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トルコ「らしくない」クーデタの試み:背景と今後

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049667

2016年7月
はじめに

7月15日クーデタ未遂事件は、軍部内で(国内最大のイスラム運動である)ギュレン派に繋がりのある大佐級の将校たちが中心となって引き起こされたと見なされている1。直接の引き金は、ギュレン派将校を粛清するための大幅な逮捕拘束が7月16日に予定され、それを察知した対象将校が決起したことである(対象将校の人事異動は8月末の最高軍事評議会で予定されていたが、それを待たずに対象将校を逮捕拘束することをレジェップ・タイップ・エルドアン大統領[2014年までは首相]が提案した)2

同事件は、2つの点でトルコらしくなかった。第1に、トルコではEU加盟のための民主化改革や後述する軍部の粛清により、クーデタはもはや起きえないとの見方が支配的であった。第2に、クーデタ勢力が市民、警察組織や国会、他の政府機関を攻撃して160人以上の死傷者を出し、大統領や首相の殺害も狙うなど、トルコが過去に経験した3つのクーデタと比べて遙かに暴力的だった3。本レポートでは、このような異常事態を生んだ公正発展党(AKP)政権とギュレン派の関係と、同事件がトルコ政治に及ぼす影響について考察する。

国家機構へのギュレン派浸透

ギュレン派はAKP政権の第1期目から2期目にかけては同政権にとって最大の政治的同盟者だった。AKP政権の第1期目(2002-07年)は、世俗主義国家エリートを形成する軍部と上級裁判所がAKP政権に世俗主義を遵守させるべく政治的圧力を及ぼした。エルドアン首相は、政権成立間もない時期に世俗派エリートとの不必要な摩擦を避ける一方で、対抗策を準備していた。すなわちAKP政権は2004年の8月の国家安全保障会議で軍部がイスラム運動ギュレン派への取り締まりを求めると、これに同意を示しながらも、同派を警察組織に浸透させた4

憲法裁判所、行政裁判所、最高裁判所などの上級裁判所の長官は世俗主義を遵守するよう度重なる警告をAKP政権に対して発していた。AKP政権は2004年、最高裁判所の長官や他の判事の汚職疑惑を指摘し、これらの判事を辞任に追い込んだ。そして2005年、判事検事最高委員会での任命権限を司法大臣に与える法改正を行ったうえで約4000人の判事・検事の人事異動を実施し、下級裁判所でのAKP政権の影響力を強めた(Özalp 2010, 77-82)。

2007年総選挙での圧勝(得票率46%)で信任されたAKP政権は第2期(2007-11年)以降、それまで控えてきた同党の政策課題、すなわちイスラム的価値の推進を実現すべく、世俗主義国家エリートの影響を削ぐための法改正や(ギュレン派を利用しての)訴追を実行した。軍部については、前政権のときから、EU加盟交渉を開始するための条件として文民統制を強めるための憲法・法改正が行われてはきた。国家安全保障会議での文官・武官比率の引き上げや国家機構人事での軍部の関与の廃止、軍事予算の透明化などが2004年までに達成されている(間 2006)。これらの改革はトルコ社会における軍の政治介入の正統性を弱めたものの、2007年大統領選挙をめぐって起きたような、軍の政治介入を阻止することはできなかった。エルドアン首相はより強力な「改革」に舵を切った。

ギュレン派による軍部粛清と同派将校昇進

軍部内で同政権に距離を置く勢力を粛清することを狙ったのが将校らを対象にした一連の訴訟である。ギュレン派の検察と判事が2007年以降、退役・現役軍人に加えて世俗主義の大学学長、マスコミ関係者、知識人、実業家を、捏造証拠(すべてが電子媒体)をもとに政権転覆未遂容疑などで逮捕、長期勾留したうえで複数の裁判にかけたのである。2012年の「鉄槌」裁判では330名に16~20年の禁固刑判決、2013年の「エルゲネコン」裁判では275名に有罪判決(うち19名が終身刑)が下された5

この間、2011年7月には裁判の不当性への暗黙の抗議として国軍参謀総長と陸海空司令官という国軍の参謀が(憲兵隊司令官を除いて)総辞職し、2011年1月にはバシュブー元国軍参謀総長もテロ組織指導者との容疑で勾留された。その後、2013年12月以降にギュレン派とAKP政権の間での対立が表面化して司法府からギュレン派が部分的に排除された後に2014年3月と6月にそれぞれ「エルゲネコン」、「鉄槌」裁判判決について憲法裁判所が長期拘留、証拠不充分などを理由に釈放命令を下したが、起訴されていた将校は昇進停止や定年退役を余儀なくされたほか、特に海軍の将校が大量に離職した。

AKP政権に距離を置く高級将校が抜けた軍部は政権に対してより恭順を示すようになった。エルゲネコン、鉄槌などの訴訟の真相が明らかになっても、この長い訴訟の過程で軍部は政治的影響力を失っており、結果としてトルコ政治での文民統制が確立したようにも見えた(Aydinli 2011, Bardakçi 2013)。しかし実際には、退役将校に代わって昇進した将校の中にはギュレン派が多く含まれており、それらの将校が今回のクーデタ計画の中心となった。

おわりに

高級将校が大量に離職・退役してすでに弱体化していた軍部は今回の事件でさらなる打撃を受けた。クルディスタン労働者党(PKK)やISからのテロ・越境攻撃にさらされている軍部は最も困難な時期を経験している。軍部内で約3000人が逮捕拘束された。このうちすべてがギュレン派ではなく、ギュレン派である上官の命令ないし説得に応じて反乱に参加した兵士も含まれる6。今回の事件に伴う軍部の粛清は短期的な人材不足を生むものの、長期的には軍部の凝集性強化と命令系統の正常化をもたらすであろう。

クーデタ後、司法府に対してもクーデタ関与の理由で約3000人の判事の拘束決定が下された。これは(クーデタ未遂の前から計画されていた)司法府への親AKP検事・判事任命を加速させ、エルドアン大統領体制の権力集中に資するであろう。さらに一般市民が大統領の呼びかけに応じて街頭に繰り出して反乱軍に抵抗したことは、政権が国民の支持を得ているとのエルドアン大統領の主張を支え、その政権基盤を強化しよう。

他方、今回のクーデタではエルドアンは国営放送が占拠された状態で、彼が反政権的と糾弾してきたCNNTurkのテレビ番組に携帯電話で「生出演」して国民に決起を呼びかける機会を得た。事態収束後に、エルドアンが数少ない中立的メディアに対する態度を軟化させるかどうかは予断を許さない。ただ少なくとも、彼が本来のトルコ「らしい」言論・報道の自由から大きな恩恵を受けたことに多くの国民が証人となった。

(2016年7月17日脱稿)

参考文献


  • Avcı, Hanefi. 2010. Haliç'te yaşayan simonlar . Ankara: Angora.
  • Aydinli, Ersel. 2011. "Ergenekon, New Pacts, and the Decline of the Turkish "Inner State"." Turkish Studies no. 12 (2):227-239. doi: 10.1080/14683849.2011.572630.
  • Bardakçi, Mehmet. 2013. "Coup Plots and the Transformation of Civil–Military Relations in Turkey under AKP Rule." Turkish Studies no. 14 (3):411-428. doi: 10.1080/14683849.2013.831256.
  • Özalp, Hüseyin. 2010. Kuşatılan yargı, Togan Yayınları . Kocamustafapaşa, İstanbul: Togan Yayıncılık.
  • Şener, Nedim. 2009. Ergenekon belgelerinde Fethullah Gülen ve cemaat, Güncel Yayıncılık . Istanbul: Güncel yayıncılık.
  • Taşcı, İlhan. 2011. İlahi adalet . İstanbul: Cumhuriyet Kitapları.
  • 間 寧. 2006. 「視点 トルコのEU加盟交渉開始」『現代の中東』 (40):11-15.
脚 注

  1. ギュレン派とは、フェトゥッラー・ギュレン師(1999年より米国に在住)を指導者とする漸進的イスラム主義でその主張から穏健派と見なされてきた。奨学金、学生寮、進学・学習塾で官僚候補学生を勧誘、また約150カ国に各種学校を開設しトルコ文化を普及、貿易を促進してきた。政治的には時の与党を支持して利益確保することを原則としてきた。AKP政権の後ろ盾で司法府と警察に2004年以降浸透し、捏造証拠による拘束・裁判で世俗主義者を粛清してきた。「エルゲネコン」・「鉄槌」裁判はエルドアン首相の目にもやりすぎに映るようになった。ギュレン派はAKP政権が秘密裏に進めていたPKKとの和平政策にも反対、秘密交渉盗聴をインターネットに漏洩した。2012年以降、エルドアンとの対立が表面化したのが、ギュレン派が握る検察が国家情報局長らを訴追した事件である。さらにエルドアンが2013年11月に進学・学習塾閉鎖を決めてから対立が激化し、同年12月にはAKP政権に対する汚職捜査が検察により開始された。しかしAKP政権は司法府と警察での大量の人事異動と逮捕拘束などにより汚職捜査を潰した。
  2. Ahmet Şık, "Darbenin perde arakasını anlattı," Cumhuriyet , 15 Temmuz 2016. 2016年7月17日アクセス。
  3. 過去の(成功した)1960年、1971年、1980年の3つの軍部クーデタは 、少なくとも表面上は国軍参謀総長を最高指導者として軍部が一体として決行するとともに、圧倒的な武力を威嚇として使い、流血を避けた(しかも1971年は軍部が首相に退陣を書簡で要求して、これに首相が応じた「書簡によるクーデタ」だった)。また1960年には独裁化した文民政権の排除、1971年と1980年は治安回復を大義とし、国民からも支持を得た。ただし、3つのクーデタ後の軍事政権下の裁判では多くの政治家や一般市民が投獄、拷問、厳罰を受けたことも事実である。これ以外にしばしばクーデタとして言及される1994年および2007年の「クーデタ」はいずれも武力を背景に政府退陣を強いたわけではなく、前者は軍部が政府にイスラム派取り締まりを強要、後者は大統領候補について軍部が拒否感を表明した事件である。また軍内部の支持を得られずに失敗したクーデタとしては、1963年のタラット・アイデミル大佐によるクーデタがある。
  4. Abdülkadir Selvi, "Cemaat ve dershaneler," Yeni Şafak , 2 Aralık 2013,
    http://www.yenisafak.com/yazarlar/abdulkadirselvi/cemaat-ve-dershaneler-42833 . 2016年2月19日アクセス。
    "Kavganın bilançosu," Cumhuriyet , 5 Aralık 2013. 実際にはギュレン派の警察への浸透は1987年に始まっていたとされる(Şener 2009, 55-134)。元警察官僚の証言としてはAvcı (2010)を参照。
  5. 2009年1月にサビフ・カナドール元最高裁判所検察長官が自宅捜索後に勾留されると、判事検事最高委員会はエルゲネコン訴訟での強引な捜査を疑問視し、捜査の最高権限者であるイスタンブル検察長官と同副長官に事情説明を求めたが、両者は捜査担当検察官たちが彼らの警告に聞く耳を持たず、特定のグループのために働いている印象を持ったと証言している。また判事検事最高委員会の一人は、司法府においてエルゲネコン訴訟や鉄槌訴訟のように検事が組織的かつ計画的に事を進めることはあり得ないとしている(Taşcı 2011, 29-35)。
  6. "Eski Genelkurmay Başkanı Başbuğ'dan darbe açıklaması," Cumhuriyet 16 Temmuz 2016.