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コラム

研究所という生態系――アジ研からみた世界、世界からみたアジ研

第1回 生態系との邂逅

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049790

吉田 暢

2017年12月

"Thought is great and swift and free, the light of the world, and the chief glory of man." —Bertrand Russell

「理想の研究所」についての妄想

「研究所」というのは、おおよそあまり一般的でない職場なのだろうと、いまさらながら思う。そもそも「研究」って何なのか。それは仕事なのか。おもしろいのか。役に立つのか。食べられるのか。どんな人たちが、なんのために、どんなことを、どんな思いでしているのか、というのは、普段から研究所にかかわりのない人からしてみると、実はよくわからない。

先日とあるところで、「働くこと」について民間企業に勤める人たちとお話しする機会があった。自社の製品を量販店から小売店まであらゆる現場で販売・修理をする会社が、その人たちの職場であった。ひとしきり彼らの話を聞いた後に、私がどんな職場で働いているのかを話した。

分かったような、分からないような……という面々をしばらく眺めながら、なかばあきらめかけていたところに、車座の一人がおもむろにひざを打った。

「つまりは……スパイですね!?」

あたらずといえども遠からずか、似て非なるものか。単に私の説明が拙いからだといってしまえばそれまでだが、やはり一般の人から見た「研究」というものは具体性がみえにくい。

そんな「研究所」に働く私が、同僚や同業者に対して「あなたにとって「理想の研究所」とはなんですか?」とたずねたら、彼らはどう答えるだろうか。ある人は待遇について言う。給料が高いほうがいい、時間に縛られたくない、と(この点はどんな業界でも同じである)。ある人は場所について言う。自然が豊かで静かなところがいい、あるいは逆に都心のビジネス街、官庁街に隣接した便利なところがいい、と(たとえ辺鄙なところであったとしても周辺の自然環境が良いほうがいい、という人が多いのは研究所という職場に特有の条件である)。またある人は組織の制度について言う。研究資金を自由に使いたい、手続きがなるべく簡素なほうがいい、短期的に研究成果を評価することはやめてくれ、と。なかには、同僚に優秀な研究者が多くいて刺激をもらえる環境がいい、と競争的な環境をいう人も比較的多くいる。

これらの要素は、それぞれの視点から真摯に「理想の研究所」とはなにかという問いに答えている。この限りにおいては、給料が高く、時間で縛られず、立地は望みどおりで、中長期の成果のみを評価され、研究資金も自由に使えて手続きもないに等しく、周囲に優秀な同僚も山のようにいる研究所が、「理想の研究所」である。ただし、バートランド・ラッセルがいうところの、人類にとって最大の価値のひとつである「思考の自由」が保証されている限りにおいて。厳密には、個人の思考の自由を保証するのは国家かもしれないけれど、研究者の思考の自由を保証するのは研究所以外のなにものでもない。その意味では、研究者が自由に思考し、それを公にできる(あるいは場合によってはしなくてもよい)状態を守ることが、「理想の研究所」の絶対条件であるともいえる。

写真:アジア経済研究所

研究所という生態系

こんなことを考えるようになってもう10年以上が過ぎた。考えすぎたので、最近は正直なところちょっと飽きている。おそらく私は、研究所という職場で、研究所そのものを仕事の対象にして勤めているせいで、きっとこんなことばかりを考えてきたのだろう。

まずもって研究者は研究をすることが仕事である。だから、おそらく「自分が研究をする上で」大事なことは何か、という考え方をする。したがって彼らのあらゆる試行錯誤のゴールは「自分にとって望ましい研究ができる」ことである。一方、組織経営を仕事にする私にとっても、究極的には同僚の研究者が「望ましい研究ができる」ことがゴールであるはずだ。ただ、正確には「研究者が望ましい研究ができる状態、それを可能にする環境をつくりだす」ことが直接的なゴールなので、どうしてもその装置としての研究所そのものをどうにかすることが仕事の対象になる。

アジ研に入って間もないころ、先輩から「アジ研は動物園だから」といわれた。新入職員研修のような場面が記憶に残っているのだが、誰に言われたのかは思い出せない。おそらく何人もの人が、同じことを言ったので記憶が混濁しているのだろうと思う。

私が新卒で勤めた会社が、一般に人びとが想像するところのいわゆるふつうの会社、それもけっこう保守的なザ・ニッポンのカイシャ、だったこともあり、まだうら若かった私には、この言葉の意味がまったく分からなかった。アジ研に入った頃には、それ以外にも「こちら側(一般的な企業文化)」と「あちら側(研究所の組織文化)」の間にいろいろなカルチャーギャップがあって、まさに「未知との遭遇」だった。まるで異なる天体にきたかというくらいの環境差を乗り越えるのに相応の時間を要したが、なかでもこの「動物園」の話はいまでも鮮烈に記憶に残っている。なにより「会社=動物園」という発想が当時の私にとってアヴァンギャルドすぎて理解が追いつかなかった。

冗談なのか本気なのか。しかし、よくよく聞いていると、これは過去からずっと語り継がれてきた、比較的歴史のある組織であればどこにでもあるいわゆる故事のような「語り」であるということがわかってきた。このことに気がついた当時の私は、今思えば「組織人類学」とでもいうべき学問の入り口にいたのかもしれない。

先輩諸氏曰く、研究所には好き勝手なことばかりをやっていて全然言うことを聞かない研究者が集まっているという。その様子を動物園のように多種多様な生き物が雑多に飼育されているところ、とかけて、やや自虐的に表現したものらしい。そして私のように事務職で採用されたものは、研究所という動物園にいる動物たちを管理する「飼育係」というわけである。

言われた当初は、素直な若者だったこともあり、「アジ研は動物園」説をすっかり鵜呑みにしていた。しかし少し経った頃から、明らかにそれは違うだろうと違和感を持つようになった。動物園という場所は、動物を生物学的に厳密に分類し、管理し、飼育している。種類によっては日光を浴びさせる時間まで厳密に管理しているらしいし、与える餌の量や種類、時間も事細かに決められている。

ひるがえってアジ研では、どの研究者がどんな生態なのかを「飼育係」はあまり体系的に把握していない。たとえばある国を研究している研究者が何人いるか(ネコ科の大きい動物が何頭いるか)くらいはわかっても、それがライオンなのかトラなのか、ベンガルトラなのかアムールトラなのかを正確に判断するための分類表のようなツールや、体系だった図鑑を持っているわけではない。ましてや、アムールトラはどのように生き、どのように死ぬのかを克明に語れる「飼育係」はいない。むろんベテランの「飼育係」は、長年の経験と勘で、ベンガルトラとアムールトラのちがいを分かっているかもしれないが、本物の動物園のようにシステマチックな研究者の分類、管理(育成)方法などがその目的のために確立しているわけではない。そもそも動物の生態に通じた専門知識を持った「飼育係」が雇われているわけではなく、あくまでも事務の仕事の一環として、画一的なルールを一様に適用して研究所を運営している。ライオンにもゾウにもカワウソにも同じ餌を与えて、同じサイズの檻に入れて、それでよしとしてきた時代があったのであるが、つまり研究所は本物の動物園とはかけ離れた場所であった。

話はこれに留まらない。誰がライオンで誰がトラなのかという区別をすることは、ネコ科の大きな動物という狭い範疇の中を細分すればよいだけだ。むしろ研究所には大型の肉食動物のみならず、あまたの草食動物やひっそりとした樹上を生活の場にしている種、昆虫、さらに自然界においては極めて重要な役割を果たしている無限とも思える微生物も確かに生息している。このことは、研究者自身、研究者同士が一番良く分かっている(そうとは決して認めない人もきっといるが)。あるいは「飼育係」やふつうの人間の常識からみたら「凶暴」だとレッテルを貼られた肉食動物が、実は繊細な一面を持ち、他の動植物との連関の中にのみ生かされている、ということも。それぞれの特徴、実力、ネットワーク、そうしたものを研究者同士が分かり合い、融通しあっているようにみえたものである。

もちろんそこには一定のルール、といっても事務屋が書いた事務運用のためのルールではなく、研究者の間で通用する不文律のようなものがある。その緩やかでありながら厳しい自然の摂理のようなものの中に研究者が生息している様子は、動物園というよりはむしろ大自然の生態系そのものに近い。多様な地域や分野の専門性を持った研究者が、ゆるやかに生息している、研究者同士が互いに認知する区分を超えたネットワークがつながっていることもあれば、ある一定の領域で閉じている場合もある。しかしながらずっとつながり続けたり、閉じ続けたりするわけでもなく、必要に応じてつながったり閉じたりを繰り返しながら、新しい研究という名の生命活動を連綿と生み出していく。そういうダイナミズムを生態系のようだと感じた(ちなみにこの発想は、その少し前に読んだ梅棹忠夫の『文明の生態史観』の影響を大いに受けた)。

つまるところ、自由な思考と公への発信(そして、あえて発信しなくてもよい自由)が保証されていて、自然の生態系にある一定の摂理のようなものに包摂される中で、ゆるやかでありながら厳しい環境が提供される。それが、ひところの私の頭を占めた「理想の研究所」についてのアイディアだった。しかし、自分で妄想しておきながらなんだが、あるころから、それはさすがにちょっとユートピアすぎる、というか物事をあまりに良く描きすぎじゃないかとも思っていることも、正直に告白しなければならない。

著者プロフィール

吉田暢(よしだのぶる)。アジア経済研究所研究企画部に勤務、研究経営(組織経営と研究プロジェクト企画・運営の双方)に従事。MA(Globalisation and Development)。開発途上国・新興国における開発と民間セクターを含めた農林水産品バリューチェーンの関係、サブサハラアフリカにおけるインフォーマルセクターを通じた栄養改善等についての調査研究に従事。著作に"Local institutions and global value chains: Development and challenges of shrimp aquaculture export industry in Vietnam"(Journal of Agribusiness in Developing and Emerging Economies, 7 (3), 2017)、"Improving the Nutritional Quality of Food Markets through the Informal Sector: Lessons from Case Studies in Other Sectors"[共著](IDS Evidence Report 171, 2016)、「貿易における公的な規制とプライベートスタンダードがグローバルサプライチェーンを通じて企業活動に与える影響」(アジ研ポリシーブリーフNo.61,2015年)など。

写真の出典

著者撮影

【連載目次】

研究所という生態系――アジ研からみた世界、世界からみたアジ研