social studies)、サンスクリット、理科、英語、数学、それ以外に音楽、図工(drawings)、家庭科(home sciences)の三つから一つを選ばなければならない。以前、女子学生は図工を選択できなかった。今は申請書を出せば選ぶことができる。また家庭科については今も女子学生しか取っていない。男子が取ると皆が笑うような風潮はある。以前は男子学生も選択することが出来たのだが、今は選択できないように変わったようだ。家庭科は実技が多いので、授業料が少し高い。それからコンピューターと図書館、これは誰もが取る。図書館ではカードを作ってもらい、本を借り出すこともできる。図工は、先生が厳しいと聞いていたこともあり、クニカは音楽を選択している。

クニカが好きなのは社会である。社会には、歴史、公民、地理の3つが含まれる。歴史の授業では頭の良い子でも居眠りしてしまうくらい退屈なところもあるが、クニカは3つともおもしろいと思っている。今、歴史で習っているのは「女性、カースト、社会改革」である。サティ(寡婦殉死)や女性の教育の問題を学んでいる。昔に比べると女子の教育については随分改善されたでしょう?と聞くと、「昔は、女の子を家の外に出さず、家の仕事だけをさせていた。お金もかかったから、結婚して嫁いてしまう娘を教育しようという人も少なかった。でも今は政府も、給食や教科書を無料で支給したり、いろんなプログラムを実施している。」

クラスは女の子が多いので、殆どの子と仲が良い。でも一番親しいといえるのは3人で、うち2人は年子の姉妹である。KGから一緒に勉強してきた。

クニカはとても成績が良いが、インドの大抵の子が通っている塾には行っていない。「塾で勉強するのは快適でないから」とクニカは言うが、自分で勉強するこつを知っているのである。どうやって勉強することを覚えたの、誰が教えたの?と尋ねると、「お母さん」という答えが返ってきた。「小さい頃、2、3年生の頃はすごいいたずらっ子だった。でもお母さんが苦労して説明し、叱りながら自分を勉強させた。」「そのうち段々大きくなって、自分がよい成績を取ると先生が褒めてくれる。それが嬉しくて、もっと頑張ろうという気になった。子供ってそんなもんでしょう?」

父親についてどう考えている?何か覚えている?と聞くと、「あんまり覚えていない。小学校1年の頃までは、お母さんは『父親は死んだ』と言っていた。つまり離婚したとか言わなかった。後になって裁判所に行かねばならなくなってから、そのために学校を休まなければいけないことが増えた。私はそれがすごく嫌だった。だからある日、お母さんに、裁判は必要があれば将来、自分が大人になったらするから、今はもうやめてくれと頼んだ。勉強にも影響が出てくるし。」「訴訟は6、7年は続いたと思う。1カ月に5、6回は裁判所に行かなくてはならなかった。」

友人には父親は死んだという話のままにしてある。プレマさんに真実を話した方がいいか尋ねたところ、インドでは離婚した女性に対する見方は悪いので、そのままにしておいた方がよいと言われたからである。

裁判に出ていてお母さんの問題が理解できたの?と聞くと、「う~ん。一つだけわかったことは、弁護士が『裁判で勝とうが負けようが、クニカは母親のもとに行くだろう』と言っていた事。私達の前にも離婚のケースで自分よりも小さな女の子が『お母さん、お母さんと』泣きながらお父さんのそばに座っているのをみたことがある。全てのお母さんが子供を欲しがっているわけではなかった。」

裁判はクニカにとっても大変な経験だった。「裁判をやっていて、父親が母親に対してひどい振る舞いをしたことを知ったから、父親を見ると怒りを覚えた。父親の姿を見ると嫌な気持ちがした。」

今は裁判が終わって、安らかな気持ちになった?と聞くと、「う~ん。私は弁護士になって自分で再度裁判を起こそうと思う。ただ、お母さんがそれを望むかどうか、それ次第。」

クニカは、公民の授業の中で、『法律を理解する』という章を勉強した。「お母さんは、夫が悪いという声を挙げた。でもインドには声を挙げられない女性達が沢山いる。」「家庭内暴力に関する授業もあった。2005年に法律ができてから少しはましになったけれど、ダウリを巡って、姑が嫁に火をつけたというニュースがしょっちゅうあった。」

今言ったような勉強、同級生はみな理解できているの?と尋ねると、「オウムのように理解しないで、いわれたことをそのまま暗記する子も多い」という。

同級生の9割が塾に行ったり家庭教師についているが、クニカは一度に20人とか25人が勉強する塾の方式は自分に合わないと感じている。1年生の頃、プレマさんも塾に入れたほうが良いのではないかとクニカを塾に入れた事がある。しかし結果は良くなく途中でやめた。「塾漬け(tuition-addict)の子は、理解なしに暗記する傾向が強いと思う」とクニカは言う。「理解するためには、あるいは他の人に説明するには、まず自分の頭で考えなければならない。塾依存症の子は、あらゆることに塾が必要になる。」

今、何が好き?「読書、音楽、絵を書く事。」

プレマさんによれば、クニカはクッキーが大好きで、特にチョコレート風味のクッキーは朝から食べる程だという。