IDEスクエア
世界を見る眼
ナジブ首相の7億ドル受領疑惑とマレーシアの政治危機(1)
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049541
「マレーシア首相ナジブ・ラザク個人のものとおぼしき口座に対する7億ドル近い資金の流れを、政府系投資ファンドを調査中のマレーシアの捜査官が補足した1」
7月2日に『ウォール・ストリート・ジャーナル』(電子版。以下WSJと略)がこう報じてから1週間が経過したが、真相はいまだ解明されていない。ナジブ首相はこの報道を、自身と対立するマハティール元首相が外国勢力と結託してでっち上げた「最新の嘘」だと主張している2。
日本円にして840億円にものぼる資金を、不透明な取引を通じて実際にナジブ首相が得ていたのだとしたら、これはきわめて深刻な汚職事件であり、マレーシア政府に対する国内外の信用を揺るがす問題である。一方で、ある銀行関係者がいうように3、WSJが捜査当局から得たと主張する書類が偽造されたものだとしたら、誰かが誰かを貶めようとする謀略、あるいはきわめて悪質な悪戯に、政界とマスコミが振り回されただけということになる。あるいは、ある著名ブロガーがほのめかしたように4、巨額の資金の授受があったのはたしかでも受けとったのはナジブ首相ではないとしたら、「捜査情報」のリークは無実の首相を犯人に仕立てようとする陰謀の一環だということになる。
いずれにせよ、これが悪戯でないかぎり、政府・与党内の深刻な権力闘争を反映した事件であるのは間違いない。重大な疑獄事件に発展する可能性があることから、すでにマレーシア政府の信用は傷ついている。7月6日に通貨リンギの対ドル・レートが、2005年に固定相場制を解除5して以来の最安値を記録したのは、そのことのあらわれといえる。
はたして、この事件は今後どのように展開していくのだろうか。いまはまだ確かな情報が少なく、多くの憶測が乱れ飛んでいる状況であり、ことの真相はわからない。それでも、7月7日にWSJがウェブサイトで公開した書類6と関連報道とをつきあわせてみれば、起こりえた出来事のシナリオを多少は絞り込むことができる。問題の深刻度を鑑みれば、いまの時点でそのような作業をおこなっておくのも無駄ではなかろう。以下で示すのはその作業の結果である。
1.報道された資金の流れ
今回のスキャンダルは、政府系投資会社ワン・マレーシア開発(1MDB)の乱脈経営に関する捜査を通じて明るみに出たものである。1MDBは、2009年にナジブ首相兼第1財務相がイニシアティブをとって設置したファンドであり、首相が経営諮問委員会の委員長を務めている。昨年、1MDBが深刻な資金難に陥っていることが発覚し、年が明けると海外メディアなどによって乱脈経営の実態が暴露された。3月に法務長官府と警察、汚職対策庁が合同タスクフォースを設置して調査に乗り出し、6月には中央銀行のバンク・ヌガラも調査に加わっていると発表した7。バンク・ヌガラはのちにタスクフォースにも加わった。WSJの報道は、こうした調査の情報にもとづくものである(1MDBの乱脈経営問題については次回の記事で解説することにしたい)。
報道によれば、ナジブ首相のものとされるAmIslamic Bank本店(クアラルンプール)の三つの口座に対して、二つのルートを通じて資金が流れた。ひとつは、英領ヴァージン諸島を所在地とするTanore Finance Corpがもつ、スイスの銀行Falcon Private Bankのシンガポール支店の口座からのルートである。2013年3月21日と25日に、あわせて6億8100万米ドルがこの口座からAmIslamic Bankの口座に送金された。Falcon Private Bankは、1MDBと深い関わりをもつアブダビの投資会社International Petroleum Investment Company(IPIC)が所有する銀行である。
もうひとつのルートは、1MDBの子会社として設立され2012年3月に財務省に移管されたSRC International社からのものである。資金が同社からナジブ首相のものとされる口座に移るまでに、二つの会社をトンネルしている。ひとつは、SRC Internationalの関連会社Gandingan Mentari、もうひとつはIhsan Perdanaである。SRC Internationalの役員であるニック・ファイサル・アリフ・カミルがGandingan Mentariでも役員を務めており、かれはIhsan Perdanaの大株主でもある。このルートでは、2014年12月から2015年2月にかけて、あわせて4200万リンギ(1113万米ドル相当)がAmIslamic Bankの二つの口座に流れた。
2. 「証拠」の信憑性
前述のように、WSJは記事の根拠となった書類をウェブサイトで公開している。その内容は以下のとおりである。(1)二つのルートによる資金の流れを表した図3点、(2)Tanore Finance CorpからAmIslamic Bankの口座(口座名AMPRIVATE BANKING - MR)への送金に関わる、中継銀行(米Wells Fargo Bank)からAmIslamic Bank宛ての送金指示メッセージ(MT 103)2点、(3)Ihsan Perdana社が口座をもつAffin Bankに提出した、AmIslamic Bankの二つの口座(口座名AMPRIVATE BANKING ? 1MYとAMPRIVATE BANKING - MY)への送金依頼書(計3点)、(4)ニック・ファイサル・アリフ・カミルからAmIslamic Bank宛てのレター1点。
これらの書類は、はたして本物だろうか。書類がWSJ、ならびにイギリス人ジャーナリストが主催するウェブサイト「サラワク・リポート8」に流出したことは、それ自体が捜査の対象になっている。7月8日、4機関による捜査タスクフォースを率いるアブドゥル・ガニ・パタイル法務長官は、これらの書類が捜査機関から漏洩したとされているのは問題だとし、この件を捜査対象にするとの声明を発表した。法務長官はいまだ書類の真偽について言及していないが、機密漏洩事件として捜査すること自体が書類の信憑性を裏づけているともいえよう。
WSJが公開した書類のうち、とくに資金取引の書類である(2)と(3)については、偽造されたものとは考えづらい。とりわけ(2)は、中継銀行であるアメリカのウェルズ・ファーゴ銀行が発出したものだから、仮にこれが偽造されたものなら、同行は偽造文書がWSJのウェブサイトで公開されているのを何日も放置しないのではないか。これを偽造だと主張した前述の銀行関係者は、のちに自身の誤りを認めている9。
よって、Tanore Finance Corp がFalcon Private Bankシンガポール支店にもつ口座から、クアラルンプールのAmIslamic Bankの口座(口座名AMPRIVATE BANKING - MR)に6.81億米ドルが支払われたのは事実である蓋然性が高いといえよう。
第2のルートについては、SRC Internationalから Gandingan Mentari経由でIhsan Perdanaに資金が流れたことを示す強い証拠はないが、Ihsan PerdanaからAmIslamic Bankの2口座への送金を示す(3)が偽造されたものとは考えにくい。
最大の問題は、AmIslamic Bankの3口座の所有者がナジブ首相なのか否かである。3口座がナジブ首相のものだと明記された書類は、上記(1)のみである。これが実際に捜査当局から漏洩した資料なのだとしたら、捜査当局の内部において説明用の資料として作成されたものであろう。銀行が保持する書類そのものではないから、3口座がナジブ首相のものであることを示す確かな証拠とはいえない。ただしニック・ファイサルのレターは、彼が3口座の所有者の代理人であることを示すものであり、仮にこれが本物なら、口座の所有者はニック・ファイサルと強いつながりをもつ重要人物だということになる。ナジブ首相は、そうした重要人物の一人である。
このように、これまでにあきらかになった情報によれば、受益者がナジブ首相か否かについては疑問の余地が残るものの、不透明な巨額資金の授受があったのは事実である可能性が高い。また、少なくとも捜査当局とAmIslamic Bankの関係者は、資金を受け取った3口座の所有者を把握しているはずである。
したがって、このまま事態を放置してうやむやのまま終わらせることは許されない。巨額のマネー・ロンダリングにアメリカの銀行が関与していたことになるかもしれないため、米司法当局も関心をもっていることであろう。誰を受益者とするどのような資金取引だったのか。マレーシアの捜査当局がそれを公表するとき、政治的な混乱が生じるかもしれない。あるいは、捜査当局が国内外の世論の納得を得られる合理的な説明を提示できないなら、政府の信頼は失墜することになる。経済にも悪い影響が及ぶだろう。当面は目が離せない状況が続きそうだ。
次回はこのスキャンダルの背景をなす、1MDBの乱脈経営問題について振り返る。
(その2につづく)
脚 注
- "Investigators Believe Money Flowed to Malaysian Leader Najib's Accounts Amid 1MDB Probe," Wall Street Journal, July 2, 2015.
- ナジブ首相のフェイスブック(https://www.facebook.com/najibrazak?fref=ts),2015年7月3日8時10分付の投稿。
- "Top banker claims WSJ fell for 'fraud' bank papers," Malaysiakini, July 8, 2015.
- "Malaysia's First Coup D'etat,” Malaysia Today, July 7, 2015.
- 1997年7月に始まった通貨危機への対応として、1998年9月2日に1ドル=3.8リンギとする固定相場制が導入された。2005年7月21日に解除されて以来、固定相場制期のレートを上回っていたが、7月6日に一時1ドル=3.8045リンギを記録した。
- http://s.wsj.net/public/resources/documents/info-MALPROBE070715b.html
- "Statement on 1MDB," Bank Negara Malaysia, June 3, 2015.
- "Sensational Findings! - Prime Minister Najib Razak's Personal Accounts Linked To 1MDB Money Trail Malaysia Exclusive!" Sarawak Report, July 2, 2015.
- "CIMB Banker Admits Error in Analysis of WSJ’s Documents," The Malaysian Insider, July 8, 2015.