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コラム

スポルティクス! スポーツから国際政治を見る

第3回 ナショナリズムの象徴かそれとも犠牲者か——サッカーと旧ユーゴをめぐる紛争

PDF版ダウンロードページ: http://hdl.handle.net/2344/00050598

今井 宏平・加藤 丈資

2018年10月

サッカー:世界を身近に感じられる教材

世界にはさまざまなスポーツがあるが、最も多くの国でプレーされているスポーツはやはりサッカーだろう。ボール1つあれば1人でも練習できるし、2人いれば試合ができる。元々はイギリスの労働者階級のスポーツだったこともあり、庶民スポーツの代名詞である。一方で、その庶民の熱狂が時に悲劇を生むことがある。

執筆者の一人である今井は中学1年生だった1993年にJリーグが発足したことでサッカーに興味を持ち始めたが、本格的にサッカーを観戦するようになったのは1994年にアメリカで開催されたワールドカップであった。このワールドカップにおいて、コロンビアのディフェンダー、アンドレス・エスコバルがルーマニア戦でオウンゴールしたことが原因で、コロンビア国内で射殺された事件には衝撃を受けた。

このワールドカップを境に、Jリーグよりも世界のサッカーの方により惹かれるようになった。プレーはもちろんだが、例えば、なぜヨーロッパの国であるオランダ代表やフランス代表に黒人の選手が多いのか、アルジェリアにルーツを持つジダンがなぜフランス代表なのかといった社会的な側面に興味を持った。その意味で、今井にとって世界のサッカーは単なるスポーツの枠を超えて、世界を身近に感じられる教材という側面があった。

紛争に翻弄される旧ユーゴ・サッカー

1998年のワールドカップは開催国フランスが開催国優勝を成し遂げたが、このワールドカップでも社会的側面に目が向いた。この大会で3位に輝いたのは、日本戦でも得点を挙げたダボル・シュケル、闘将ゾボニミール・ボバン、チームの頭脳ロベルト・プロシネチキ、正確なセンタリングに定評のあるアリョーシャ・アサノビッチ、快速のいぶし銀ロベルト・ヤルニといった名手をそろえた新興国クロアチアであった1

準決勝で優勝国フランスに1-2で敗北したクロアチアであったが、当時今井が感じたのは、もしユーゴスラビアという国が崩壊していなかったら、ベスト16でオランダに惜敗した新生ユーゴスラビア代表の名手たちがクロアチア代表の選手たちと一緒にプレーして優勝できたのではないかということだった2。ユーゴスラビア代表の名手とは、妖精の愛称で親しまれたドラガン・ストイコビッチ、悪魔の左足デヤン・サビチェビッチ、フリーキックの魔法使い(しかもディフェンダー)シシャ・ミハイロビッチ、寡黙な点取り屋プレドラグ・ミヤトビッチ、早熟の天才デヤン・スタンコビッチ、中盤ならどのポジションでもこなせるウラジミール・ユーゴビッチといった選手たちであった。

しかし、その後、大学で1990年代のユーゴスラビアの内戦を知ることで、それは不可能だっただろうと考えを改めた3。多様性を内包していたユーゴスラビアは、指導者のチトーが亡くなり、各民族が独立を主張すると、それまでの隣人たちがいがみ合うようになっていった。ユーゴスラビアには、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人、さらにムスリムと呼ばれるイスラーム教徒が住んでいた。こうした各民族がいがみ合いを始めたのである。

サッカーは良くも悪くもナショナリズムを反映させるものであり、国家間の亀裂を深める道具として利用されることがしばしばある。その意味では、サッカーはナショナリズムの犠牲者と言えるかもしれない。ユーゴスラビアのあったバルカン半島では内戦がそのままサッカーに持ち込まれたといっても過言ではない。プロシネチキやミハイロビッチはセルビア人とクロアチア人の両親から生まれ、とりわけ難しい立場に立たされた。また、クロアチアの激戦地ブコバル出身のミハイロビッチは兵役の際、民族を記入する欄にセルビア人かクロアチア人かわからず“ユーゴスラビア人”と書いたという。終戦後自宅に帰ると彼の顔だけ撃ち抜かれた写真が大量に残されていた。クロアチア兵の仕業によるものだった4

本稿のもう一人の執筆者である加藤にとっても旧ユーゴスラビアは思い出深い場所である。大学生の時に旧ユーゴスラビア難民支援のNGOに所属し、2カ月程セルビアの首都ベオグラードに滞在した。元々国際協力に興味があった訳ではなく、他の多くのサッカー少年と同様、妖精ストイコビッチ(名古屋グランパスに1994年から2001年にかけて選手として、2008年から2013年まで監督として在籍した)の大ファンであったためである。1999年、ストイコビッチは試合中ゴール後に“NATO STOP STRIKES”と自筆で書かれたアンダーシャツを披露しNATOによるセルビア空爆を批判した。このストイコビッチの行為は、当時国際情勢も良くわからなかった中学生の筆者(加藤)が、将来その現場に行ってみたいと思うきっかけとなった。2004年の日本外務省平和親善大使着任スピーチの中で「スポーツと政治は別」とストイコビッチは述べているが、サッカーの試合の最中での反戦パフォーマンスが認められうるものかどうかは意見が分かれるだろう5

写真:ピクシーの愛称で知られるストイコビッチ

ピクシーの愛称で知られるストイコビッチ
ユーゴスラビア代表最後の監督、イビチャ・オシム

ユーゴスラビア崩壊による、バルカン半島各地での紛争は熾烈を極め、各民族間の対立がクローズアップされた。しかし、かつて東欧のブラジルと呼ばれたユーゴスラビア代表を監督(1986-1992)としてまとめ上げた男がいた。イビチャ・オシム。後に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のジェフユナイテッド市原・千葉を初のナビスコ杯優勝に導き、日本代表監督も短期間務めたその人である。ちなみに2006年ナビスコ杯決勝の相手は、2018年のロシア・ワールドカップ時に日本代表監督となる西野朗率いるガンバ大阪であった。オシムは「西野はいつか代表監督になれる」と予言していた6 。オシム、そして2018年のワールドカップ直前に解任されたヴァヒド・ハリルホジッチ、上述したストイコビッチというように、旧ユーゴ地域の監督は日本に馴染みが深い。

写真:日本代表の監督も務めたイビチャ・オシム

日本代表の監督も務めたイビチャ・オシム

身長191cm、元ユーゴスラビア代表ストライカーは国際政治と紛争の影響を強く受けることになる。オシム自身は現在のボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身である。監督としてのオシムはただただ良いサッカーをする事だけを考えていた。自民族を招集せよという多方面からの政治的圧力に屈することなく、彼自身の理想のサッカーを体現できる選手を招集し出場させた。それがゆえに前述の多くのスタープレーヤー達から尊敬を集めた。

1990年にイタリアで開催されたワールドカップでは準々決勝でマラドーナ率いるアルゼンチンに敗れたもののベスト8進出を果たす。ストイコビッチを始めとした有望な若手が多く、誰もがユーゴスラビアの今後の躍進を信じて疑わなかった。しかし——1991年のスロベニア、マケドニア、そしてクロアチアに続き、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。オシムにとってもユーゴスラビア代表にとっても、そして全ての「ユーゴスラビア国民」にとって悲劇の始まりであった。独立を容認しないセルビア軍が各地で侵攻を始めたのである。オシムの出身地であるボスニアの首都サラエボでも紛争により、多くの死傷者を出した7

こうした事態を受け、どのような権力にも立ち向かう不屈の男オシムは、涙ながらにセルビアの侵攻に異を唱え代表監督の座を辞する事となる。その直後、国連制裁によりスウェーデンで開催される欧州選手権の出場権をはく奪されたユーゴスラビア代表チームは、1998年フランスワールドカップまでの6年もの間国際舞台から締め出された。ちなみに1992年の欧州選手権はユーゴスラビア代表に代わり出場したデンマークが優勝した8

ロシア・ワールドカップでも垣間見えた旧ユーゴと紛争の因縁

2018年ロシア・ワールドカップはクロアチアが決勝に進出し、フランスに敗れたものの準優勝に輝いた。また、中心選手であるルカ・モドリッチはその献身さと閃きが評価され、準優勝国ながらワールドカップのMVPに輝いた。予選で敗退したものの、セルビアも出場し、旧ユーゴ地域がサッカー先進国であることを改めて証明したワールドカップとなった。しかし、その裏で旧ユーゴ地域の紛争の根深さも垣間見えた。それは予選リーグのセルビアとスイスの試合で起きた出来事である。セルビアからゴールを奪ったスイス代表のグラニト・ジャカとジェルダン・シャキリの両者が胸の前で両手をクロスさせた「双頭の鷲」のポーズをとった。ジャカとシャキリはコソヴォにルーツを持つ選手であるが、コソヴォの国民の大多数はアルバニア人が占めている。「双頭の鷲」はアルバニアの国旗に描かれている同国の象徴である。ジャカとシャキリは1990年代のバルカン半島の動乱時にセルビア軍によってコソヴォを追われたアルバニア系移民の息子たちである9。ジャカとシャキリの行為にペナルティは与えられなかったが、セルビアに対する明白な政治的挑発であり、両者がサッカーに政治/ナショナリズムを持ち込んだことは残念でならない。

アルバニア国旗の双頭の鷲

アルバニア国旗の双頭の鷲
サッカーは悲しみを断ち切ることができるか

加藤は大学卒業旅行時(2010年)、どうしても訪れたい施設があった。そこは1984年に冬季サラエボ五輪の会場であったスタジアム。内戦時に戦死者の埋葬地が足りず、墓地として利用されたという場所である。かつて「平和の祭典」と表現される五輪が行われたグラウンドには見渡す限り墓石が広がっていた。写真に残そうという気持ちが湧かないほど、とても、悲しい光景だった。

木村元彦によれば、オシムはインタビューで以下のように述べている10

監督は目も覆いたくなるような悲惨な隣人殺しの戦争を、艱難辛苦を乗り越えた。試合中に何が起こっても動じない精神、あるいは外国での指導に必要な他文化に対する許容力の高さをそこで改めて得られたのではないか。

「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にするときは影響を受けていないと言った方がいいだろう」

オシムは静かな口調で否定する。  

「そういうものから学べたとするなら、それが必要な物になってしまう。 そういう戦争が……」

今サッカーには色々なものが付随しすぎてしまっているように感じる。元々「球蹴り遊び」でしかなかったものが“ナショナリズムの象徴”など多くの役割を背負わされ、経済規模もあまりに大きくなり過ぎてしまった。その人気を計算高く利用する者が存在する限り、これからもサッカーと政治は切り離すことは出来ないのだろう11

それでも、サッカーが本来持つ魅力や可能性は決して損なわれたりはしない。サッカーは人々を繋ぎ、他者への理解を深め、心の成長を促してくれるスポーツである。サッカーを政治から切り離し、本来の持つ魅力を見つめ直すためには何が必要だろうか。まずは我々がナショナリズムとサッカーを切り離し、純粋にスポーツとしてサッカーを楽しむことである。我々に身近な日韓戦を例にとれば、日本サポーターが旭日旗を掲げたりすることや、韓国サポーターが日本統治時代の屈辱をサッカーで晴らすといったような行動を改めるべきである。そして、オシムのような長期的な視野でサッカーの本質を正しく広める指導者の育成も不可欠である。こうした積み重ねがひいては紛争予防と平和構築にもつながっていくのではないだろうか。少なくとも本コラムの2人の筆者はそう信じている。

著者プロフィール

今井宏平(いまいこうへい)。アジア経済研究所地域研究センター中東研究グループ所属。Ph.D. (International Relations). 博士(政治学)。著書に『トルコ現代史——オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』中央公論新社(2017)、『中東秩序をめぐる現代トルコ外交——平和と安定の模索』ミネルヴァ書房(2015)など。詳しくは研究者紹介ページをご覧ください。

書籍:トルコ現代史

書籍:中東秩序をめぐる現代トルコ外交

著者プロフィール

加藤丈資(かとうたけし)。アジア経済研究所開発スクールIDEAS第28期生。2018年9月よりリバプール大学大学院サッカー産業MBA修士コースに進学。

写真の出典
  • ストイコビッチ
    By Meihe Chen [CC-BY-SA-4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.en)], via Wikimedia Commons.
  • オシム
    By Radiofabrik Community Media Association Salzburg - Flickr: Ivica Osim - SK Sturm (1999) [CC BY 2.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/deed.en)], via Wikimedia Commons.
  • アルバニア国旗
    Public domain, via Wikimedia Commons.

  1. 主力の一人であり、イタリアの名門ユベントスなどで活躍したアラン・ボクシッチは、怪我でメンバー入りできなかった。
  2. ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアという共和国からなる国であったが、1991年に解体され始め、2006年に構成国全てが独立した。
  3. 旧ユーゴ地域での内戦に関しては、月村太郎『ユーゴ内戦——政治リーダーと民族主義』東京大学出版会、2006年、佐原徹哉『ボスニア内戦——グローバリゼーションとカオスの民族化』有志舎、2008年を参照されたい。
  4. NPS/PvH(オランダテレビ局)邦題:『引き裂かれたイレブン ~旧ユーゴのサッカー選手たち~』、原題:『The Last Yugoslavian Team』 2000年
  5. 外務省HP:ストイコビッチ平和親善大使スピーチ-西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合- https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/europe/w_balkans/speech_stojkovc.html(2018年8月6日閲覧)。
  6. イビチャ・オシム『考えよ! ——なぜ日本人はリスクを冒さないのか?』角川書店、2010年。
  7. 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店、1996年。
  8. 木村元彦『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』東京新聞出版局、1998年。
  9. 長束恭行「スイス代表2人が表した「双頭の鷲」の意味」『footballista』2018年6月号、87頁。旧ユーゴ地域のサッカーに造詣が深く、多くの良書を刊行しているジャーナリストの木村元彦はジャカとシャキリの行為を非難するとともに、コソヴォは確かにアルバニア人が多数派ではあるが、他の民族も共存しており、両者のポーズはコソヴォの他の民族の存在も否定していると捉えられない行為だと釘を刺している。https://news.yahoo.co.jp/profile/author/kimurayukihiko/comments/ (2018年6月23~24日に投稿されたコメント、2018年8月22日閲覧)。
  10. 木村元彦『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』集英社インターナショナル、2005年。
  11. スティーブ・ブルームフィールド『サッカーと独裁者——アフリカ13か国の「紛争地帯」を行く』(実川元子訳)白水社、2011年。