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コラム

スポルティクス! スポーツから国際政治を見る

第1回 スティーブ・カー(Steve Kerr) 一家に根付く寛容と共生のマインドを胸に

PDF版ダウンロードページ: http://hdl.handle.net/2344/00049724

2017年11月

本コラムは、スポーツを通して、国際政治、比較政治、そして中東地域を理解することを目的とする。取り上げる事例は筆者の造詣が深い(?)バスケットボールとサッカーの話題が多くなることはご了承頂きたい。

NBAにおけるスティーブ・カーの軌跡

ナショナル・バスケットボール・アソシエーション(NBA)の歴史において、最も記録と記憶に残るプレーヤーはマイケル・ジョーダンで間違いないだろう。キャリアの前半は自身のワンマンチームだったシカゴ・ブルズを、リーダーシップを発揮してスコッティ・ピッペンのような若手を一流の選手に育てることで強豪へと押し上げ、90年代にスリーピート(3連覇)を2度達成している。最近のNBAではスターが他のスターを勧誘し、チームを強くする傾向にあるが、真の強豪は生え抜きのスターが若手を育て、のし上がるものである。

シカゴ・ブルズの2度目の3連覇の際に、スリーポイントシューターとしていぶし銀の働きを見せたのがスティーブ・カーであった。カーはその後、NBAにおける名将、グレッグ・ポポビッチ率いるサンアントニオ・スパーズに移籍し(ポポビッチは1996年から現在に至るまで20年以上スパーズのコーチを務める)、そこでも2個のチャンピオン・リングを獲得している。さらにポポビッチから帝王学を学んだカーは、現在、NBA屈指の強豪となったゴールデンステイト・ウォリアーズのコーチを務めており、3シーズンで2度のチャンピオンに輝いた。

写真:スティーブ・カー

このように、カーはNBAの歴史の中でも名脇役、名コーチとして多くの人々に認知されている。しかし、彼が幼少期をレバノンで過ごしたこと、彼の父親が中東研究者として著名であったマルコム・カーであること、そしてスティーブが大学生の時にマルコムはレバノンでテロリストに殺害されるという悲劇に見舞われたことは日本では意外と知られていない(例外は丹波氏のコラム)1

本コラムではマルコムとレバノンの状況からスティーブの辿った軌跡を見ていきたい。

中東とのルーツは第一次世界大戦

カーの家族と中東の深い関係のルーツはスティーブの祖父スタンリーと祖母エルサまでさかのぼる。スタンリーは、第一次世界大戦中にオスマン帝国で起きた、いわゆる「アルメニア虐殺」に際して、アメリカが提唱した国際人道支援、「近東救助」に参加し、トルコのマラシュ(現在のカフラマン・マラシュ)で教師をしていたエルサと出会い、ベイルートで結婚した2。ベイルートでもアルメニア人の孤児の援助をしていたスタンリーは1925年に生物化学の教員としてベイルート・アメリカン大学に就職、1965年に退職するまで同校で働いた。

ベイルート・アメリカン大学はレバノン屈指の名門大学であり、その歴史は19世紀半ばまでさかのぼる3。アメリカの宣教師たちが1862年に大学創設の構想を練り始め、1866年に開校した。当初はシリア・プロテスタント・カレッジという名前だったが、1920年にベイルート・アメリカン大学と改名した。

中東政治の専門家、マルコム・カー

1931年にベイルート・アメリカン大学病院で生を受けたマルコムがアラビア語に堪能であったのは、レバノンで生まれ育ったからである。マルコムがベイルート・アメリカン大学に進み、その後、そこで教壇に立つことになるのは、自然な流れであった。また、マルコムは妻のアンと同校で出会っている。

マルコムはレバノンを中心とした中東の現状分析と、博士論文で扱ったラシード・リダーとムハンマド・アブドゥの著作に代表されるイスラーム思想の分析を研究の両輪とした4。アラビア語を生かし、現地調査を重視した政治学者・地域研究者であった。カーの主著となっているのが、冷戦が中東にも波及し、ソ連が支持する共和主義と米英が支持する君主体制の対立を描き出した『アラブ冷戦』であり、本書は1950年代から60年代のアラブ政治の特徴を的確に捉えた作品として名高い。最近では、イランとサウジアラビアの対立を説明する際に同書のロジックが援用されている5。また、マルコムとベント・ハンセンの共編著『1970年代中東の経済と政治』の翻訳が1976年にアジア経済研究所から刊行されている6

写真:アジア経済研究所図書館の所蔵資料

マルコムはベイルートで高校まで過ごし、その後プリンストン大学に進学、ベイルート・アメリカン大学で修士号、ジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得している7。ベイルート・アメリカン大学で教員となり、その後、カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)で1962年から76年まで過ごした。

スティーブは1965年にマルコムとアンの三男として生まれた。スティーブは幼少期をレバノン、カイロなどで過ごした。カイロ在住時からバスケットボールに本格的に取り組み始めた。ちなみにレバノン出身のNBAプレーヤーとしては、スティーブと同い年で1988年から2000年まで活躍したロニー・サイカリーがいる。ただし、サイカリーは幼少期にギリシャに移り住んでいる。

話をマルコムに戻そう。マルコムは1976年にベイルート・アメリカン大学に戻り、1982年に総長の職務に就いた。中東情勢に詳しく、『ニューヨーク・タイムズ紙』のコラムニストとして著名なアメリカ人ジャーナリストのトマス・フリードマンによると、マルコムは幼いころからベイルート・アメリカン大学で総長になるのを夢見ていたそうである8 。ただ、マルコムがベイルートに戻ってきたのは折しも1975年にレバノン内戦が勃発した直後であった。1983年にはアメリカ大使館爆破事件が起きるなど、当時、中東においてイスラエルの同盟国であり、国際連合レバノン暫定駐留軍にも兵士を送っていたアメリカに対する風当たりは強くなっていた。

悲劇が起きたのは1984年1月18日、ちょうどスティーブが前年9月にアリゾナ大学に進学した時であった。マルコムがベイルート・アメリカン大学に朝出勤した時、春学期の登録のためにキャンパスはごった返していたという。キャンパスの喧騒を抜け、オフィスに向かったマルコムは午前9時10分前後に2人組に頭を銃で撃たれ、血の海の中に沈んでいた9 。容疑者として、イラン革命に共鳴する人物、ヒズブッラー、イスラーム・ジハード、マルコムに大学改革を要求していた学生など、さまざまなグループの名が挙がったが、真相ははっきりしていない10 。マルコムはすぐにベイルート・アメリカン大学病院に運ばれたが、息を引き取った。マルコムは自身が生まれた病院で52年の早すぎる生涯を閉じた。カーの業績を称え、1990年にベイルート・アメリカン大学から『理解への探求:アラブ研究とイスラーム研究におけるマルコム・カーの記憶』が出版されている。この本はマルコムの友人、知人たちの共著であり、サミール・サイカリーによるマルコムへの追悼文、マルコムの業績一覧も収められている11

悲劇に打ち勝て! スティーブとテロ

レバノンで育ち、中学時代はカイロで過ごしたスティーブは、次第にバスケットボールに打ち込むようになり、大学はアメリカのアリゾナ大学に進学した。上述したように大学1年の時にカーは悲劇に見舞われたが、父の葬儀には出席せず、そのままアリゾナに留まり、プレーを続けたという 12。また、4年時の試合の際に、アリゾナ大学の心無い一部のファンが、スティーブのことを「PLO、PLO」と煽り、父親の死を茶化したことがあったが、スティーブは冷静にプレーを続けたという13。NBAでの活躍は上述した通りである。 

バスケットボールとは別に、スティーブは一家のルーツ、長い中東での生活、父の死を受け、テロや移民への対応に対して、明確な意見を持っている。それは、テロにはもちろん反対するが、一方でイスラーム教徒をテロリストと同一視するような風潮に対しては強く反対するというものである。スティーブがそう考えるのは、イスラーム系のテロリストに父を殺害された被害者であると同時に、数多くのムスリムの友人を持ち、その優しさに触れてきたからだろう。スティーブは9・11アメリカ同時多発テロの後にも共生を目指すコラムを新聞に投稿している。また、トランプ大統領の反移民政策に対して、スパーズ時代の恩師であるポポビッチとともに強い懸念を表明している。スティーブは、テロによって父親を失った息子として、反移民政策は反ってアメリカに対する反発を生み出し、恐怖心を抱かせることにつながり、テロリズムの解決につながらないと述べている14

寛容と共生はスタンリーとエルサからマルコムとアンを経て、スティーブと彼の兄弟に脈々と受け継がれている。こうしたアメリカの良識は、カーの一家がベイルートをはじめとした異国で暮らした経験に根差している。アメリカが排除ではなく寛容と共生の方向に新たに舵を切っていくことを願って止まない。

著者プロフィール

今井宏平(いまいこうへい)。ジェトロ・アジア経済研究所 地域研究センター中東研究グループ所属。Ph.D. (International Relations)。博士(政治学)。著書に『トルコ現代史――オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』中央公論新社(2017)、『中東秩序をめぐる現代トルコ外交――平和と安定の模索』ミネルヴァ書房(2015)など。

書籍:トルコ現代史

書籍:中東秩序をめぐる現代トルコ外交

写真の出典

写真1:By Keith Allison from Hanover, MD, USA [CC BY-SA 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)], via Wikimedia Commons

写真2:著者撮影。


脚注

  1. 丹波政義「スティーブ・カー:ウォリアーズ指揮官の知られざる半生」
    http://www.nba.co.jp/nba/masayoshi-niwa-column-39-steve-kerr/5na35qybpgco1ah84bv3sowy2)。
  2. "Golden State Warriors Coach Steve Kerr and the Kerr Family to be Awarded with the 2016 Humanitarian Award at ANCA-WR Gala", American National Committee of Armenia, Western Region, September 16, 2016 (http://www.ancawr.org/kerr/).
  3. ベイルート・アメリカン大学の歴史に関しては、同校のウェブサイトを参照のこと(https://www.aub.edu.lb/main/about/Pages/history.aspx)。
  4. リダーとアブドゥの思想に関しては、末近浩太『現代シリアの国家変容とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年を参照。
  5. この議論の発端となったのがGregory Gause III, "Beyond Sectarianism: The New Middle East Cold War", Brookings Doha Center Analysis Paper, Number 11, July 2014
    (https:/www.brookings.edu/wp-content/uploads/2016/06/English-PDF-1.pdf).
  6. ベント・ハンセン、マルコム・カー(高坂章・伊野武次訳)『1970年代中東の経済と政治』アジア経済研究所中東総合研究資料No.5、1976年。
  7. "Malcolm H. Kerr", American University of Beirut Website (https://www.aub.edu.lb/president/Documents/biographies/Malcolm%20Kerr.htm).
  8. Thomas Friedman, "University Head Killed in Beirut: Gunmen Escape", New York Times, January 19, 1984. フリードマンは当時レバノン勤務であった。
  9. Ibid.
  10. この点に関しては、立命館大学の末近浩太教授にご教示頂いた。
  11. Samir Seikaly, Ramzi Baalbaki, Peter Dodd (eds), Quest for Understanding: Arabic and Islamic Studies in Memory of Malcolm H. Kerr, Beirut: American University of Beirut, 1990.
  12. Chris Korman, "The assassination of Steve Kerr's father and the unlikely story of a champion", USA Today, June 3, 2015.
  13. Ibid. PLOとは「パレスチナ解放機構」の略である。
  14. Des Bieler, "Gregg Popovich and Steve Kerr sharply criticize Trump's travel ban", The Washington Post, January 30, 2017.